第19話 鑑定とアシナガの守護
ノックと同時に、室内に入ってきたのは、身長は百八十センチは超えるであろう大柄の男性だった。髪の毛がやや伸びてぼさついていて、口の周りには無精ひげが散乱していた。表情はなかった。それは、無表情というより、無、であった。入室しても、俺を見るでもなく、宙ぶらりんなどこかを見ていた。その、屈強な腕には、手錠がかけられていて、両脇には三人の男性警察官が立っていた。
「こんにちは。今日、お話をうかがいます、精神科医師の鈴木と申します」
男は無言のまま、ふと時々天井に目をやったりした。
「どうぞ座ってください」
何の反応もない男に対して、一人の警官が「おい」とやや荒げた声をかけた。
「ああ」
ようやく何かに気付いたようで、男は促された椅子に着座した。
被疑者、霞岡夘太郎。四十一歳、男性。容疑は殺人、および傷害である。深夜のコンビニエンスストア内で、居合わせた雑誌を立ち読みしていた五十代男性を、突如背後から首を絞め、男性が抵抗するもそのまま床に押し倒し、馬乗りになりながら首を絞め続けたのである。レジから丸見えの場所だったので、従業員はすぐに気が付き、警察通報したうえで、他の夜勤者と止めに入ろうとしたが、被疑者は馬乗りになったまま振り返りざまに従業員の顔面を殴打、約一週間の外傷を負わせた。男性は窒息による低酸素脳症で、その時点で死亡、警察が現着時点では、被疑者は何事もなかったかのように、足元に男性の遺体が横たわる同じ店内で、本を立ち読みしていた。事の経緯はすべて店内のカメラに録画されていた。拘留中、被疑者が数回の精神科受診歴があったことが発覚し、鑑定依頼となった。受診はいずれも単発で、継続通院はなされていない。診断は、診断名つかずから適応障害、統合失調症、非定型精神病、医療機関ごとで様々で一貫しない。単発の受診ではそれも仕方がない。処方はなされていたが、被疑者は一度も薬局で内服薬を受け取った形跡がない。おそらく処方箋を破棄していたのである。受診先のカルテのコピーには、何度か『おヨネさん』なる単語が出てくる。
俺は、クリップボード片手に、いくつか質問をする。
「店内で起きたことは、覚えていますか?」
「背後から首を絞めたとありますが、その直前は何を考えていたのでしょうか」
「男性とはお知り合いだったんですか。あるいは、どこかで見かけたことがあるとか」
「その場から離れなかったのはなぜですか」
「精神科受診歴が複数回ありますが、どんな理由で受診されたんですか」
被疑者は、微動だにせず、深く椅子に座り、時々かったるそうに、手錠をかけれたままで肩を回す。
俺はいったん質問を諦めた。鑑定ではこういうことはある。数分の沈黙の後に、被疑者が口を開いた。
「本」
唐突で、同室の警察官も驚いた様子だった。
「本、くれへんか。留置場で借りて読んどったやつ。先が気になるんや。きりのいいとこまで読むの、許してくれるんやったら、聞かれたこと全部答えるわ」
「おい、お前――」
一人の警察官がそう言って被疑者の肩を掴んだところで、俺は、
「いいですよ」
と言った。警察官は驚いた様子だった。
何も情報が得られない以上、相手の意向に沿ってみるしかない。どういう反応をするのか見るのである。本当に話す気がなくこのまま終わるなら、『行動は奇異で合目的性も不確かではあるものの、積極的に精神科病状を疑う情報は得られなかった』と文書に書くまでである。この被疑者も、どのみち本鑑定でもっと詳細な検査がなされる。
警察官の一人が、本を持ってきて被疑者に渡した。被疑者は手錠をかけられたままの手でそれを持った。カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』であった。
被疑者は無表情に、手に持った本を開いて、読み終えた個所を探しているのかページを捲った。そしてある個所で手を止め、じっと見入った。字面を追う眼球が、しきりに上下した。かなりの速読であった。
時計の音が、室内に響き渡った。当初は、被疑者の一挙手一投足を注意深く見ていた警察官も、読み始めて三十分経つころには、退屈そうに視線をあちこち逸らし、貧乏ゆすりをするようになった。
俺は、被疑者の顔をじっと見た。今手に入る情報は、それしかないのだ。ちょっとした変化があれば記載しようと思っていたが、眼球と手の動き以外は微動だにしなかった。そうしているうちに、俺は、被疑者の顔が、人間の顔に見えなくなってきた。もちろん、目は二つあり、その下に鼻が一つあり、その下に口が一つある。顔というものを構成するのに必要なパーツは揃い、配置も間違っていない。でも、それだけな気がした。視界に入りそれらしい姿をしているので、なんとなく人間と認識しているような気になっていたが、よくよく自分の感覚を洞察すると、そこには人間らしい存在感を感じることができなかった。
であれば、今目の前に対峙しているこの存在は、いったい何なのだろうか?
ふと首元に、何かが触れたような気がした。瞬間、悪寒が走ったので、俺は振り向いた。背後には誰もおらず、曇りガラスの窓がそこにあるだけだった。俺が姿勢を戻すと、被疑者は何の反応もせずにページに目を落としていた。顔が、曇りガラスを通った陽光に、照らされていた。
『善悪、というものに否応なしに考えを巡らせる時が来る。それも、ゆったりと考える暇なんてない。考えざるを得ない時は、だいたい追い込まれて時間が凝縮されるんだ』
鑑定の師匠の言葉が、また思い起こされる。
『善悪は、法的に白黒つけるのとは別次元だ。鑑定や裁判に関わる誰にとっても、お門違いだ。まして俺たちは精神科医だ。俺たちに判断を許されているのは、病状の有無と、病状と対象行為の関連だけだ。それでも、この仕事をやっている限りは、善悪について考えることになる。絶対善、というものは見たことがない。少なくとも、俺が今まで見てきた善なるものは、みな相対的だ。誰かにとっての善は、誰かにとっての悪にもなりうる。でも、絶対悪、というものは存在する。断言してもいい。悪、という言葉の定義とか、理屈をすっとばして、悪としか表現できない、巨大な無を感ずる時がある。経験を積んだ今でも、俺は、悪の気配に慄くことがある。いいか、その気配をもし感ずることがあったなら、決して追うな。さらりと流して、さっさとその場から去るんだ』
するとその時、突然、被疑者が本をパタンと閉じて、宙に向かって、こうつぶやいた。
「そか、おヨネはん。ほな、やるわ」
その言葉の意味を考える暇もなく、被疑者は錠にかけられた屈強な二つの上腕を、右隣にいた警察官に向かって思い切り振りきった。被疑者の錠と拳が警察官の顎をとらえ、壁に頭をぶつけてそのまま崩れ落ちた。
「おま――」
左隣の警察官が言うが早いか、被疑者は立ち上がりざまにその警察官の胸を左足でけり上げた。最後に残った、被疑者の斜め向かいの席に座っていた警察官が、おそらくは壁に付けられた非常ボタンを押そうとして背を向けたその瞬間、男はバッタみたいな跳躍で飛びかかり、押し倒した。そして馬乗りになり、警察官の耳にかみついた。
痛みに悶える絶叫が、狭い室内に響き渡り、鼓膜を揺さぶった。そして、被疑者は斧を振り下ろすかのように、その両拳を思いきり警察官の顔面に叩きつけた。
あっという間、おそらくは十秒そこそこというくらいで、三人の男が床に倒れこんで動かなくなった。
これ、何?
恐怖や驚愕というものを突き抜け、俺は呆気にとられ、果てはすごいものを見せてもらったと、被疑者に拍手を送りたいような気持に駆られるほど、混乱した。
被疑者が、こちらに視線を移した。
「おヨネはんがな、言うんや。あんたを、殺れ、と。せやから、殺るわ」
被疑者のその腕が、こちらににゅるりと伸びてきた。俺はといえば、まったくもって、身動きがとれなかった。氷河に封されたマンモスのごとく、体が固まってしまって、指先ひとつ動かすことができなかった。
錠をかけられた、その窮屈な手で、被疑者は俺の首にそっと手をかけた。異様な力で首が圧迫されるのがわかった。声は出ない、息もできない、そして頸動脈を完全に塞がれ、脳内の酸素が低下していくのがわかる。つまり意識が薄れるのである。
死、である。
俺は、あるかないのかわからない意識のもとで、壊れたからくり人形のように小刻みに震える右手を、自分の鞄の中に突っ込んだ。
おそらく、助けを呼ばねばならない→呼ぶには電話→電話は鞄の中、という思考過程が無意識に行われたのかもしれない。しかしそれは無駄なことであった。どう考えても、番号を押す前に俺の生命が消える。
ふと、鞄の中に突っ込んだ右手の指先に、何らか硬い物体が触れる。
これは何?
わからない。わからないが、俺は、その硬い物体を、なけなしの力で、しっかりと握りこむ。
生きたいとか、死にたくないとか、そんな考えすら浮かんでこない。俺は、ただ、生物としてのある種の反射のもとで、右手に握った硬い物体を、目の前の被疑者のこめかみに、思い切り打ち付けた。
嫌な感触が、右手から全身に感知された。それは紛れもなく、暴力の感触であった。他人の頭蓋骨を殴打する感触であった。
被疑者の手から力が抜け、俺の首は解放された。脳に血が巡り、意識のもやが少し晴れ、室内を見ると、目前に、左のこめかみから血を流し、小声で呻く被疑者が横たわっていた。
俺は、自分の右手に握られている物体を見た。
それは、いつぞやアシナガがくれた、『作品』だった。拳大より少し大きな石、赤紫と真紅が混ざり合ったまだら模様が描かれている。たしか、タイトルは、『心臓』だった。
『その重みはわたしの存在の重みよ。だからずっと持ってて』
アシナガの言葉が、頭の中で再生される。
『わたしはいつもあなたの傍らにいる。傍らにいて、あなたを守るわ』
ありがとう、と俺は心の中でつぶやく。
そして俺は、息を荒げ体を震わせながら、這うような心持ちでゆっくりと歩き、非常用の呼び出しボタンを押した。
押して三十秒も経たないうちに、他の警察官が複数名部屋に駆けつけた。その姿を見た途端、安堵とともに俺は激しく脱力し、その場に足から崩れて倒れた。
こうして、当初室内にいた四人の人間は、全員倒れたことになる。
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