第18話 木村と片翼の鳥

 生まれてこのかた わたくしは

 いちども目覚めたことがない

 脳はいつでも覆われている

 分厚く鈍麻なビニール袋に

 外の刺激は全部遮断

 内の刺激も全部遮断

 守られているけど生きてない

 安全だけれど生きてない

 呆けが背後からにじり寄る

 脆い心の脆さまでもが

 鈍麻の中に埋もれるならば

 この胸の心臓に

 鼓動を続ける意味はない

 脆さよ どうか居ておくれ

 痛みがあるから生きるのだ

 脆さよ どうか消えておくれ

 痛みがあるからつらいのだ

 二律背反

 分裂の思慕

 されど今日という日は続く

 




 意味は毒

 問うてはならない

 問うて足を止めては

 そのまま沼に 沈みゆく

 ずぶずぶと

 沈まぬためには 止まらぬことだ

 でも問わぬとも

 せめて歩幅を狭めて

 見渡してみよ

 周りを

 己の周りを

 空気より充満した 記号たちがそこにあるだろう

 記号に意味を見いだせず

 記号を記号として

 記号としか認識しない このわたしは

 とうに生存から退いた

 消滅する側の個体だろう

 おやおや 平坦なトーンで呟くのね

 甘受しているのでしょう? その現実を

 甘受?

 冗談じゃない 受け入れてたまるか

 魂をかけて 否と叫ぶ

 大嫌いだと 叫んでやる

 喉が裂けるまで 叫んでやる

 人間は好きだ 記号は嫌いだ

 厭世に塗れて ヘドロになっても

 ぐちゃぐちゃに個体がなくなっても 

 自分が記号になったとしても

 わたしは生身のあなたを 愛してる

 触れられるあなたを 愛してる



「いつもいつも立ちんぼうは疲れないのか」

 俺は深夜の商店街の、降りたシャッターの前に座り、タバコの煙を吸い込む。隣には、片腕で詩を詠む少女がしゃがんで座っている。

「そりゃ、疲れるわよ。帰ったら足が浮腫んでることもしょっちゅう」

「それでも毎日やるんだな」

「それしかやることがないからね。学校も行ってないし」

「学校?」

 少女はどう見ても十代前半から半ばに見える。本来学生身分のはずだ。

「学校行ってないのか?」

「あなたこそ、毎晩ここに来て、よほど暇なのね」

 少女は俺の質問を無視して自分の言葉を発する。

「馬鹿言うな。俺は死ぬほど忙しい。いろいろやることがあるんだ。合間を縫って、やっとこそさここに来ているんだ」

「暇なのね」

 少女は言う。そしてしゃがみ、足元に置いてある自身のリュックサックからチョコレートを取り出して、それも器用に片手で髪を剥いていって、ぱくりとかじりついた。

「暇の毒にやられてる人間の顔してるもん。忙しくしてたって、本当にやりたいことやってない人間は、忙しく考えているようでその実脳みそは動いてないに等しいのよ。ほとんどの人間は脳みそを動かさずに生きてる。あなたも御多分に漏れず」

 俺は少し内省する。こんなガキの言うことは無視すればいいものを。

「まあ、的を射ている」

 結局納得してしまう。

「何故、書く?その、詩なんだかぼやきなんだかよくわからないものを」

「自己慰安なんじゃないの。書きゃなきゃやってらんねえよ、てくらい、わたしの人生とか日常って結構クソだから。せめて書くしかないじゃん。昔、自分で書いた物語なり詩は、必ず誰か他人に見てもらえって、唯一気に入ってた小学校の先生に言われたことがあるから、書いたらここで発表することにしたの」

「よくもまあ、毎日そうやって言葉がうかんでくるものだな」

「書きたいことがなくなったら、死ぬつもりだから」

 俺は思わず煙草を吸うのを止めて、少女に視線を移す。

「死ぬつもりで書いて出てくるのがそれかよ、って我ながら思うし、その時点で死にたくなるけどね。でもしょうがないからね。左腕がないのと同じで、才能もないわけだから」

「表現したいことがあって、それを形にできているんだから、その時点でたいしたものだと思う。それができない人間もたくさんいる」

「ははは」

 少女は乾いた笑いをする。

「慰めてくれるんだ。見た目と違って、意外と優しいんだね。あのさ、わたしが今まで、どのくらい慰めの言葉を浴びてきたか、想像つく?」

「皆目見当もつかない」

「でしょう?そりゃもう、いろいろ言ってくれるわよ。揶揄されたことももちろん多いけどさ、その何倍もフォローのほうが多かったわよ。人間、捨てたもんじゃないわ。みんなって、そんな悪い人達じゃないのよ。善人てわけじゃなくても、そこそこの善意を持ってるの。でもって、そこそこの善意を浴び続けると、こんな風に歪んじゃって、なんだかいろんなことが馬鹿馬鹿しく思えてしまう、嫌な人間ができちゃうってわけ。善意とは悪意と似たり」

「まあ……」

 俺は何かを言おうとするが、少女の醸す何かに気圧されてなかなか言葉が出てこない。

「俺は一応、君の、詩なんだかぼやきなんだかよくわからないものの、ファンと言えなくもない。こうして毎日来ているわけだからな」

「暇なのね」

 少女が再度そう呟く。

 少女がチョコレートの最後のかけらを頬張る。手には溶けたチョコレートがついていて、少女はそれを舐める。

「さっき、書きたいことがなくなったら、死ぬつもりと言ったけどね」

 と少女は言う。

「それは逆に言えば、書きたいことがあるうちは生きてやる、ていうことでもあるのよ。この世界でカウントされない人間であったとしてもね。自分に思惟があって、モノ申したいことがあるうちは、生きて、書いて、ここで声を張り上げてやるって。それがたとえ、誰にも届かない独語であったとしてもね。首より下が動かなくなったとしてもね、わたしは、絶対に、そうしてやる」

 そして少女は、すっと立ち上がる。まるで、飛び立とうとする片翼の鳥のように。


 遠い空から 濁ったその目で 地上を眺め

 諦観を背負いながら 羽を動かし

 届かない声で 今日も鳴く 

 さながら 鳥のように

 世界から虐げられし鳥 でも世界を守る鳥

 ぼろぼろになった片翼の鳥

 あなたはそんな 鳥みたい

 今日も あなたと 逢瀬逢瀬

 何もない空っぽなあなたでも

 どこにも行けないどんづまりのあなたでも

 アジャパーな世界で 果敢に死に急ぐ あなたでも

 わたしは好きと言うだろう

 この片手で抱き寄せるだろう

 抱き寄せ耳元で囁くだろう

 行っておいでと囁くだろう

 今日もカルマの渦に行っておいで

 世間の汚濁で汚れておいで

 生きて生還しておいで

 寂しいのは互いさまさ

 わたしは鳥の帰りを待つだろう

 いつもの独語に祈りを付加して

 ずっとずっと待つだろう


 少女はそれなりの声量で、何も見ずに、その詩なんだか独語なんだかを謳いあげる。しかし、行き交う人たちは、こんなに見ないものかというくらい、少女に視線をくれることはない。むしろ見ないようにして、そそくさと足早に前を通っていく。まるで、少女は世間に存在しないかのように。

「行くわ。ママが心配しているから」

「そうか」

 午前〇時を過ぎて、心配も何もないもんだと思ったが、それは黙っている。

「あなたは?」

「俺も……そろそろ帰るか」

「そうじゃなくて、あなたは、どう生きるの?」

「え?」

 俺は突然の質問に面食らう。

「アンケートよ。他人が、何を思って生きているのか、興味があるのよ。よく飽きずに、生きていられるなと思うから。ねえ、どう生きるの?」

 俺は、しばし沈黙の中に沈み込む。自分の生涯のあらましが、プレビューみたいにざっとイメージとして思い返される。

「自分の、気の合うやつとか、好きなやつとか、そういうやつらとゆるく繋がりながら、日々を、ちゃんと生活したい」

「さういうひとに わたしは なりたひ。宮沢某?」

 少女は横からちゃちゃをいれる。

「からかうな。真剣にこたえてやったんだぞ」

「ごめんごめん。こんなに真剣にこたえてくれるなんて思ってなかったから」

「俺はいつだって、真剣で半べそかいて生きてる」

「そうらしいわね」

 少女が俺の目をじっと見据えた。

「戦友よ

 羽がもがれ片翼になっても

 まだそのか細い脚があるじゃないか

 ともに歩こう

 明日も会おう

 互いの言葉を飲み交わして」

 そう言って、少女は右手に拳をつくり、俺に向かって突き出してくる。俺も、拳をつくり、少女のその小さな拳の先に、こつんと当てる。

「ばいばい」

 そして、少女は、走り去っていく。

 その後姿を見届けると、俺は、漠として寂寥感におそわれる。

 俺は重い腰をあげ、シャッターの閉め切られた商店街を、歩く。見上げると、店と店の合間の狭い空から、月である。月ってこんなに明るかったっけか。

 俺は携帯電話を取り出す。鈴木に電話をかける。新たな戦友を得た話をするためである。しかし、鈴木は電話に出ない。コール音の後に、録音へとつながる。

 俺は自宅に帰る。電気をつけ、ソファに横になる。気持ちは妙に穏やかだ。そうなると、むしろあのヤケクソの感情を思い出せなくなる。

 俺は、そのまま眠る。数年ぶりくらいの穏やかな眠りである。息をするのも忘れるくらいの、深い眠りである。


 翌朝目覚めたのは、インターフォンの音である。ソファから身を起こして、マンション玄関のカメラの画像を見ると、そこには複数の私服も制服もまじえた警察官がいる。

 眠気は一瞬で飛び、俺はすべてを悟る。

「○○署ですが。聞きたいことがあります」

「そうですか。お疲れ様です。どうぞ」

 俺は、施錠の解除ボタンを押す。

 エレベーターで昇ってくるには、まだ二分ほどの暇があるはずである。俺は、妹が入院している病院の電話番号を素早く押す。

 『しばらくお兄ちゃんは行けない。また行くから元気でいてくれ』のひとことをスタッフから本人に伝言してもらうために。

 

 

 

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