第17話 鈴木さくらからアシナガ宛の手紙

 自宅アパートの郵便受けに、封筒が一つ入っていた。切手は貼られていなかった。宛先に、住所も書かれず、ただ『アシナガ 様』とだけ書かれていた。

 俺が自宅に戻ると、音楽をかけながら、壁を拭いていた。

「終わったわ」

 アシナガはそう言って、頬の汗をぬぐった。部屋を見渡すと、壁に描かれていたアシナガの絵はすべて消去され、そこかしこに飾られていた作品もすべて撤去され、アシナガが来る以前の懐かしき元の俺の部屋が再現されていた。

「おかえり」

 振り返ってアシナガはそう言った。目ざとく、俺の手に中の封筒に視線を落とした。

「それ、何?」

「郵便受けに入ってた。君宛てだよ」

「わたし?わたし宛てって、どういうこと?」

「わからないけど」

 俺はアシナガに封筒を渡した。アシナガは、ハサミを使って封筒を切り、中から便箋を取り出した。

 十分ほど、アシナガは便箋を眺めまわした。何回か読み返しているのだろうと思った。

「くだらない」

 アシナガはそう言って、便箋をびりびりに破いて、ゴミ箱に捨てた。

「ごはん、作って」

「うん」

 俺は言われるままに、夕食の支度をした。

 

 その夜、アシナガが寝室の和室で眠った後に、俺はゴミ箱からアシナガが破いた便箋をすべて回収した。そして、その困難なパズルを解き、セロハンテープで紙片をつぎはぎして、元の便箋を再現させた。

 その便箋には、こう書かれていた。


<拝啓 アシナガ 様


 突然のお手紙、驚きました。鈴木直人先生の同居人なのですね。

 様々ご指摘いただき、まことにありがとうございます。まったくもって、耳が痛い話ばかりです。『独語は独語として完結すべき』はまさしくその通りです。今後、わたくしのつまらぬ独語を鈴木直人先生に向けて発信することはありません。

 翻って、あなたの言葉はどうなのでしょうか。

 あなたの言葉は、わたくしが想像する、顔も知らぬ世間が発する言葉そのものです。こういうことをした人間に対して、世間という漠とした雰囲気が浸透している多くの人間はこんな風に思うだろうなと、想像するそのままをあなたは書かれています。

 つまり、文面の向こうに世間は見えても、あなたの存在を見ることができません。

 誰に宛てるでもない、対象不在の一方通行の言葉と、あなたはわたくしを表して仰いました。

 わたくしから言わせれば、あなたの言葉にはあなたがいません。

 あなたという人間は、本当に存在しているのでしょうか?

 

 わたくしは刑務所から出ました。世間のモラル、道徳、倫理、その雰囲気をあなたの書面から感じた時、わたくしはそれには従わないと決意しました。わたくしはわたくしの規範の中で生きていきます。たとえ社会がそれを許さなくても。

 そういう決意をするきっかけをくださったことには感謝いたします。

 それではさようなら。


 本当は存在しない、アシナガなる者へ

                      鈴木さくら 拝>


  翌朝、俺がコーヒーを淹れて本を読んでいると、アシナガが寝室から眠たげな表情で起きてきた。アシナガは時計に目をやった。

「六時四十分」

「いつもより少し早いね」

「うん」

「おはよう」

 と俺はあらためて言った。

「おはよう」

 アシナガは、ソファに座り、背もたれに思い切り体重をかけて、天井を見上げた。

「ねえ、今気づいたんだけど、昨日うっかり、睡眠薬飲み忘れたわ」

「あっ」

 俺もはたと気づいた。テーブルの上に、薬をいれた箱がない。

「薬飲まなかったけど、眠れた。浅かったけど。六時間くらいは眠れたよね」

「離脱起きてない?」

「起きてない。大丈夫だわ。震えもない」

 アシナガはゆっくりと身を起こし、ややおぼつかない足取りで歩いて、冷蔵庫を開けた。

「え、牛乳ないじゃん」

「昨日の晩に飲んじゃったよ」

「今、飲みたいんだけど」

「今晩、帰りに買ってくるよ」

「今、飲みたい。買いにコンビニまで行ってくる」

 アシナガは着替えて、ポケットに千円札をねじ込んだ。

「外出られるの?」

 俺は驚いた。

「今日は、出られる気がするの。なんとなく。あなたに会うまでは、わたしはそれこそ、引きこもりとは逆に、ホームレスみたいな生活だったんだから」

「そっか。気を付けて。鍵持ってる?」

「うん、あなたの部屋の机の引き出しに入ってた、スペアキー」

 アシナガは、指からぶら下げた鍵を見せてきた。いつの間に取り出していたんだ。

「コンビに行くついでに、少し歩いて来ようと思うの。運動不足だし」

「じゃあ、俺は今日は早くから仕事あるから、ぼちぼち出かける。帰りは早ければ三時には戻る。昨日の夕食の残りが、冷蔵庫にあるから。昼はそれ食べて」

「うん」

「いってらっしゃい」

「そちらも」

 そして、アシナガは玄関から家を出ていった。ぱたんと扉がしまるところを見届けた。アシナガを見送る立場になったのは、これが初めてだ。

 そして、俺は今日の簡易鑑定にのぞむべく、準備をした。対象は、件の、殺人事件の被疑者であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る