第16話 木村の内面③
G施設、H施設、I施設、施設施設施設施設施設施設。
送金先をばらつかせ、送付元を特定されないように。
俺の目の前には、全国の施設の一覧がある。送金を終えた施設は、黄色いペンでなぞられている。大分多くはなってきたが、まだ全国の十分の一にも満たない。そして、資金はすぐ底を尽く。
陽が落ちていく。室内は徐々に暗くなっていく。いつもなら電気を点灯させるが、今日はそんな気にならない。虚脱感が強く、椅子から起き上ることがかなわないのだ。
時刻が進むにつれ、周囲は漆黒へと変わっていく。俺は、暗闇の中で宙を見つめたまま、茫然とする。
そして、脳内に禁忌の疑念がよぎる。
俺は、一体……。
思考が続かず、そこで数分の間がある。俺は目をつむり、闇の濃度をさらに濃くする。
俺は、一体、何のために、生きて……。
突然、けたたましい携帯電話の着信音が鳴る。俺は、びっくりして、体を震わせる。
暗がりの中に浮かぶ液晶画面をみて、俺は誰に見られているわけでもないのに、これ見よがしに表情を曇らせて見せる。
「もしもし」
「ああ」
「今回も、言われた通りのことをしたわ。確認して」
「ああ」
「今度いつ会える?」
全身に怒りが走るのがわかる。携帯電話を持つ手が震える。
わかっている。これはこの経理への怒りではない。自分の、人生を取り巻くなにものか、あるいは自分自身に対する怒りである。
わかっているが、俺は今電話の向こうにいる、この他人に怒りをぶつけたいのだ。
「知らない」
「どうして?」
「今後依頼するかどうか、わからないから」
「でも、それじゃあなたの、目的が遂行できないんじゃないの?」
「どうでもよくなってきたんだ。馬鹿馬鹿しく思えてきた。だから、送金はやめるかもしれない。金が必要ないなら、連絡もしない」
無言になる。しかし微かに漏れ出る音で、電話の向こうで誰かがすすり泣いているのがわかる。
「……寂しいこと、言わないで」
「潮時は近い。このまま続けていたら、いずれはばれる。ばれたらそちらも逮捕される」
「そんなことは、怖くないわ」
「なぜ?」
「あなたを愛しているから」
「あ、愛?」
俺は思わず吹き出して、笑い出してしまう。この十年はなかったろうという、大笑いだ。
「愛だなんて言葉、この状況の中で、およそふさわしくない。計算は得意だけど、道徳と国語は苦手だったろ。言っておくが、俺は、自分を好きになるような女が――」
「自分を好きになるような女が、一番嫌いんなんでしょう?」
経理が言う。
「わかっているの。私も、同じだもの。自分を好きになるような男が、一番嫌いなの。虫唾が走るの。私は、私を絶望的なくらい嫌って、でも利用している、あなたが好きなの」
言葉の先回りをされて、俺は途方に暮れてしまい、口をつぐむ。
「飽食の張りぼて虚無のボクちゃん」
経理は急に、幼児をなだめるような声を出して、俺に話しかける。
「世界は、ボクちゃんが思っているよりずっと広くて複雑なのよ。私は、連絡を、いつまでも待っているわ。あなたの意思なんてどうでもいい。私は、私の意思で、あなたの連絡を、いつまでも待つの。さよなら」
そして、通話が切れた。
俺は電話をテーブルの上に置く。そして、うつむき、膝を抱える。
たった三分の通話で、関係のインセンティブは既にあちらに行っている。恐ろしいことだ。
『幸せになれない魔法がかかっているよ』
美弥子の言葉が、頭の中でリフレインする。
そうだな、たしかに。巫女の言う通りだ。俺には幸せになれない魔法がかかっている。
嫌だ、嫌だ嫌だ。こんな世界は嫌だ。こんなアジャパーな世界は嫌だ。もう、うんざりなんだ。
この意思も、思惟も、肉体も、全部どこかにぶん投げて捨ててやりたい。
俺は、何から逃げるように、鍵もかけずに外を飛び出す。そして、歩く、ひたすら歩く。夜の駅前、商店街。終電は過ぎ、人気ははけている。時折、駅から帰路につく人間とすれ違う。
夢遊病者のように、おぼつかない足取りで歩いているその時、どこからか声が聞こえてくる。おぼろげで儚い発声である。もし幻聴を知覚できるなら、こういうものなのだろうか。
俺は、光にたかる蛾みたいに、その声のもとへと吸い寄せられる。
ふと見ると、そこには少女が立っている。
その少女の出で立ちに、俺は驚く。少女は、長い髪の毛を水色のリボンでくくっており、ネイビーのワンピースを着ている。右手にはノートを持ち、そして、左手がないのである。肩から少し先の上腕途中部分で、腕が途切れている。
少女は、背をぴんと伸ばし、ノートを前に掲げて、おそらくはそこに書かれている何がしかを声を出して読む。
「こんにちは さようなら
一期一会
今日会えてうれしい 今日別れて寂しい
逢瀬 逢瀬 あなたと逢瀬
愛しいあなた
誰でもないあなた
何者でもないあなた
どこにもいないあなた
本当は存在しないあなた
それでもわたしは待っている
あなたとの逢瀬を待っている
待つことには慣れている
待つことには慣らされている
待っているあいだに 何を待っていたか忘れていく
待っているあいだに 死に覆われる 朽ちていく
それでもわたしは待っている
ほかにすることもないからね」
少女が、口でノートの紙をくわえ、器用にページをめくる。
「明るくて冷たい箱の中で
視線に怯える 言葉に怯える
わたしは怖がりだ
震えて 体をすぼめて生きている
この世界が嫌い でも好き
なにより 好かれたい 好かれたい
この世界
無慈悲で優しく、寛容で狭量な、この世界
近くて遠いこの世界
この世界から好かれたい
期待するな? 甘い言葉なんてあると思うな?
馬鹿を抜かすな 糞でも食ってろ
魂をかけて期待する
叶わないと確信をして 期待する
叶わないと裏付ける根拠
わたしにはアンティミティがない 世界にもアンティミティはない
ないからこそ焦がれる
欠乏こそ渇望の要因だもの
だから今日も
届くことのない透明な膜の向こうの 砂の城を見て
愛と憎しみをたぎらせるの」
少女がノートを閉じて、足元に置いてある鞄にそれをしまう。
俺は、ほとんど無意識のうちに、少し傍に寄っていく。
「それは、君が、書いたのか」
少女が、顔を上げ、俺を見る。声をかけたのは自分だが、その視線にさらされると、俺は思わず顔を逸らす。この顔を直視されたくない。
「そうよ」
「なんでここで読み上げてる」
「誰かに聞いてほしいから」
「誰か聞いてくれるのか?」
「誰も聞いてくれないわ」
少女はその事実について、特にどうという感想も持たないようである。
「いつも、ここで、読んでいるのか?」
「いつもじゃないわ。たまに」
「そうか」
「帰る。お腹空いたから」
そう言うと、少女は、片方の腕を前後に振って、速足で商店街の向こうへと消えていく。
俺は、少女の姿が完全に見えなくなるその前に、自ら体を翻し、少女に対して背を向けて、歩きはじめる。俺も、いつの間にか帰る気になっている。居たくもなかったあの部屋に帰る気になっている。
網膜には、その片腕が焼き付いている。
アンティミティがないのは、俺とて同じだ。
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