第14話 アシナガの変化、木村の巫女
新たな鑑定依頼がきた。
殺人事件だった。殺人事件の鑑定依頼を受けること自体は初めてではなかったが、今回はなんとなく、気乗りがしなかった。
「気乗りがしません」
と俺は正直に福谷さんに言った。
「でも断らないんですよね」
福谷さんはそう言って、無表情に俺の胸に資料をあてた。検察からの依頼書の紙が、やたらと重く感じた。
その日は、資料に目を通す気にならなくて、もうひとつ依頼された措置診察を終えた後、俺は隣駅の大型書店に寄って、いくつかの雑誌を立ち読みした。そして、科学雑学の本と、司法精神医学の教科書を一冊購入し、帰路についた。
その、道の途中である。
自分の住まいの最寄り駅に電車が到着し、駅のホームに足を着地させたその瞬間、言いようのない不安感に襲われた。それはまるで突然の暴風みたいに俺の目前から吹きすさび、あっという間に俺を覆った。そしてそれは、ひびの入った薄氷の上に立つ、今ならすべてのものに負けられるとでもいうような、自分への心許なさをもたらした。そして、自分の存在が、何者かにつつぬけになっているような、無防備にさらされているような、そんな了解困難な恐怖も芽吹いた。
両親が亡くなってからというもの、この不安の嵐は、まるで地震のように、予期せぬタイミングで時々唐突に訪れた。
俺は、なんとはなしに急に周りの様々なものが怖く感じて、足早に自宅に戻った。
自宅では、アシナガが、雑巾を使って壁を拭いていた。拭いた部分は、以前アシナガが壁に描いた絵が消えて、もとの壁紙に戻っていた。
「おかえり」
「ただいま」
アシナガがこちらを振り返った。
「顔青いわよ。声も震えてる」
「うん。わかってる」
俺は冷蔵庫の棚からビールを取り出し、思い直してすぐに戻し、さらに奥からワインのボトルを取り出して、コーヒーカップに注ぎ入れ、それを飲んだ。アシナガと同居する前に、コンビニエンスストアで購入した安物のワインだった。
「どうかしたの?」
「なんでもないよ」
「なんでもないわけないのは、わかっているわけだから。どのみち話すことになるんだから、早く話せば」
俺はコーヒーカップのワインを飲み干して、二杯目を注ぎ入れた。
「なんだか、時々周りにあるほとんどのものが怖く思える時がある。大げさでなく、存在が揺るがされるような」
「まともなことね」
「まとも?」
「この世界に生きて、恐怖を感じないでいる時間のほうが、不健全にわたしには思えるわ」
「でも、こんな感覚が長い時間続いていたら、とても生きていけない」
「そうね。だからみんな、必死になって不健全になろうとするんじゃないの。不健全になって鈍くなって、世界の狂いとおかしさを感じないようにするんじゃないの」
「健全ってなんだ?」
「生き物としての自己を持つことじゃないの」
アシナガは即答して、再び壁を拭き始めた。
「こんな、大脳皮質が先走って作られた人工物にばかり囲まれて、大脳辺縁系は戸惑っているんじゃないかしら。脳の進化の速度が速すぎて、身体の進化が追い付いてないような気がするのね。だから脳の先走りを目の当たりにすると、身体が戸惑っちゃう。身体の戸惑いを、辺縁系は感じちゃう。それが不安。わたしはそう解釈してる」
「俺のもそうなのかな」
「そうよ。よかった、仲間がいて」
そう言って、アシナガは振り返り、微笑んだ。
「適応障害って言葉があるでしょ。あなたの本棚の、精神科の教科書に書いてあったことだけど」
「うん」
「わたしからすれば、ほとんどの人間は適応症候群なんじゃないかしら。おかしな世界に、自らおかしくなることで適応しようとする、適応症候群。正式に病名として採用されないかしら」
「診断基準を策定する側に回れたら、発案してみるよ」
「期待してるわよ」
俺の不安はその時点で、氷解していた。
アシナガの存在によって、この俺は救われている。
いったいぜんたい、アシナガはどうしてこの俺の前に、現れてくれたのだ?そもそもの出会いの場面というものを、俺はほとんど思い出せないでいる。
「さっきから気になってたんだけど、絵を消しているの?」
「そう。このクリーナー、すごいわね。どんどん落ちるわ。気持ちいい」
「それ買ったの?」
「うん。あなたのパソコン使って、通販でね」
「もったいなくないの?自分の作品なのに」
「飽きたの。別のことをやりたくなったの」
「だからといって、全部ちゃらにすることないんじゃないの」
賃貸だからと、あれだけ内心難色を示していた俺だったが、今やアシナガの絵画に囲われた空間に安住していた。
「欲すれば捨てよ」
とアシナガは言った。
「今あるものを惜しんでいたら、別の価値あるものはやってこないわ。だから、一度全部空っぽにするのよ」
俺はしばらくの間、ワインを口にしながら、せっせと壁紙を磨くアシナガを眺めた。普段は飲まないワインを、ビールと同じ調子で飲み進めてしまい、ほどなく泥沼みたいな酔いが全身にまわり、俺の意識はぶつ切れになった。まるで、まな板の上のきゅうりに出刃包丁を振り下ろしたみたいな、ぶつ切れだった。
**********************************
俺は木村の薬局に、向精神薬をもらいに来ていた。
木村は、いつものように、薬局の裏口に俺を誘導して、薬の箱を袋に入れて渡してくれた。
「ありがとう」
「気にするな」
一万円札を出すと、今回は木村は抵抗なく受け取り、白衣のポケットに入れた。木村は、たばこをくわえ、煙をくゆらせた。
「なあ」
「ん?」
「お前とのつながりは、俺のこの、本当にどうしようもない人生の中で、数少ない価値あるものだ」
「どうした、急に?」
俺は、怪訝そのものの表情を浮かべてみせた。
「だから、お前にだけ、すごいことを教えてやる」
俺は、少しだけ興味をそそられた。
「じつはな……」
木村はもったいぶって、ひそひそ声になった。
「世界は、もうすぐ、アジャパーになるんだって」
「アジャパー?」
俺は聞き返した。
「アジャパーってなんだ」
「知らん。でも、俺の巫女が、そう言っていた」
「巫女って誰だ」
「巫女は巫女だ。時々、ありがたい言葉を、示してくださるんだよ」
「お前、変な宗教に引っかかってんの?」
「宗教とは違うが……。まあ、似たところはあるか。個人的な、忠義心と、信仰心みたいなものは持っている」
「あまり深入りしないほうがいいんじゃないの」
「それと、こういうのもあった。俺には、幸せになれない魔法がかかっているんだってさ」
「そいつはまあ……なんとも手厳しい巫女だね」
「当たっているだろ」
「でも、それほど不幸せというほどのものにもならない魔法、もかかっているかもしれないよ」
「なるほど。その発想はなかったな。今度巫女に、質問してみるか」
木村はそう言うと、煙を吐いて、宙を見た。
「来週の金曜に、飯を食いに行こうぜ。また言いたいことが溜まっているんだ」
「溜まるピッチが早いね」
「心のダストボックスは、いつだって満杯だよ」
木村は笑って、たばこを地面に放って靴でもみ消した。
「それじゃ、またな」
「ああ」
俺が体を反転させて、その場を後にしようとした時、不意に、
「なあ」
と背後から声がかかった。
俺は振り向いた。
「じつは、俺には妹がいる。六歳年下の妹だ」
「妹?」
俺は驚いた。
「知らなかった。知らされてなかったよな?どうして、今まで黙ってた」
木村はしばし、真顔で、白衣のポケットに手を突っ込みながら、靴の先で地面の砂をいじっていたが、やがていつもの人を馬鹿にしたような笑みを取り戻して、こちらを向いた。
「飛び切り美人だからな。お前が惚れて追いかけまわしたら面倒だと思ったんだ。遅まきながら一丁前に女の経験も踏んで、そろそろ大丈夫かと思って知らせることにした」
「なんだそりゃ。付き合っているあいだ、いつもお前の顔がちらつくんじゃ、それこそ面倒だから願い下げだ」
「いや、惚れるね。今のやつと付き合う前のお前なら、惚れる」
「どんな子なんだ?」
一瞬の間があった。
「……優しい子だよ。かわいくて、明るくて、優しいんだ。いささか優しすぎた」
過去形なことが気になったが、何かを話したいんだということは察したので、深追いしないことにした。
「全然お前に似てないってことだな」
「似てない。幸運なことにね。俺たち男兄弟の誰にも似てないんだ。母親に似たんだな」
「今度、話を聞くよ」
「ああ」
木村が、何かをためらうように空を見上げた。
「全然関係ないけど、クロザピンて薬、知ってるか?」
「知ってるよ。治療抵抗性の統合失調症に使う薬だろ」
俺は木村から、クロザピンの名前が出てきたことに驚いた。
「使ったことはあるか?」
「まあ、何回か。三、四例くらい。認可されてそんなに経ってないからな」
「そうか。三、四例か」
「なんでまた?」
「いや、ま、うちの店長がな。今度、入荷するかどうかで迷ってたから。俺が卸を担当しているから、聞いてみようと思って」
「入荷して、利益になるような薬じゃないだろうけどな。入院しないと導入できないし、使用頻度は少ないし」
「まあ、そうだよな。でも一応、今度詳しく聞かせてくれ」
「わかった。知っている範囲で。予習しておくよ。臨床から離れて久しいんだ」
「安心しろ。当てにしてない。元気でな」
「お前も」
そして、木村は店の中に戻っていった。
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