第13話 木村の内面 ②

 ああ、今日は暑い。うだるような暑さだ。俺は夏が嫌いだ。俺は冬生まれなんだ。

 最近の夏は異常だ。数分日向でじっとしていると、肌が痛くなってくる。俺の子供の頃は、ここまでじゃなかった気がする。地球も終わりが近いんだ。

 気が滅入る。ただでさえ気が滅入るのに、今日は第二土曜なのだ。

 面会者用の出入り口の自動ドアが開かれる。俺はそのドアをくぐり、ひとつ息をつく。シャツをあおいで胸元に空気を入れる。

「ご面会ですか?」

 受付のおじさんが聞いてくる。

「はい」

「どなたのですか」

「東第三病棟の木村美弥子です」

「ご関係は」

「兄です」

「ここにご記入を」

 俺は、面会用の用紙に、美弥子の名前と、自分の名前と、続柄と、時刻を記入する。あえての殴り書きだ。読める字で書きたくないんだ。

 俺は面会者の札を首から下げて、廊下を歩いていく。この精神科病院も、ずいぶんとこ綺麗になったもんだ。美弥子が初めてここに受診した時は、巨大な座敷牢という印象だった。六年前の大改修で変わったのだ。

 俺はエレベーターに乗る。そして、その緩慢な上昇に身をゆだねる。

 ドアが開く。俺は病棟に足を踏み入れる。単科精神科病院の匂いがする。人の、生活の匂いだ。

 鍵のかかったナースステーションが目の前にある。俺は、ガラス越しに首から下げた札を振りかざす。看護師の一人が、鍵を開けて、半身を出す。

「こんにちは」

「あ、はい、こんにちは。いつもお世話になっております」

 お世話になっているどころじゃないな。美弥子の生活を背負ってもらっているのだ。俺を含めて、誰も美弥子の生活を背負おうとはしないんだ。ひどい話だ。

「木村美弥子の、面会に来ました」

「美弥子さんね……。先生から連絡はあったかしら」

「あ、伺っています」

「ちょっと、調子が悪くなっちゃってね。今、保護室で。安全ベルトも」

 安全ベルト。拘束具。身体拘束。胴両上下肢身体拘束。

 しょうがないだろう。厳しい状態になった時の美弥子のことは、よく知っている。嫌というほど知らされている。実家で散々見て来たんだ。幻聴に左右されて、自分の首をカッターで切ろうとしたんだ。あの状態の美弥子を他の方法でどうやって止められる?ICUにも三回世話になったんだ。蜘蛛の糸で生とつながっているみたいなもんだ。

 拘束されて、美弥子は死ぬほど苦しいだろう。でも俺は、美弥子が死ぬほど苦しんだとしても、美弥子の死は絶対に見たくないんだ。美弥子の死の前に、俺は自分が死ぬことを固く決意している。それが自分のエゴだとしてもな。

「面会に来ていただいて、美弥子さんもとても喜ぶと思います」

「いえ……無理を言って、面会を許可していただいて、本当に、恐縮です」

 俺はうつむく。こういう言葉を、相手の顔を見て言えないのだ。

「ちょっと、待っていてください。あちらから鍵を開けますね」

 看護師が、ドアを閉める。

 『あちら』と看護師が言ったドアは、ここから三メートルほど右手奥にある、より強固で分厚いものである。ここから、直接に、保護室が立ち並ぶ一角に通じるドアだ。

 鍵の開けられる音が聞こえる。下向きになっていた取っ手が横向きになり、ドアが開く。

「どうぞ」

 俺は、保護室の並ぶ廊下に身を通す。後ろで、看護師が鍵を閉める音が聞こえる。

 保護室の扉の上には、室内をカメラで映した液晶画面が設置されている。カメラの向こうの美弥子は、表情ははっきりとはわからないが、両手を横に伸ばし、足を垂直に伸ばした状態で拘束されていて、十字架のような姿勢をとっている。

 看護師が、保護室の扉を開けた。ギギギと、重みのある音が、響く。

「美弥子さん、お兄さんが、会いに来てくれたわよ」

 応答はない。換気の音だけが、辺りを漂う。

「それじゃ、ご面会が終わったら、声をかけてください」

「ありがとうございます」

 看護師が、部屋を後にする。保護室には、俺と、美弥子だけになる。

 身体拘束された美弥子は、無表情に、天井を見つめている。年齢は先月で二十八になっている。しかし、外見は実年齢よりだいぶ幼く見える。

「美弥子。こんちは」

 もちろん、応答はない。俺は、美弥子に歩み寄り、ベッドの傍らで、片膝をついてしゃがむ。

「外は滅茶苦茶に暑いんだ。だいぶ汗かいちゃったよ」

 俺はポケットからハンカチを取り出し、額を伝う汗をぬぐう。

「美弥子は、その……元気に、してたか?」

 元気なわけがないだろう。拘束をされているんだぞ。何をそんな、馬鹿なことを言っているんだ。どうかしているのか、俺は?

 わからない。どうしてだかわからないが、美弥子を前にすると、俺は思考の流れが停止しちまって、全然適切な言葉が出てこなくなっちまうんだ。戸惑うんだ。居心地が悪いんだ。自分のやっていることが、急に恥ずかしくなるんだ。だから、来たくないんだ。会いたくないんだ。

 会いたくない?

 嫌だ、冗談じゃない。偽るな、偽るな。会いたくないけど、死ぬほど会いたいんだ。美弥子の顔が見たいんだ。落ち着かなくて、心がぞわぞわするのに、その実心底安堵するんだ。俺の糞みたいな生活の、唯一の生きた時間なんだ。

「お兄ちゃん?」

 不意に、美弥子の声が聞こえる。俺は驚く。美弥子は、こちらに視線を向けず、相変わらず天井を見つめている。

「お兄ちゃん?」

「うん」

 美弥子の声が、耳から内耳を通って、脳内を巡る。俺は、うれしい。喜びに満たされる。

「お兄ちゃんには、幸せになれない魔法がかかっているよ」

 美弥子が、囁くように言う。

「え?」

「お兄ちゃんには、幸せになれない魔法がかかっているよ」

 美弥子は、正確に、もう一度繰り返す。

 俺は、その言葉を反芻し、解釈するように、つとめる。

「そっか……」

 俺は、微笑もうとする。でも、うまくいかない。口角が引きつるだけだ。

「たしかに、そうかもな。でも、お兄ちゃんは、美弥子には、幸せになってほしいな」

 返事はない。無言の時が流れる。俺は、もう一歩ベッドに近づいて、美弥子の顔を見つめる。瞬きの回数が少ない。目やにがたまっている。髪の毛は、皮脂でてらついている。拘束となってから、洗髪できていないのだ。

「お兄ちゃん」

「うん」

「世界は、もうすぐ、アジャパーになるよ」

「え?」

 俺は再び、聞き返してしまう。美弥子との会話(と呼べるのか、これは)は、こういうことの連続だ。

「アジャパー、って、何?どういう意味?」

「……もうすぐ、世界は、アジャパーに、なるんだ……」

 美弥子はそう言うと、再び深い沈黙の海の中にもぐりこんでしまう。

 静寂の中で、俺は想起する。


 美弥子は、俺の七つ下の妹である。四番目の子供で、しかも三男の俺よりも七つも年下だから、育った家庭の状況は、俺たち三人の兄とはだいぶ異なる。

 利発でかわいらしく、一方で繊細さがうかがい知れ、幼いころから、家庭の雰囲気が険悪になりそうな時は、わざとふざけたり、いたずらをしたりして、なんとか自分に注意を向けて、家庭内のバランスを保とうとした。美弥子が小学生の頃、父と長兄がよく殴り合いの喧嘩をしたことがあったが、母とともに、泣きながら仲裁に入っていた。今考えればであるが、子供が子供らしく振舞い、わがままを言うにはその時期の我が家はあまりに適していなかったと思う。

 俺は、当時から二人の兄が嫌いだったので、家ではよく美弥子と絡んだ。ままごとの相手をよくさせられた。よくわからない、女の子向けの戦隊ものの、敵役である。

 美弥子が九歳の時に、母が亡くなった。家には、ほとんど帰宅しない父と、大の男三人と、美弥子が残された。消沈した美弥子は、涙を流すことすらかなわずといった感じで、ほとんど喋らなくなった。とにかく沈黙に沈んで、自分の中で現状を受け入れ理解しようと、内的な試行錯誤をしていたのだと思う。そして俺はと言えば、高校に行かなくなり、美弥子を含め周りが見えなくなっていた。

 美弥子が十六歳の時、突如どこでもない空間に向かって独り言を話すようになった。誰もいないのに、何かにおびえたように辺りを見回し、そして夜は寝ずにリビングでテレビを付けっぱなしにしていた。奇異な行動は学校での見られたようで、自宅によく電話がかかってきていたが、しかしその電話をとるのは、母が亡くなった後かから来るようになった家政婦なのだ。父にも連絡はいっていたはずだが、父がそれに対して何か対応をした形跡はない。

 父と、二人の兄は、この状況を、「見ない」ということに決めたようである。「盗聴器があるかもしれないから探す」といってリビングをうろうろする美弥子を、なんとかなだめて自室に戻すのは、基本的に俺の役割だった。

 俺は美弥子を連れてクリニックに行き、その際統合失調症という診断名を聞いて処方を受けたことがあるが、美弥子は一度も薬を飲まなかった。やってはいけないことと知りつつ、溶解した薬を食事に混ぜたりしたこともあったが、美弥子はその食事を吐き出し、以後被毒妄想も出てきて、食事に手を付けないことが増えて、痩せていった。

 十七歳の誕生日直前に、決定的なことが起きた。俺が大学から帰ってくると、血で汚れたカーペットの上に美弥子が倒れていたのである。手首には、カッターでつけたものと思われる複数の切り傷があった。すぐに救急車を呼んで搬送され、命に別状はなかったが、手首に縫合の施術が施された。身体の回復を待ち、同じ病院の精神科に転科して、そこで初めて精神科医療に乗った。

 このことは、俺は鈴木に話していない。鈴木の本職としている精神科医療は、俺には馴染み深いのである。統合失調症で長期入院中の妹がいることは、俺が鈴木に隠している数々の秘め事のうちの一つだった。


 およそ三十分の時が流れる。俺はそろそろと思い、腰を上げる。少し痺れた足をさする。

「それじゃ、お兄ちゃん、そろそろいくわ。来月、また来る」

 そして体を反転させて背を向けた時、

「お兄ちゃん」

 と呼び止められる。

 俺は足を止め、振り返った。

「さよなら」

 美弥子は、その時は、首を少し傾けて、俺のほうに視線を向けていた。

 俺は、さよならと言い返したくなかった。だから、

「また、来る」

 と強調した。

「さよなら」

 と美弥子は再び呟いた。

 俺は、前を向いて、不思議な引力で保護室の中に戻されるような錯覚を覚えながら、なんとか廊下に出た。

「もういいですか」

 看護師が、ナースステーションの扉を開けて言う。

「はい。ありがとうございます」

「後藤先生が、お兄さんに、少し話があるみたいです。お時間、大丈夫ですか」

「はい」

 俺は面談室に導かれる。椅子に座り、窓から風景をぼんやり眺める。山々と雲が見える。都市からは外れたところにあるのだ。ノックの後に、主治医の後藤がやってくる。歳は俺と同年代くらいだろう。眼鏡をかけ、何かスポーツをやっているのか、健康そうな小麦肌だ。好きになれないタイプだったが、優秀ではあった。何度か主治医交代を経験しているが、行動制限しないでいられる期間は、今までのどの主治医よりも長い。

 そこから、美弥子についての、現状説明が始まる。きっかけなく増悪、巡回看護師の、胸元のペンを奪って自分に突き刺そうとしたため、保護室移室のうえ身体拘束である。電話でも同様のことは聞いている。

「治療抵抗性という定義にあてはまると思います」

 後藤が言う。そうだろう。俺だって美弥子との関わりの中で、病気について調べている。覚えているだけで、美弥子はこれまで五種類の抗精神病薬が使用されている。

「どれも効果が十分であったとはいえません」

「ええ」

「クロザピンの適応となると思います」

 クロザピン、クロザピンか。知っているよ。これでも薬剤師なんだ。難治性の統合失調症の、切り札のような薬である。高い効果とともに、重大な副作用もあって、使用できる対象が限られている。

「少し、クロザピンについて、説明させてもらってもいいですか。使わなければならないということではないです。あくまで、選択肢として知っておいてほしいので」

「あの、今日はもう、これから予定があるので。すいません。それと、知り合いに、一応精神科医療者がいるので、その人に少し話をきいてみたりします」

「そうですか。わかりました。べつに、焦ることはないです。ご家族の余裕のあるときに、また説明させていただきます」

 余裕のある時なんてこの俺にあるのか。俺はいつだって、九十パーセント以上の出力で生きている。

 病院を後にする。車までの距離が長い。とにかく暑い。

 俺の家族は、女性が災厄を被る。無知で無自覚な男たちの社会的成功の犠牲となって、母は夭折し妹は発症する。俺とて彼女たちの犠牲のもとでここにいるのであろう。

 車に戻ると、真っ黒なタールが背に乗ってきたような異様な疲労感に襲われる。俺は、スイッチを連打して冷房を全開にする。そして時計を確認し、一分だけ泣くと決める。

 決めたら、俺はダムの決壊のごとく、誰かに見られたら引かれるような、大声をあげて泣く。頭の中に渦巻く、すべての感情を涙にかえて全部出す。ハンドルを握って、顔を伏せて、俺は鼻先から涙がぼたぼたと落ちるの自覚する。

 女々しいこった。

 一分が経った。俺は泣くのを止める。ハンカチで涙をぬぐう。止めようと思えば、ぴたりと止められるようになった。見舞いに来て、何度か泣いているうちに、そうなったのだ。

 俺はスマートフォンを取り出して、ここからの作業の確認をする。養護施設への送金は、当初たてたスケジュールよりも大幅に遅れている。早急に金が必要だ。

 俺は或る女に電話をかける。親父の会社の、経理担当の女だ。十二回のコールの後に、女は電話に出る。

「もしもし」

「もしもし」

「嬉しい。もう、かかってこないかもしれないと思ってた」

「今、時間はあるか」

「昼休憩中だから、あと十五分くらいあるわ」

「周りに誰かいるか」

「あなたからの電話と分かった時点で、場所をかえているわ。声が聞こえる範囲には、誰もいないわ」

「わかった。相談がある」

「今度いつ会える?」

 女が間髪入れずに言う。俺の話を無視してだ。苛立ちが全身に回るが、俺は冷静を自分に言い聞かせる。

「会わないとできない相談だ。電話じゃ無理だ」

「そう。よかった」

「時間と場所を指定する」

「ええ」

 俺は、自分のスケジュール帳を見ながら、日取りと時間と場所を伝える。

 電話を切ると、俺はスマートフォンを叩き壊したくなる衝動に駆られるが、それはしない。精密機械だからな。

 優秀な女だ。こちらの依頼を、迅速にそつなくこなす。親父の会社の金を横領させ、複数の俺の口座に分割して振り込ませる。

 俺に好意を持っているらしい。だから秘密は守られる。この目的の遂行に、相手の好意は必須の条件だ。実質的な報酬を相手に与える元手というものが俺にはないからだ。

 しかし俺は、自分を好きになるような女が、一番嫌いだ。虫唾が走る。そういうやつを見ると、絶望的な気分になるのだ。

 しかし感情と行動は分離せねばならない。目的の遂行に彼女は必要だ。

 俺はいつか、罰せられるだろう。人並みに不安がよぎる。しかしその時、いつもの言葉を脳内にリピートで再生させる。

 ささいな犠牲はつきものだ。

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