第12話 鈴木さくらとの書簡 ①

 ある日、福谷さんに呼び出されて措置診察に出向くと、福谷さんは俺に会うなり、一枚の封筒を差し出してきた。

「先生宛ですよ」

 俺はそれを受け取り、表裏を確認した。差出人の名前はなかった。

「なんでまた、保健所宛に」

「さあ、わかりません。ちなみに発送元は、○○刑務所ですよ。心当たりありますか」

「○○刑務所?」

 俺は驚いた。

「ないです」

「刑務所内でも、手紙のやりとりは制限されていませんからね。中身は確認されますが。どうしますか、それ?いらないなら、こちらで破棄してもかまわないんですけど」

 俺は少し迷ったうえで、その手紙を受け取ることにした。


 その日の措置診察は、長時間かかった。要措置が決まり、搬送先に送る段になり、救急隊が医師の同伴を求めたのだ。しかし、その診察した場所の病院の精神科は、たったの三人で回していて、その日の当直業務などを考えるとその時点で搬送に一人割くことができず、結局俺が救急車に同乗することになった。

「保健所の嘱託で救急車に同乗する人、初めて見ましたよ」

 福谷さんが笑った。

 そして、搬送先から往復して戻ってきた時には、夜の十時を回っていた。県の端まで行ったのだ。

 家に帰宅すると、アシナガはすでに寝ていた。寝室の襖はしっかりと閉ざされていた。テーブルの上には、睡眠薬の入った薬箱が無造作に置かれていた。

 俺は、福谷さんから受け取った、封筒を鋏で切って、中身を取り出した。そこから出てきた便箋には、異様に整った字の隊列が、整然と並んでいた。

 俺は、仕事着のまま、ビールを片手に、テーブルに座ってその手紙を読みだした。


<拝啓 ○○市行政嘱託医師 精神科 鈴木先生


 先日は大変お世話になりました。

 こうした形で書簡を送ることになり、先生も驚かれたことと想像します。申し訳ございません。

 ですが、わたしが自分の意思を発露したいと思った際、その相手は先生しか思い浮かべることができませんでした。最も適切なのは、両親ということになるのでしょうが、わたしには両親がよくわからないのです。世界は、わたしにとって謎に満ちているのですが、その最も身近な謎が両親なのです。ですので、わたしは両親に自分の意思を伝えることを記憶にある限りしたことはなく、そして今もすることはできません。他の、大学の同級生も、研究室の教授も、わたしと接する機会のある人の誰にもこういったことを伝えることはできません。ただ戸惑わせてしまうことだけは容易に想像できるからです。

 先生は、わたしの生活圏にいない人間でありながら、職務の特性上、わたしの素性、内実の情報を把握しておられます。だから、この意思の発露の先は、先生しかいないと判断しました。

 まことに勝手な判断であることは重々承知しております。もし、ここまで読んでいただいて、わずかでもご不快を感ずるなら、今すぐこれを破棄していただいて構いません。


 わたしは、今、○○刑務所にいます。おそらく、軽から中の囚人が収容されています。

 生活は単調ではありますが、ここでは考える時間がたくさんあります。時間は限られていますが、本を読むことも許されています。

 考えれば考えるほど、自分のやったことの無意味さというものを痛感します。

 裁判では、反省しているかと何度も聞かれました。反省という言葉の意味も、辞書で調べました。でもどんなに言われても、わたしには反省という言葉の意味が理解できませんでした。字義的な意味は理解できますし、それをしたほうがよいに違いないとは思うのですが、感覚としてまったく理解できないのです。理解できないものを、することはできません。ですので、わたしはこうして刑に服している現在においても、自身の実行した犯罪に関し、反省することができていません。

 ただひとつ思うことは、関わった子どもたちを戸惑わせてしまったに違いないということです。突然不在になり、またその理由が社会的逸脱、犯罪であったということは、現在は幼くて理解はできなくとも、もし後年知る機会があったら、それは程度の差こそあれ彼らを傷つけてしまうかもしれないということです。

 そのことについて、わたしは大きな自責を感じます。取り返しはつきませんが。

 自責感というのも、今回の件をもって初めて感じた感覚です。これはとても、嫌なものです。どこにいても、胸部を締め付けられるような、圧迫感を感じます。

 おたずねしますが、こういった感情、感覚を持ちながら、今後わたしはどうやって、生きていけばいいのでしょうか。

 繰り返しになりますが、己の手前勝手、厚かましさ、重々承知しております。

 御回答いただけたら、とても幸いに思います。

                             鈴木さくら 拝>




 俺はそれを読んだあと、すぐに返事を書いた。

<鈴木さくら様

 お手紙、受け取り、読ませていただきました。

 まず、簡易鑑定の際にも言いましたが、わたくしはとりあえずの常識(と個人的に捉えている)の感覚でしか判断できない立場です。そして、その常識なるものからすると、鈴木様の行った事というのは、社会的には許容されず、またわたくしからしても理解できないものです。

 仰っている自責感というのも、社会的には、本事件で被害に合われた方に向けられるべきというのがおそらく求められている常識的反応です。それが、ご自身が個人的に愛着を持たれている者にのみ対象とされるのならば、失礼ながら、鈴木様は本事件前と何ら変化はないものと思います。

 ただ。

 わたくしの師匠の言葉で、『一般的な倫理、常識、原則にこだわると、途端にこの仕事(精神科医療)は苦しくなる』というものがあります。

 行うべき医療は、常識の判断のもとの無難なものである必要があると考えていますが、少なくとも価値観としてはある程度レンジを広く持っていないと、精神科医療の中で起きてくることはとてもモラルや常識で測れるものでないものがほとんどなので、苦しくなってくるということです。

 なので、わたくしは、あなたの文面を読んだ際、判断ではなくあくまで『感知』のスタンスで物を申すなら、共感できる部分が少しあります。

 私事を言うと、わたくし自身は、ある人たちを強く恨んでいます。他者を恨んで生きるということは、大変摩耗します。生きるエネルギーが削がれていきます。でもそれを止めることはできません。そして現時点の暫定の判断として、わたくしはこれの解消を諦めています。ひとつの、異物としての嫌な感情なのですが、それは癌と同じでまごうことなき自分の感情細胞から生まれた自分の感情なので、消そうとするための行動は得てして失敗し、膨らむこの感情と結局折り合いをつけて生きる(というより、生活をする)しかないのだと思っています。あとは時間がその感情細胞をどう処理してくれるかにかかっています。

 鈴木様の仰る、自責感なるものも、同じとは言いませんが、似た性質のものかもしれません。その自責感に対し、例えば何らかの形で取り返そうと考えたら、それは結果的により鈴木様を苦しめる結果になるかもしれないと思います。

 刑期を終えられた後にも、生活というものがあると思います。その、不快で嫌な感情を抱きながら、その解消行動ではなく、当座共存し抱えつつ『生きて、生活する』ことをしてみるほかないのではと思います。

 僭越ながら、意見を述べさせていただきました。

 それでは失礼いたします。

                              鈴木直人 拝 >





<拝啓 ○○市行政嘱託医 精神科 鈴木先生

 

 お返事いただき、まことにありがとうございます。拝読させていただきました。

 正直に申しまして、お返事をいただけるとは思っていませんでした。

 先生が、憎悪、という強い言葉を使うことが、少し意外で、失礼ながら興味をひかれるところではあるのですが、、無論、これ以上の詮索はいたしません。

 先生の仰る、折り合いをつけて共存、ということは、理屈としてはよくわかります。理屈としては、と書いたのは、あえて反論をする心づもりだからです。上辺の同意をすることは容易ですが、それでは意味がないと思うので。

 折り合いをつけて、ということは、わたし自身が何度も言われ、そして周囲でも何度も聞かれた言葉です。矛盾する二つの感情を、矛盾としつつも同時に受け入れることが、世間でいわれる、いわゆる成熟なのでしょう。

 しかし、それではそもそも成熟するということに、どのような意味があるのでしょうか。

 感情の矛盾を受け入れて、ある種超然とするのは、人間社会で生きていくにはひとつの理想なのかもしれません。しかし、感情の波をあくまで緩衝させて小さく抑え、他者たちの中で逸脱なく生きていくことは、少なくともわたしには魅力的なものとは思えません。

 感情があり、感情のまま行動してみて、傷ついたり傷つけられたら項垂れ、立ちすくみ、しばし時間が過ぎたらまた歩く。それは動物的な振る舞いですが、わたしにはそのほうが美しく見えます。

 折り合いという言葉と、国家運営および現状の社会システムには共通するものがあると考えています。

 国家運営という、大人数の他者を束ねる必要性があるものでは、それぞれが折り合わなければとてもやっていけないので、必然的に折り合うことが社会的成熟とみなされていくのだと思います。

 その、折り合いなるものが究極的に尊重されたものが、現行の国家ならば、為政者たちの振る舞いも納得するところです。

 ただわたしは、このシステムには無理があると思っています。

 人間は動物であり、動物的感情があります。しかしその赴くままに生きていては、多勢を生存させる社会は成立しないので、共存に向けての適応的振る舞いというものができます。しかし、適応的振る舞いというものもより先鋭化していくと、それはそもそもの生き物としての生理的反応から逆行したものであるため、自身を摩耗するものに反転するとわたしは考えています。

 わたしは、現行の社会の、適応的であることが強く求められる状況は、結果的には社会の持つエネルギーを摩耗衰退させていくと思います。

 それが、子どもたちに残せる希望的な未来がない、と考えた理由の一つです。

 先生のご意見を伺えればと思います。

                         鈴木さくら 拝>


<鈴木さくら様


 お手紙、読ませていただきました。

 あなたが、先のお手紙で書かれたように、『反省という言葉の意味がわからない』という言葉が真であり、内省というものから遠い距離のあるところの『現行の法規から逸脱し社会システムの処罰対象となったので、処罰される』というスタンスが、とてもよく伝わりました。

 皮肉ではなく、とても正直だと、僭越ながら感心してしまったのです。価値観はそれぞれですが、わたくしにとっては、正直であることは尊重されるべきことだと考えています。そこまで正直だと、さぞこの世間というものの中では生きにくかったことでしょう。

 共存、という言葉を選択したのは、わたくしの誤りだと思います。共存、という言葉を発する時は、とても慎重にならないといけないと考えています。

 空疎な理想を語って、説法を受けたように思われたかもしれません。申し訳ありませんでした。

 ただ、わたくしの引き出しの中からは、今のあなたの状況に対してコメントできる言葉は限られています。今のあなたの溜飲を下げられる言葉は、わたくしには浮かびません。それは、わたくしの人生の経験が、乏しく狭いからに他ならないのですが、できないものはできないと言わなくてはならないと思うのです。逆に言えば、今できるくらいのことはできる、とも言えます(無意味な禅問答ですいません)。

 共存という言葉が適切でないのだとしたら、『とりあえず丁寧に生活してみて、内発的に自身の中で、起こしてしまった(起きてしまった)出来事に対する解釈が、生まれ育っていくのを待つ』という風に言い換えます。結局は同じことを言っているだけとも言えますが。

 そして、あなたが仰る国家運営という話にまでなると、わたくしの知識と想像力ではおよびがつきません。ただ、この共存や折り合いという言葉に纏わる議論の先に、巡り巡って、国家というか、国民性というか、『クニの雰囲気』というものがあることは、なんとはなしに理解できます。

 あなたとのこれまでのやりとりで、あなたが潜り抜けてきた戦地というものを想像します。わたくしもまた、あなたと同じく、個人的な戦争に明け暮れる人間の一人です。

                            鈴木直人 拝>



<拝啓 ○○市嘱託医 精神科 鈴木先生


 お返事まことにありがとうございます。

 いらぬお気遣いをさせてしまったことと思います。

 とりあえず丁寧に生活してみる、という言葉は、実践的でイメージしやすく、今後自分が生きていくうえで、方針のひとつとして取り入れていきたいと思いました。正直申しまして、『折り合い』や『共存』という曖昧で抽象的な言葉よりも、よほどわかりやすいです。

 戦争、という表現に関し、先生は、わたしが事後にネット上にあげた文章を、読んでくださったのだと推察いたします。

 あけすけに自身のことを伝えるならば、わたしにとってこの世間で生きていくということは、戦争という表現を用いて大袈裟なものではありません。

 自分がはるか幼い、原初に近い記憶の中でも、わたしは周辺に抱く違和感を今事のようにありありと思い出せます。

 自分が抱く、世界の印象および距離感と、他の多くの人(すべてとは言いません)がおそらく抱いているであろう世界の印象および距離感は、どうも違うようだと、感じていました。それを覚知したわたしが、瞬間的に思ったことは、なんとかして生き延びねば、ということです。

 自分が感ずることをさておいて、まず他者たちがどのように世界を知覚しているかを、その行動や言動から推測し、なるべくそこから逸脱しない範囲に自身の行動と言動を抑制し、一方で抑制への労で自分が摩耗しすぎない程度に、自閉というやり方で世界との間合いを測る。

 日常が、その連続で満たされるのです。

 今や、わたしはその一連を、思考を経ることなく反射で行っているのだと思います。ただ、原初から感じた違和感、透明の膜を被って世界を生きている感覚は、今を持っても継続しています。

 保育所の子どもたちを見た時に、最初に想起したのはこのことです。

 子どもたちが、わたしと同系統の人間とは思いません。ただ、この子たちは、今後この世界を生き延びる、生存することが当座の目標となろう(このことは現在の国家状況、世界状況、地政を考えれば自明です)と考えた時、たとえ別の意味であっても生存を目的として生きることを自覚した自分にとっては、他人事ではなく、見当違いな一方通行であったとしても、思い入れの対象になったのだと思います。

 その思い入れが、この行動の初発でした。

 戦地を生きる子どもたちに、よりよき未来を生きて欲しい。

 先生は、この世界に未来があると思われますか?

                              鈴木さくら 拝>



「ねえ」

 俺はその声を聞いて、はっと顔をあげた。そこには、寝起きのアシナガの姿があった。時計にちらと目をやると、まだ五時前だった。普段よりもだいぶ早い。

「おはようと言っていたのに、聞こえなかったの?」

「ちょっと、集中してた。ごめん。おはよう」

「早朝覚醒ね。最近、また睡眠の調子が悪いの」

 アシナガが顔をしかめた。

「うん」

「それなに?」

 アシナガが、顎で俺が握った便箋をさした。なぜだか、俺は動悸がした。

「手紙だよ。前に鑑定した、被告からの」

「見せて」

「いや……」

 と俺は言って、便箋に目を落とした。

「結構な個人情報だから、見せることはできない」

「あ、そう」

 アシナガは無関心そうにそう言って、俺があらかじめ沸かしておいたコーヒーを自分でカップに入れ、俺の前の椅子に座った。俺たちは、一枚の便箋を挟んで、向かい合った。アシナガが、カップに口を付けてコーヒーをすすった。まだカフェインが回っていないはずなのに、もう覚醒した目をしていた。

「手、出して」

 俺は言われるままに、手を差し出した。すると、アシナガはペン立てから極細のサインペンを取り出して、俺の親指の爪に何やら模様を描き始めた。アシナガの、アート趣味はいまだ継続されていた。

「以前、わたしのこと、好きって言ったわよね」

 アシナガが、ペンを走らせながら言った。

「うん」

「わたしの、どこが好き?」

 俺は一考して、

「存在」

 とこたえた。

「どことも特定しづらい、全体の、存在」

「ふうん」

 アシナガは、またコーヒーに口をつけ、覗き込むように俺の目を見た。

「えらく曖昧ね」

「具体的にどの部分が好きとか、ロジカルに言えるものでもないと思うんだけど」

「あるいは、ロジカルに言えなくなった?」

「そうじゃない」

 と俺は反論した。

「むきにならないでよ」

 アシナガは笑った。

「わたしは意外と、ロジカルに部分で説明できるけどね。わたしはね、誰かを強く憎んでいるあなたが好き。憎悪に身を焦がして、深い穴にずり落ちていきながら、それでも自分の振る舞いに注意を払って、丁寧に生活しようとしているあなたが好き。戦っているからね。戦士は格好いいわ。虚ろな戦士」

「……ありがとう」

 と俺は言った。アシナガから、好きという言葉をもらったのは、これが初めてだった。

 しかしそれは、裏を返せば、俺は救われてしまったら彼女を失うということである。

 救われてはならない。

「世界も自分も他人も関係も儚いわよね。儚い中で、ひと時を一緒に過ごそうよ」

 そう言って、アシナガはペンに蓋をして、席を立った。

 俺の右手の親指には、油性マジックで描かれた、眼の中に眼があるような不可思議な模様が残されていた。

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