第11話 過去

 誰しも過去はある。俺とて例外ではない。これはそういう話である。

 俺は一九八五年に生まれた。物心ついた時がバブル時代、小学校にあがるころに崩壊しいわゆる失われた時代が始まる。


<父について>

 父は地方の港町出身で、大学入学と同時に上京した。実家は八百屋で、時代もあり常に貧困の中に身を置いていた。九歳の時に家が全焼して、貧しさにさらに拍車がかかった。二年間、親族宅に預けられ、再度実家に戻された。それを機に、貧困から脱するには学業しかないと信じて、勉強に打ち込んだ。当時は勉学で社会的ステータスを向上させられる夢が持てた時代なのであった。高校時代は首席で通し、全国模試でも都市部の学生より上位だったことを、ことあるごとに(本当にくどく)繰り返した。

 大学時代は、いわゆる苦学生だったようである。奨学金とアルバイトで、学費と生活費を賄った。そして、これは終生、父が繰り返し語ったことなのであるが、地方出身故のコンプレックスがついてまわった。上京してみて、周囲の都内出身の学生との教養の程度の違いに、面食らったとのことである(これは幻想なのではないかと思うのだが)。だから父は、自分が思う教養なるものを身につけようと、大きな努力を払った。文学や古典を読み、食費を削って美術館やコンサートに出入りし、文学部だったが生物学や工学の講座にももぐりで出入りした。自分が関わった限りで思うのは、父は確かにいろいろと広く知識を持っていた。海と農地ばかりという出自で、大学入学から後天的にここまで身に付けられたなら、よく頑張ったねというほかないと思う。ただそれが結局のところ『都会的教養』なるものの幻想が前提にあるので、どこまでいってもコンプレックスが解消されるには至らないのである。結果的にこの劣等感はだいぶその後の父の行動や言動をいびつなものにしたと思う。

 大学卒業後、父は大手の保険会社に就職した。出世はしたが、社内での軋轢も多かったと母は言っていた。社内で別部署だった母と出会い、三十歳で結婚した。そして三十三歳で税理士資格をとって脱サラし、事務所を構えた。自営となった父は猛烈に働いた。父を突き動かしていたものは、貧困への恐怖だった。幼児期味わった辛苦を二度と繰り返したくないという恐怖心が、父を飽くなき仕事への熱意へと奮い立たせていた。職業人として有能であったろうことは認めるし、何より己の時間も身体も家族も削ってのその労働意欲に支えられ、収益に関していえばとても高いものを得られていたと思う。その甲斐あって、俺は後述する父の死までは金銭的に言えば苦労知らずで育った。そして金銭で苦労したハングリー精神の権化である父と、苦労をしたことのない俺と兄とでは、とても分かち合えない価値観の違いがあった。


<母について>

 母は都内の開業医の家に生まれた。祖父が医師ということで、母も医師になることを希望していた。ただ、詳しくはわからないが、母の家にはなんらかの家族病理があったらしい。祖母は教育に熱心で、母はそれにこたえ順調に成績を積み上げ、母の姉は徹底的に反抗に徹した。俄然祖母の教育熱は母に注がれた。典型的な経過ではあるが、母は高校時代に摂食不良となり、それは明確に摂食障害として結実し、高校二年時に全く登校できなくなった(このあたりのことは、母はほとんど覚えていないという。母が不在のところで、祖母から直接聞いた話である。母が摂食障害で極度に痩せている時の写真は、母が成人を迎えると同時にすべて焼いたと祖母は言っていた)。

 どういう経過をもってかわからないが、摂食不良でるい痩時期が続き、しかし三年後十九歳の時のある瞬間に、突如として母は食べだしたという。その食べ方というのは、動物そのものの、皿を丸呑みするような勢いでの食べ方であった(祖母談)。

 かくして、むしろ肉体的に丸みをもって成人を迎えた母だったが、学業どころではない状態が続いたため、高校卒業検定を経て大学受験の際、医学部の受験は断念せざるを得なかった。都内の女子大に進学し、そこで心理学を学んで大学院も卒業し臨床心理士の資格もとったが、心理士として活動することはなく、保険会社に就職した。そこで父と出会った顛末である。

 母は、自分の記憶の中では、過去にそこまでの病理が内在されていたとは想像できかったが、神経質なのは確かだった。自分の夢と意志を子供に託しているところも多分にあった。特にそれは兄に向けられた。

 夫婦仲は悪くはなかったと思う。箱入りに近い生育環境だった母にとって、田舎の野生の中で育まれてサクセス(と父と母は思っている)した父には、惹かれるものがあったという。しかしその惹かれたシチュエーションは、『食堂で食べ物を食べるとき、動物みたいにがつがつ荒っぽく食べてて、あ、これでいいんだ、これで生きてていいんだ、と思ってほっとした』というものだった。こういう話を聞いたとき、子供としてはどういう表情をしたらよいかわからないし、なんとはなしの上から目線みたいなものも感じた。


<兄と自分について>

 自分が生まれる四年前に、兄の鈴木栄治が生を受けている。

 兄は、いわゆる神童であった。立ち歩きといった運動機能から言葉まで、発達と言われる要素はすべて早かったという。自分の記憶が始まる頃の兄は、だいたい小学一年生といったところである。優しく面白くよく遊んでくれて、慕っていたという印象しかない。写真を見返しても、俺はいつも兄の横に張り付いている。ずっと背中を追いかけていたのだ。

 自分も小学校に上がるころになると、兄の突出した要素というのも理解しだした。勉強はできるが、それだけでなく、誰にでも公平で優しく、言葉を選んで熟慮し、大人に対しても物怖じすることなく言いたいことは言い、それでいて生真面目というでもなく、人並みに同級生といたずらをしたり、からかったり冗談を言ったりして、突出していながらにして慕われ人の輪の中にいた。

 でも、今から考えての後出しじゃんけんではあるのだが、どことなく儚さみたいなものを感じさせてもいた。長くはこの世にいられないような、そういう雰囲気はあったような気がする。兄は、いつもよく笑顔でいるのだが、時々ふと真顔になっていることがあった。そういう時の兄を見た時、俺はどことなく不安を覚えていたことを記憶している。

 兄は、中学受験を経て、寮制の全国屈指の進学校に入学した。しかし寮に入った兄を待っていたのは、挫折だった。理由は判然としないが、とにかく適応できなかったということに尽きるのだと思う。兄は、中学一年の二学期に学校に行けなくなり、やむなく両親は兄を実家に戻し、退学した。そして地元の公立中学に転校した。

 しかし、転校後に待っていたのは地獄であった。神童からの陥落、誰もが飛びつくネタではある。それが思春期であれば尚更だ。地元の、かつては友人であった者たちから、兄はいじめを受けた。破れた制服で帰宅する兄を見て、尋常ならざることが起きていることはわかった。転校後二か月もたたないうちに、兄は再び不登校となり、以後学校に一度も登校することはなかった。

 兄は、自室にこもるようになった。自室で何をしていたのかははっきりわからないが、ラジオの音声がよく聞こえた。たまに深夜に家を出て、帰ってくるとハガキを持っていたことから察するに、ラジオ番組にハガキを投稿していたのだと思う。無口になり、ほとんど何も語らなくなった。表情は乏しく、食事も食卓でとらなくなった。

 父母は二人とも、兄を避けるようになっていた。いつに間にか、一家の腫物という立ち位置になっていた。父母は、何もしなかったのである(少なくとも自分にはそう映った)。そして、ある深夜、俺が尿意で起きて一階のトイレに入ろうとしたとき、隣のリビングから声が聞こえてきた。

「あの子は、もう駄目ね」

「ああ」

「何がよくなかったのかしら」

「さあね」

「この先どうするのかしら」

「通信制の高校とかになるのかね。やる気があるのなら」

「そんなところ卒業しても、なんともならないわ」

「でも他にやりようがあるか」

 母はため息をついた。

「小さい頃は頭がよかったのに」

「資質があっても、根性がなければ伸びないよ」

「こんなこと言うのはよくないとわかってるけど、虚しくなるのよ。仕事いっぱい休んで、自分のキャリア削って、あの子の習い事とか、受験とか頑張ったのに」

「親が頑張っても、難しいことはあるものだよ」

「あなたって他人事ね」

「他人事じゃない。働けなくなる可能性のあるあいつを、どうやって抱えていくか、思案しているんだ」

「抱える?冗談じゃないわ。学校も行けなくて仕事もできないのなら、あなたの実家にでも送って、店の手伝いでもしてもらうわ。身近に、そういう人間がいるのって、耐えられないのよ」

「お前は内心、俺の実家を馬鹿にしてる。落伍したら、田舎に都落ちか?島流しの先が俺の実家か?」

「そういう話は聞きたくないわ」

 その時の自分の感情を、俺はいまだに覚えている。

 それは嫌悪である。自分と血のつながったこの親たちを、俺は激しく嫌悪した。この親たちから生まれた自分もなんだか汚いものに思えた。

 それから、俺は世界が変わってしまったように思えた。家にいても、全然安心ができないのだ。自然と、俺は親を避けるようになった。親は、俺の変化にも狼狽した。「直人までもがおかしく」とうっかり母は口を滑らせたことがあった。

 その頃から、兄は、ごくたまにであるが、俺とは口をきいてくれるようになった。俺の、親への態度の変化を見て、「お父さんとお母さんには優しくしてやれ」と言った。自分のことはさておいてだ。

「栄ちゃん(俺は兄をこう呼んでいた)だって、全然お父さんとお母さんに優しくないじゃん」

「……俺は、もう駄目だから。でもお前は違う」

「駄目なんて言うなよ」

「いや、俺はもう駄目だよ。自分でよくわかる。電池切れだ。思ってたよりバッテリーが少なかったんだよ。しょうがない。この世界には、しょうがないことがいっぱいある。お父さんとお母さんもそうだよ。あの人たちは、あの人たちの、自分の人生を背負っていて、だからしょうがないんだよ。お父さんとお母さんを、嫌っちゃいけない」

「嫌いだ」

 と俺ははっきりと言った。

「栄ちゃんも嫌いだとはっきり言ってやればいい」

「嫌いじゃないよ。お父さんとお母さんが、どういう背景を背負っているのか、知っているからさ。頑張って生きてきた人たちなんだよ。頑張って生きるということは、なかなかできることじゃない」

 そして兄は、自室に戻って行った。

 それから二年間、事態はまったく動くことなく経過した。俺は中学二年生になり、兄は十八歳になろうとしていた。俺自身もその頃になると、人間関係も広がり、自分のことに懸命になる時期でもあり、兄ともあまり接触がなくなっていた。

 なんの前触れもなく、久しく兄を見ていないとふと気が付いて、特に用事もないのだが、レンタルしたCDを片手に兄の部屋の扉をノックした。扉の向こうから何の反応もなかった。兄は、俺の来訪には必ず応対はしてくれたので、何度もノックするうちに俺は不振に思い、扉を開けた。

 兄は自室で首を吊っていた。紐に、兄の体がぶら下がり、窓の夕陽が逆光になっていた。

 俺は慌て、狼狽し、叫んでわめいて泣きながら、兄の机の引き出しから取り出した鋏で、椅子を台にして紐を切った。兄の体は重く、俺は支えきれず倒れこんだ。兄の目は上転し、明らかにもう息はなかったが、俺は一階に降りて救急車を呼んだ。

 そこからの記憶は曖昧である。葬儀があり、親族が集まり、それぞれが何かしら言ったのかもしれないが、まるで覚えていない。なんとはなしの風景の残像だけがある。

 そしてその日を境に、俺の親への嫌悪感は、憎悪へと変わった。親とは一切の口をきかなくなった。親も、おそらくはなんとはなしの俺の感情を察して、何も言わなかった。家庭というものが瓦解して久しかった。

 そしてその四年後である。俺の大学受験が終わった三日後に、父が運転し助手席に母が乗った自家用車は、近隣の住宅開発地に向かうトラックと正面衝突し、両親は死んだ。即死だった。遺体は見ていない。損壊が激しすぎたのである。購入五年目だった車は前部が原型をとどめていなかった。

 両親の死を経験して、まず驚いたことは、死をもって許せて憎悪が消えるどころか、まだまだ依然として激しく燃え盛っていたことである。逆に死んだことで、俺は永久に憎悪の呪いから解き放たれないのかと思った。俺はたしかに、アシナガの言う怒りの人間になってしまったのである。

 俺は孤立した。もっと前から、孤立していたのかもしれないが。扶養者がいなくなった俺は、奨学金を得て大学に通った。大学を卒業する時に、自宅を売って、今のアパートを借りて移り住んだ。

 何の変哲もない、個人史である。

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