第9話 アシナガの絵、政治の季節
ある日家に帰ると、部屋に画用紙が散乱していた。画用紙には、クレヨンの様々な色で、得体の知れない何かが描かれていた。
散乱した画用紙の中央に、アシナガが居た。アシナガは、画用紙を床に置き、一心不乱にクレヨンを持った手を動かしていた。新品に近かったはずのクレヨンは、すでに半分以上その長さを縮めていた。アシナガの指先も、クレヨンで色がついていた。
「ただいま」
「おかえり」
アシナガがこちらを見ずに言った。
「急にどうしたの」
「見てのとおりよ」
「絵を描きたくなったの?」
「うん」
俺は仕事用の鞄を置いて、洗面所で手を洗い、部屋着に着替えた。
「何を描いてるの」
俺は、床に膝をついているアシナガの上から、画用紙を覗き込んだ。そこには、赤と黒の色が交互に過剰に濃く塗りたくられていた。
「特にこれって目的もないの。ただ思うままに、手を動かしているの」
「なんだか鬼のパンツみたい」
「鬼のパンツ?何それ、面白いじゃない。じゃあ、それを描いているということにするわ」
俺は冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注ぎ、それを飲みながら絵を描くアシナガの姿をしばし眺めた。アシナガの丸めた背が、手の動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。もともと小柄で華奢なアシナガの姿が、さらに小さく見えた。
「なんでまた急に、絵を描きたくなったの?」
「めちゃくちゃに暇だからよ。あなたが仕事に行っている間、わたしがどれだけ時間を持て余しているか想像がつく?この狭い部屋の中で」
「少し外に散歩に出てみればいいじゃない」
「外?外は地獄じゃない。怖くて出られたもんじゃないわ」
「何がそんなに怖いの」
「全部。空気とか人とか、全部。あれを怖いと感じない人間の感受性のほうが信じられない」
俺はビールを飲み干し、グラスをシンクの中に入れた。アシナガは、赤いクレヨンをさらに四分の一にまで縮小させていた。
「できた」
唐突にアシナガが叫んだ。
「あなたが命名した、鬼のパンツよ」
「うん」
「感想は?」
「よくわからないけど、高いエネルギーは感ずる」
「褒め言葉と受け取ってもいいのかしら」
「受け取りたいように受け取ってもらって構わないよ」
アシナガは少し不服の視線をこちらに向けた。
「でもびっくりしたわよ。暇だから例によってあなたの部屋を漁っていたら、引き出しの奥から画用紙とクレヨンが出てきたんだもの。あなたも絵を描いてたの?」
「……昔ね。本当に昔。学生時代に。引っ越すときに、たまたま処分を逃れてそこにあったんだと思う」
「どうして今は描かないの?」
俺は少し考えた。
「描きたいと思わなくなったから。描く必要がなくなったのかな」
「以前は描く必要があったってこと?」
「まあ、あったんじゃないのかな。自己慰安、自己表出だよ。年相応に鬱屈はしていたからね」
「そういえば、これらと一緒に、こんなのも出てきたわよ」
アシナガが、一枚の画用紙を取り出して見せた。そこには、背景のない、黒の線だけで描かれた、女性の絵があった。眼が異様に大きくて、どこを見ているか焦点が定まっていなかった。
「あなたが描いたの?」
「たぶん。覚えてないけど」
「悪くないわよ。今の仕事よりはセンスがあったんじゃないの」
「そうかもね」
俺は、アシナガに負けず劣らず平坦な声で言ってみた。
そこで気が付いたのだが、よくみると、アシナガの持っている画用紙が小刻みに震えていた。つまりアシナガの手が震えているのだ。そして、少し息が荒くなり、がくりとうなだれた。
「どうしたの」
「……離脱」
アシナガがぽつりとつぶやいた。
俺は慌てて、台所の棚から薬箱を取り出した。そしてジアゼパム二錠をシートから取り出し、アシナガに服用させた。
アシナガは、ソファに横になり、目をつむった。俺はそこに、毛布をかけた。アシナガの曇った表情は、徐々に穏やかなものに変わっていった。
十五分ほどすると、アシナガはむくりと身を起こした。
「おさまった」
「うん」
「離脱症状が出るまでの時間が、短くなってきてる気がする」
「そうかもしれないね」
「依存?」
「うん」
「参ったわね。不自由な身体ね」
「誰だって、何かに依存して生きているよ。それがたまたま、ベンゾジアゼピンに偏っちゃっただけだよ」
「本当にそう思ってる?」
アシナガが、俺の顔を覗き込んだ。
「……まあ、ちょっと過剰なんじゃないかとは思ってるよ。飲み過ぎがよくないのは当たり前だからさ。少しでも減らせたらいいとは思うけど。でも減らすことの難しさも重々わかってる」
「優しいあなたが、無限に薬を供給してくれるからね」
とアシナガは言った。
「あなたといる限り、わたしは永遠に依存から脱却できないわね」
アシナガがじっとこちらに視線を向けた。特に感情のこもっていない視線だった。俺は目を逸らし、無言の海に沈んで、もう一杯グラスにビールを注ぎに、冷蔵庫に向かった。酔いたい気分だった。最近、酔いたい気分が多い。
「冗談よ。気にしないで」
アシナガは微笑んだ。
「無限に供給してくれるあなたがいてくれなかったら、わたしは八か月前に死んでると思うから」
「生きることを選んでくれたのなら、僥倖だよ」
「選んだんじゃなくて、選ばされたのかもね」
俺はうつむいた。それを見て、アシナガは笑った。
「これも冗談。なぜかしら。今日はどうにも、追い詰めたい気分」
「あまりいじめないでほしい」
俺はビール片手に、再びテーブルに戻った。
「前に本で読んだことがあるんだけど、アルコールとか依存性薬物への依存て、無限の母性への希求で、胎内回帰願望の表れなんだって。てことは、わたしは胎児で、あなたは子宮みたいなものなのかもね」
「よく意味がわからないよ」
「特に意味はないのよ」
「例によって」
「そう、例によって」
アシナガはそう言うと、真っ白な画用紙を取り出し、今度は鉛筆を手に、何やら描きだした。アシナガの描く線は、ぐるぐると円を描いたり四角を描いたり三角を描いたり、上下左右に行ったり来たりした。アシナガは、長い時間その作業に没頭していた。夕食を食べるのも忘れて取り組んだ。俺は一人でパスタをすすった。アシナガの席の前に置かれたパスタは、みるみる冷めてパサパサに乾いていった。俺は風呂に入ったあと、新たに依頼された簡易鑑定の文書を読み進めた。三人を殺害した被疑者だった。これも明らかに簡易鑑定だけではすまなそうだ。
「できた」
アシナガの作品が完成したのは深夜だった。アシナガの労作は、鉛筆の細い線が交わることなく入り組んでいて、複雑な迷路のようで、神経症的な細微さをもっていて、じっと見ているとなんだか少し吐き気がするような気がした。
「タイトルは、眩暈」
「ぴったりだと思うよ」
「これ、飾っておいて」
「うん」
俺はセロハンテープをちぎって、壁に貼った。扱いが雑すぎると指摘を受けるかもしれないと思ったが、アシナガは特に何も言わなかった。
「ああ、疲れた。今日は深く眠れそう」
アシナガは風呂には入らず、いつもの向精神薬十三錠を胃の中に流し込み、寝室の中に消えていった。
それからというもの、アシナガはひがな一日絵を描いていることが多くなった。クレヨンと鉛筆は瞬く間に使い果たされた。俺は新しいクレヨンと鉛筆の他にも、パステルカラーや水彩絵の具、カラーマジックと大量の画用紙を要望され、それを購入した。油絵具も要望されたが、家中に匂いが充満するので、それは断った。
いつか飽きるのだろうと思ったが、アシナガは一向に飽きる気配を見せなかった。家の中は、大量の絵画が散乱し、また壁一面にも何枚も貼られていった。アシナガは画用紙に描くことに飽き足らなくなり、床や壁にも色を塗りたくるようになった。賃貸だからやめてくれと言ったが、それについては聞く耳をもたなかった。
俺の部屋の雰囲気はどんどん変わっていった。四方で様々な色が主張し、どこを向いてもアシナガの絵が目に入り、それがいちいち刺激になって、どことなく落ち着かず安穏とする空間ではなくなった。この部屋が、アシナガの内面世界の再現なのかな、とも思った。
リビングの壁に絵を描けるスペースがなくなった頃合いで、アシナガは唐突に、石を拾ってきてほしいと言ってきた。左頬には誤って付着したと思しき空色の絵の具が塗られていた。
「いろんな大きさの石を、取ってきて。形はどんなものでもいいから。大きさはバリエーションが欲しい。たくさん欲しい」
そのため俺は、休日に河原に赴いて、大量の石をリュックサックに詰め込んで運ぶという作業を強いられた。両肩がもげそうだった。
アシナガは、俺が拾ってきたその石に、水彩絵の具で色を付けていった。顔のような模様を描いたり、動物のようなものを描いたり、星のようなものを描いたり、果物を描いたり、はたまた様々な色の斑を付けたり、原色で塗りつぶしてみたりと、実に多彩だった。石に色を付けることはとみに気に入ったようで、自宅の床や棚の上にはあらゆるところにアシナガの作品群である石が並べられるようになった。俺はしょっちゅう石にけつまづいて、転びそうになり、足をいためた。なぜかアシナガは、器用に身軽にひょいひょいと、避けて通れるのだった。匠にかろうじて残されている床のスペースを見つけて、渡り歩いていくのだ。
「はい、これ」
ある日、俺が出勤しようとしたとき、唐突にアシナガがその『作品』のひとつを差し出してきた。それは、拳よりも少し大きいくらいの、淡い赤紫と真紅が混ざり合ったまだら模様が描かれた石だった。
「タイトルは『心臓』よ」
「うん」
「持ってって」
「え?」
俺は驚いた。少しだけ、ごめんだなと思った。
「いつどこにいても、二人はともにあるという証左のためよ。これをわたしだと思って、鞄に入れて持ってて」
「うん」
そう言われると、仕方がないので、俺は作品を受け取り、鞄にねじ込んだ。鞄が不自然な膨らみを持ち、そして重くなった。
「その重みはわたしの存在の重みよ。だからずっと持ってて」
「うん」
「わたしはいつもあなたの傍にいる。傍にいて、あなたを守るわ」
俺は、よく意味がわからなかったが、とりあえず「ありがとう」と言っておいた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
俺は我が家を後にして、駅に向かう道を歩いた。
道のいたるところで、若者たちがたむろして、政治的なメッセージが書かれたプラカードを掲げていた。そして誰かが音頭をとり、独特のリズムで現代政治への遺憾と怒りと変革を、唱和していた。これはここだけの現象ではなく、日本各地の主に大学生を中心として広がりつつある、ムーブメントだった。
政治の季節、と俺は思った。
そこには、ファッションの意味合いも強いのだろうが、若い人たちの政治への明確なコミットが始まっていた。
きっかけは、はっきりと、鈴木さくらの事件を契機としてである。
鈴木さくらの、『文言』がSNS上で一斉に発信、拡散された時から、政治的な話、というのはひとつの流行になった。鈴木さくらは、ダーティヒロインとして、若い人たちを中心に祀りあげられた。暴かれた過去、生い立ちと現在の立場、端麗な容姿、逮捕後のまったく堂々とし表情を変えないその振る舞い、信念とメッセージ。おそらくは共感というよりはファン心理に突き動かされて、政治にまつわる議論と行動が広まった。
鈴木さくらの行動は、たしかに大きなものを動かした。まるで七十年代みたいに、若者が政治を語りだし、祭りを起こしてその中でうねり、週刊誌もここぞとばかりに連日政治家のスキャンダルを暴きたてた。
俺は、今のこの状況に対して、とても居心地悪く感じていた。
実刑判決を受けた、鈴木さくらは、はたしてこの状況をどう思うのだろうか?
もう二度と話す機会などないだろうが、俺は鈴木さくらに問うてみたかった。
そして少し後にはなるのだが、俺は鈴木さくらと再びコンタクトをとることになるのである。
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