第8話 鈴木さくらの言葉、および他人という彼岸
その日、俺は朝から片頭痛で悩まされた。市販の鎮痛剤を二錠飲んで横になっていたが、なかなか痛みがひかなかった。結果的に、俺は日課であるアシナガのコーヒーをいれそびれた。アシナガはなんのことはなく、自分でコーヒーをいれて、リビングのテーブルでがぶがぶと飲んでいた。俺は、のそりとソファから身を起こした。
「どうかしたの」
「頭が割れそうに痛いんだ」
「それは大変」
「コーヒー、いれておかなくてごめんよ」
「気にしないで」
俺はアシナガの向かいに座って、腕を枕に突っ伏した。
耳元でことんと音が鳴った。バナナが置かれていた。
「朝ごはん。果物くらいは食べられる?何も食べないのは体に毒よ」
「ありがとう」
俺は椅子の背に背をもたれて、バナナの皮を剥き、頬張った。いささか熟しすぎていた。
「戦争」
と俺はぽつりと言ってみた。
「アシナガは、戦争、してる?」
「戦争?」
「うん」
「爆弾落としたりする、あの戦争?」
「いや、なんていうか……生きることに置いての、抽象的な意味での戦争」
アシナガはしばし考えた。
「どうかしらね。自分のことはわからないわ。でもそれって、要するに、生きることは何なのかと考えることでしょう?」
「そう言いかえてもいいかもね」
「なら、程度の差こそあれ、みんなやってることじゃないかしら。そしてみんな、最後には負けるのよ」
「ここでいう戦争に、勝敗なんてあるのかな」
「あるわよ。だって最後はみんな死んじゃうじゃない。それは平等にそうじゃない」
「たしかに」
「抽象も現実も、戦争に勝者はいないのよ」
なんだかうまくまとめられてしまった気がした。アシナガは、バナナを頬張ってコーヒーを口に含む、という作業を、交互に繰り返していた。そのたびに、前髪がはらはらと左右に揺れた。透き通るような目が、見えたり隠れたりした。
「君は、どういう時に生きていると実感するの?」
「それを聞いてどうするの」
「一緒に住み始めて八か月にもなるけど、君のことはわからないことが多いから。君は、自分のことを、あまり話さないから。知りたいんだよ」
「たとえそれを言ったとして、それが真実である保証があるかしら。わたしが嘘をついているかもしれないし、あるいはわたし自身も自分の嘘に気付いていないかもしれないし」
「たしかにそうだけど。でもたとえその言葉が真実であるにしろないにしろ、そこには情報というものがあるからさ。君について少しでも理解する、手掛かりにはなるかもしれない」
「他人は彼岸よ。特に男女は」
アシナガは言った。
「うっかり近づこうとすると、川でおぼれちゃうこともあるわよ」
「でも」
と俺は食い下がってみた。
「彼岸とわかっていながら、好きになったら、とりあえず歩み寄りたいと思うのが、人の感情なんじゃないの」
「じゃあ、あなたは、自分のことを曝しているの?」
「君よりは自己開示している気はする」
「わたしには、まだあなたが全然見えないわ。どうしてそんなに、暗がりの中を歩きたがってしまうのかしら」
「自分ではそんなつもりはないよ」
「それは、わたしの見解が検討はずれなのかしら、それとも、あなた自身が無自覚なのかしら。あなたは、その仕事を選んでまっとうし、わたしと共同生活を送ることが、成り行きだけで成り立っていると思う?」
「いや、そうは思わない」
「そこに思惟は入っているんじゃないの」
「……入ってると思うよ」
「なら教えてよ、あなたの思惟を。今ここでこうして向き合っていることが何らかの意味を持っているのなら、なぜそうなったのかのあなたの気持ちと意志を、表面的でなくどんどん微分していって、あなた自身のコアの一端を、わたしに見せて。それは、あなたを知る、というわたしの目的につながるわ。浅瀬の部分はいらないの」
俺はバナナの咀嚼も忘れて、黙ったまま顔を伏せた。時計の時を刻む音がやけに大きく聞こえた。片頭痛の痛みで俺は眉間にしわを寄せた。
アシナガが席を立って、俺に近づいてしゃがんだ。すぐ目の前に、アシナガの顔があった。
「ごめんなさい。言い過ぎたわ」
「いや、自分が悪い。言わなくていいことを言ったと思う」
俺は顔をあげて、もう食べたくもなくなっていたバナナを口に入れた。ほとんど味もしなかった。
「君が居てくれるだけで、俺はそれでいいんだ」
「わたしにとっては、言葉はただの信号なの。でもともに過ごす時間、共有する空間でもって、いつしかほんの少しだけ、互いを知ることはできると思っているのよ。それは希望じゃない。時間と非言語しか、信じることができないの」
「それが君の哲学なんだね」
「かもね」
「なんだかんだでほんの少し君を知れたから、よかったよ」
アシナガは、少し微笑んだ。
「君の言う通り、他人は彼岸、というのはひとつの真理だと思うよ。他人に期待しなくてすむなら、どんなに楽かとも思う。でももし本当に他人に期待をしなくなったら、それは生きていないのとほぼ同義だと思ってる」
「可哀想な人」
とアシナガは微笑みを崩さずつぶやいた。
「そうかな。幸福だよ、僕は」
「可哀想な人。これは同情じゃなくて、ただの感想よ」
そしてアシナガは向かいの席に座り直し、残りのコーヒーを飲んだ。
*
鈴木さくらの公判が行われた。世間を大いに賑わせた事件の初公判とあって、傍聴席の抽選には空前の長蛇の列が並び、それもマスコミに報道された。俺は既に報道は追わなくなっていたが、公判の記事は新聞で読んだ。
結果から言うと、鈴木さくらの公判は世間の注目と期待、好奇を大きく裏切るものとなった。法廷に立った鈴木さくらは、『ほとんど微動だにせず』『直立に立ち』『いかなる質問に対しても同じ言葉を繰り返し』たのである(記事の文言をそのまま抜粋している)。
繰り返した言葉とは、以下のものである。
<わたしが行った行動の、行動原理、思想、信念、被害に合われた方への言葉、すべて既に提示してあります。以上>
それから数日後に、各社のSNS上に、とある文言が一斉に発信された。それは、以前に政治家収賄の音源をアップしたアカウントとは別のものであった。文字数制限のあるものは、複数に分割されていた。
<この文言を目にするあなたへ
わたしは、鈴木さくらという名前の者である。
特定の政治家の脅迫、および収賄容疑の政治家Aの音声録音を行った。
この文言が拡散されるのは、おそらくわたしは初公判を終えた頃合いと推測している。
なお、音源および文言の時間差をおいての拡散に際しては、複数の協力者を得て実行したことであるが、現行の法規で違法となる行為はすべて単独で行ったものである。
わたしは、わたしが居住するこの国というものに対し、特定の感情を持たない。つまり左右といった政治的信条は持たない。
ただ、わたしが生活する生活圏、生きるという出来事の中で、大事にしたいと思うものは存在する。
大事なものの、現在、そして未来を守るためには、国家という枠組みの可能な限りの健全な存続が前提となる(国家が嫌なら出ればよいというのは、富める者の暴論である。わたしが目にする大事なものの大半は、その術を持たない)。
そして、わたしが個人的に思う『国家という枠組みの可能な限りの健全な存続』は、少なくとも現時点では危ぶまれていると考えている。
わたしは、上記の理念は為政に関わる限りは(理想論として)持つことが前提とされると考えている。目先の、各所の利権のバランス調整が現実的には必要なのではあろうが(そしてそれこそが政治の本質と言われたらそれも否定はしない)、そのうえで理念は理念として持たなくてはならない。
たとえば、『国家の健全な存続と国民の幸福は考えない』とする為政者がいるとするなら、それは論理的にも間違っているし、心情としても魂をかけて否と叫ぶ。
しかし現実には、この前提となるべき理念は共有されているとは思えない。
だからこそ、わたしは戦わなければならないと考えた。自分が大事だと思っているもののために、行動を起こしてみることにした。ごく個人的で小規模な戦争である。
非力なわたしが行える、その中でも最大限で最速でなんらかの反応が起こりうることとして、特定の為政者に文書を送るという手段をとった。わたしはそこで、『日本国の国民が、一定の幸福感をもって存続、生きることができるよう、己の魂をかけて研鑽し議論し考え実行すること』を約束するよう求め、また『実行されていないと判断した場合、貴殿および貴殿の三親等以内の親族のいずれかの生命と健康を障害する行動を、当方が実行する』と予告した。
つまり脅迫である。
わたしのこの文書ひとつで何かが変わるとは思っていない。ただ、わたしはわたしが起こした行動とその理由をあなたに伝えたい。
為政者が為政者としての理念を持つべきであると考えると同時に、人民もまた人民として理念を持つべきだと考えているからである。それは、『自己あるいは自己にとって大事なものの幸福(とまでいかなくとも安息)の追求』である。個々人がそれぞれの幸福(あるいは安息)の追求に自覚的になれば、おのずとそれは為政に対する期待と希求、評価と監視に通ずると思っている。
はなはだ独善的であると承知している。ただわたしは、わたしの大事なもののために、なりふりを構っていられないのである。ピンチなんだと切迫している。巻き込まざるを得ないのである。
わたしは裁かれる。控訴はしない。第一審の判決を受け入れる。
わたしの行動で不当に不安な一時期を送った方たちがいると思う。申し訳ありませんでした。法規に則った処罰を受けます。
最後に。
かの者たちの幸福な未来を、切に願う。わたしにとって、未来は悪夢でしかないが、それはわたし個人、あるいはわたしの世代の価値観での悪夢であり、かの者たちはわたしにとってはいわば未来人であるから、まったく別の価値観でこの世界をとらえられると信じている。
そしてこの個人的且つ誇大的文言を読んでくださった、あなたの幸も祈る。
鈴木さくら>
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