第7話 戦争、そしてもう一つの仕掛け

 新宿の居酒屋で、木村と待ち合わせた。木村と飲むのは久しぶりだった。俺は時間ぴったりに着いたが、木村は遅れた。俺はスマートフォンで今日のニュースを流し見しながら、時間をつぶした。この行為は言葉の通り、まさに時間を『潰して』いるだけだなと思った。

 店は、十年前に木村に紹介してもらった、和食屋だった。木村の一家が、幼少期から時に祝い事の時に利用していた店だそうだ。内装は十年前初めて来た時と、ほとんど変わっていない。

 三十分ほど遅れて、木村が現れた。

「悪い、遅れて」

「いつものことだろ」

「辛辣なことを言うなよ。今日は本当に、緊急の用事が入っちまったんだ。ビール一杯奢るよ」

「二杯奢ってくれ」

「わかった。二杯」

 俺たちは、ビールを注文した。そして特に祝うこともないが、乾杯をしてグラスを鳴らした。

「最近は、どうだ」

「細々と、精神鑑定と措置診察をやっているよ。行政の嘱託でね」

「実入りはいいのか」

「鑑定の数でだいぶ月ごとに波はあるけど……だいたい手取りで三十万くらいかな」

「嘘だろ。並みのリーマンより低いじゃないか」

 木村が驚いた。

「毎日依頼があるわけじゃないからね。依頼がない日は、だいたい鑑定文書を作ってる。確かに収入は少ないけど、悪いことばかりじゃない。自由な時間は圧倒的に多いから。この身分になってから、圧倒的に読書量が増えたよ」

「ますますお前から金をとるのに抵抗感が出てくる」

 木村がグラスに口を付けた。

「なんでまた、そんなことになっちまったんだ。また、普通にどっかの病院に勤めりゃいいじゃないか」

「まあね……。自分でも、そのほうがいいのはわかっているんだけど。でもなんだろうな、資格がない、って感覚がどうしても頭から離れなくて」

「資格?なんの資格だ?」

「精神科医療者としての資格だよ。精神科医療って、べつに劇的な治療とか、診察の中で魂を震わせるワンフレーズを口にしたりとか、そんなものがあるわけじゃないんだ。精神科医療の本質って、生活なんじゃないかな、って思うんだよ。長年病院に入院してて生活の場が病院になっている人とか、働きながら外来で通院している人とか、患者さんの生活の場にもいろいろバリエーションがあるけど。いかに相手の生活を具体的にイメージして、その生活の中の困りごとに対して援助するか、っていう。その援助もとてもささやかなものだけどね。そういう生活援助って、ようは優しさだよな、と思ったんだ。精神科医療者は、優しくなければならないんだなって。俺は優しくないから、いわゆるまっとうな精神科医療者にはなれないんだなって。精神科医になって三年目くらいでそう思って、直接患者の治療をする立場はやめることにした」

「一応、俺も医療従事者だから、医者とは日常接するし、精神科医ともたまには接するが、どうみてもまっとうとは思えない精神科医なんてくさるほどいるぞ」

「まあ、そうだとは思うけど。でも自分は嫌だった」

「なにがきっかけで、そんな偏った感覚になっちまったんだ」

「まあ、いくつはきっかけはあるんだけど。ある先輩の外来に陪席をしていて、診察を見てたんだよ。患者さんは若い女性だったんだけど、長い時間、ずっと喋ってて。親とか彼氏とか、現在からあるいはやたらと過去にまで遡って、ようは不安定な人間関係のことを、本当に、ずっと喋ってるんだ。横で聞いてる俺もちょっと辟易して、先輩の先生も、ちょっと時計とかちらちら見ながら、なおざりな返事を、うんうん、ってしてたんだよ。そしたら、いきなりその女性が、鞄からカッターを取り出して、静かに、泣きながら、手首を切ってさ。傷はそんなに深くはなくて、血もちょっと滲むくらいだったんだけど。俺はすごいびっくりして。診察の後で、先生が言ったんだよ。『あの子は、たぶん普段の生活の中でも、誰も話を聞いてくれないんだろうな』って。普段の生活で起きてる、話を聞いてもらえないってことを、診察室の中でも再現しちゃった、ってことなんだけど。そういうことに想像を馳せられるその先生は、優しいな、って思ったし。寄り添ってる、ってことだからね。同時に、自分には無理だ、って思った。何年経験を積んでも、そういう感覚にはなれない」

「お前は完璧主義なんだよ。つまらない理想像に囚われてる」

「お前に言われたくはない」

「言うね」

 木村は、ふっと笑った。

「お互い、理想を求めて、理想の真逆を突っ走っちゃったってわけか。本末転倒だな」

「まさにね」

「我ら、本末転倒ブラザーズ」

 俺たちはもう一度、グラスを鳴らした。刺身がきたので、それを頬張った。

「世情不安」

 と木村が口にした。

「世の中、ずいぶんいろんなことが起きているが、その変化の早さにまったくついて行けていない。通信の速度の発達と、世の中の変化の速度は比例してるな。端末に来たメッセージに、即時に返すなんて、とても俺にはできない。俺の中の時間感覚の、生理的限界を超えている。すなわちそれは、世の中の変化にも対応できないってことだな。諦めの境地だ。対応しないと生き残れないことは重々承知してるんだが、そもそも生き残りたいという感覚も希薄なもんだから、もういっそ率先して取り残されることにした。お前はどうだ」

「俺もまあ、同じようなもんだけど。取り残される組だよ。ただ、この先の世界がどうなっていくのか、興味はあるけどね。それは見てみたいし、それを見たいがために生きてる」

「見たいか、そんなに。この先のことが。どのみち未来はディストピアだぜ。どの選択肢もディストピアだ。これらのディストピアの中から、一番ましと思うものを選んでください、とうぞ、てなもんだ」

「さしてましでもないものが選ばれちゃうかもね」

 と俺は言った。

「貧すれば鈍するってな。大国とプラットフォーマ―の時代だ。どうしたって貧する。でも貧すること自体はさして問題じゃない。貧することによる、無意識の浸食と抑圧、無意識の諦観と虚無感と麻痺が問題なんだ。そういうことについては、俺は真剣に危惧してる」

「真面目だね」

「当たり前だ。俺は、いつだって大真面目で生きてる。だからこそ、いつも心で半べそかきなが生きているんだ。実際の表情は薄笑いかもしれないがな」

「自覚しているんだ」

「日出ずる国、というより貧する国だ」

「まったくね。でも生きていくには何か希望は持たないとならない。希望の対象の選択を誤ると、強く誰かの欲望に取り込まれることになる。べつにそれをよしとする人もいるかもしれないけど、自分はなるべく一人立ちたいとは思う。志としてはね」

「まあ、それこそ、自分探し、か」

「さんざん使い古されたうえに、今やネガティブな意味でしか使われないけどね。探したってないよ、外界との関係性の網目が自分を形作っているんだから、そんな余計な自意識は置いておいて、まずは今いるところで手足を動かしてごらん。自分探し否定派は、だいたいそんな感じのことを言っているよな。それも一理ある。でも最近、こんな時代だから自分探しって案外大事なんじゃないのかと思って。自分とは何なのか、なにをもって自分は生きているのか、答えがなくても自分の中でそうやって問うていくのは必要なんじゃないかな。外界に指針になるものはない、暫定的であれ自分の中で方向性を定めるしかない、そのためには一回根本に戻って、根っこのところから自分の言葉を探すしかないんじゃないか。他人から間借りした言葉じゃなくてね」

「文体、ってことかな」

「文体?」

「そう。こういう、不確定で脆弱な地盤になって自己が揺らぐときこそ、アートの出番だよな。社会を生きるための即物的能力、なるほど、それも大事だ。でも魂はそれじゃ支えられん。そういう時はアートだろ。効率性と汎化とは違う価値観もあるってことを知らせてくれるし。それは絵を描くとか文章を書くとか、具体的なアートの活動じゃなくて、要は自分の生き方に文体があるか、てことだ。周りの人はそうか、世間はそうか、世界はそうか、じゃあ自分はこうだ、という己の文体を持つ」

 俺は木村の言った言葉の意味について、しばし思案を巡らせた。

「お前は、文体を持ってる?」

 と俺は木村に聞いた。

「どうだろうね。もうちょっと前の自分だったら、そんなものはない、と言っていると思う。でも今は違うな。あるかどうかはわからないが、あると信じたい。一応、曲がりなりにも、三十四年生きてきたんだから、生き方に固有の文体はあってほしいよな。そう思うようになった」

「年をとったな」

「まあ、そんなところだ」

 木村は笑った。

「学びについてもさ、同じことが言えないかな」

「ほう。学び、とは」

「最近、わりによく本を読む。十代や二十代の頃よりずっとね。学生の頃って、勉強は大嫌いだった」

「高校中退した俺を前にして言うなよ」

「いや、木村はむしろ、学んでたんじゃないかな、あの頃から。だからたぶん、高校を辞めたんだよ、自分の意思で。俺は、本当、何も考えてなかった。勉強もしたくてしてたわけじゃない。医学部に行くためのツールだった。医学部に入ってからの勉強は、医師国家試験に受かるためのツールだった。働き始めて、齢三十も超えてから、知りたいことが増えた。知らないことが多すぎると自覚したから。もっともっと知りたいし、本を読みたいし、いろんな経験をしたい。でも残念ながら、今となっては時間が足りない。生活があるからさ」

「少年老い易く学成り難し」

「まさにね。そのものずばり。ぐうの音も出ない」

「まあでも、生活の苦労ってもんがあって、初めて知りたいことができるもんだ。気づいたのが三十代でまだましだったと思うしかないんじゃないのか。それが五十代だったら、もはや頭にも入ってきづらい。あるいは一生気づかないやつもいる。まあそれはそれで、悪いってわけじゃないけどな。そういう気付きが必要のない人生というものもある。貴賤はない。傲慢になっちゃいけない」

 木村は自分に言い聞かせるように言った。

「勉強って、なんのためにやるのかって、全然わかんなかった。でもようやくわかってきた。勉強、というか学問て、自由になるためにやるんだな、たぶん」

「自由?何が?」

「魂だよ。魂が自由になるために」

「魂?こりゃまた大きく出たね」

「生きてりゃ嫌になることもあるし、しんどいなあと思うことも多いんだけど、でもこういう見方もあるか、って別の視点を持てたら、少しは楽になるじゃん。その視点の、選択の数だけ楽になるっていう。その、別の視点の素材を増やしていくのが、勉強なんだな」

「そうだな。その、学びってきいて思い出したんだが、最近思ったことがあってな。学生時代って、やたらと問題を解かされるじゃん」

「それが学業ってやつだからね」

「出た問題を、いかに早く正確に解いていくか。でも、大学院の研究室に入ってまず思ったんだけど、社会に出てまず問われるのって、いかに問題を解くかじゃなくって、いかに問題を設定するかなんだよ。それに気づいた時に、本当にびっくりしたんだよ。なんだ、そういうことだったのかよ、て。なんでこんな大事なこと、誰も教えてくれなかったんだって、真剣に腹を立てたよ」

「でもそれって、他人から言われてもピンと来なくないか?自分で体感してわかるから、はっとするわけでさ。十代の自分が、誰かに『本当に大事なのは、問題を解くことじゃなくて、いかに問題を設定するかだ』とか言われたら、は?、って思う」

「ま、そりゃそうだ。往々にしてそんなもんだな、生きている間の、大事な経験というものは」 

 木村が、六つ皿の上に乗っている牡蠣フライのひとつを箸でつまみ、口に放り込んだ。ふと俺は、カウンターの上に据え置かれているテレビに目をやった。報道番組が、先日の、複数の児童養護施設への同時多発の寄付について報道していた。

「おい、あのニュース」

「ん?」

 木村も振り向いて、テレビに視線を移した。

「世の中って捨てたものでもないな」

 俺はアシナガの言葉を間借りした。

「くだらない」

 木村はつまらなそうに吐き捨て、またテーブルに向き直して二つ目の牡蠣フライを箸でつついた。

「名乗って堂々とやればいいじゃないか。誰も戸惑わずに済む。でもそんなことには頭が回らない。どうせああいうことをするやつは、自分の人生ってもんに負い目を感じていて、その掃き出し口がなくて、小さい脳みそで考えたささやかな独善的社会貢献を、やっているに違いないんだ。自分のつまらない自意識に、寄付っていう心理的抵抗をしづらい方便を使って、他人を巻き込んで、解消しようとしているんだ。どうしようもないエゴイズムだ。やらない偽善よりやる偽善?馬鹿言うな。ああいうのは、偽善ですらないんだよ」

 木村の、意外な、あまりに厳しい言葉に、俺は少し閉口した。

「ところで、だ」

 木村が仕切り直した。

「鑑定で、犯罪者と向き合っている時に、何を考えているんだ?」

「そりゃ、診断と、犯罪行為との因果関係だよ」

「そういうことじゃない。質問の仕方が悪かった。深いところで、何を感じて、向き合って、話をしているんだ?純粋に興味がある」

 俺は少し考えた。深いところで、ということは、自分でも自覚できていない、感覚の底流を意味する。はて、俺はいったい、何を感じながら、彼らと向き合っているのだろう。

「死、かな」

「死?」

 木村が驚いたように言った。

「通奏低音としての、死、なんだと思う。そういうことを思っているから、こういう仕事についたのか、あるいはこういう仕事をやっているうちに、そういうことを思うようになったのか、順番はわからないけど。彼らは往々にして、死、に近いところにいるから。相手がどういう状態で、何を考えて、どうしてその行動をとったのか、わかろうとするときに、なんとなく、死の存在が頭をよぎってる」

 木村が咀嚼する口を止めた。

「それで」

 と木村が口を開いた。

「それでお前は、怖くはないのか?」

「怖いよ。怖いに決まってるだろ。お前じゃないけど、半べそかきながらやっているところはあるよ。時々、本物が、混じってたりするからさ」

「本物?本物って?」

「悪」

「悪?」

 木村は顔をしかめた。

「悪ってなんだよ」

「悪は悪としか言えないよ。その、悪と、精神病性が、混在しているようなものがあって、それが怖いんだよ。対峙していて、底なしの沼に引きずり込まれるような気がして。相手に話しかけている言葉が、すぐに無の中に消えていくような気がして。すごく語弊があるけど、人間のように見えているけど、所謂人間ではなくて、でも確かに人間で、だからこそ怖い」

「わからない」

 木村は首を振って、グラスのビールを飲み干した。

「なんだってそんな思いをして、そんな実入りの少ない仕事をしている」

「なんだろう……。これも表現が難しいけど、なんとなく、悪の語る言葉には耳を傾ける価値があると思っているから。悪は悪だから、悪の言葉から逆説的に、善なるものがわかるかもしれないという気がして」

 木村はこめかみをおさえて、また首を振った。しばし無言の時が過ぎた。

「まあ、無理はするなよ」

 ぽつりと木村は言った。

 俺たちは結局、三時間かけて、八本の瓶ビールを空にした。せっかくの料理も、酩酊でまったく味がわからなくなっていた。地面がぐらぐらと揺れた。こんなに酔っぱらうのは久しぶりだった。

 俺たち二人は、駅ビルの壁際に、どすんと腰を下ろした。

「こんな時に、こんな場所で酩酊している俺たちに、まず未来はない」

 と木村は言った。

「あるよ」

 と俺は言い返した。

「なんだかんだで、俺は未来がある派だよ」

 木村は、ふっと笑って、腰を上げた。

「なんと言われようと、俺は未来はない派だ。でも未来がないなりに、闘いはしなくちゃいけない。今日、お前の悪の話を聞いて、改めて決意を固められた」

「決意?」

「気にしなくていい。個人的なことだから。ありきたりで青臭いが、生きることは戦争だと思う今日この頃だよ、本当。お前もしてるんだろ、戦争」

「……かもね」

「そこかしこで戦争がある。生き残ったほうが、花を手向けることにしよう」

「どっちも生き残らなかったりして」

「そしたら天国で会おう」

「お互い天国に行けたらね」

「言えてる。でも、お前には生き残って欲しいと思ってる」

 そして木村は、じゃあなと言い残して、よろよろと頼りない足取りで駅の中に消えていった。

 俺は自動販売機で水を買い、それを一気に飲み干した。そして再び壁際に腰を下ろし、スマートフォンを取り出して、ネットニュースに目を通した。

 そこには、やや報道がトーンダウンしていた鈴木さくら容疑者の記事がいくつも踊っていた。急激な酔いの醒めを感じつつ、俺は一気に十個くらいの記事を読み通した。

 今日の夕刻、いっせいにSNS上に複数の音源がアップされた。アカウントは鈴木さくらのものと特定されていた。音源の内容は、収賄の嫌疑がかけられつつも決め手にかけていた政治家の、まさに取引をしている音声だった。いつ、どのように録音されたのかまったく不明だった。鈴木さくらは、逮捕されることを想定して、あらかじめ時限爆弾みたいに、同時刻に一斉に音源がアップされるように仕組んでいたのだ。

 木村の言う、戦争、という言葉が、頭によぎって、そしてリフレインした。

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