第6話  仕掛け

 被疑者、鈴木さくらの鑑定を終えたその日、俺は帰宅して、すぐさま冷蔵庫を開けてビールを取り出した。そして、テーブルに置いたグラスにビールを注いでは、それを胃の中に流し込んだ。アシナガはヘッドフォンをしてDVDで再生した映画を観ていて、その世界に埋没しており、ひと言も発さなかった。

 グラスを傾けつつ、俺は横目でテレビ画面を眺めた。それは、もう二十年ほど前に、俺が買ったDVDだった。さるお笑い界の巨匠が撮った邦画だ。映画の内容そのものよりも、俺はそのDVDを購入した時代、どういう匂いがしたどういうところに自分がいたのか、そのことばかりを思い出し、反芻していた。

 その時、自分は高校生だった。学校に来るか来ないかといった木村と放課後につるんで、新宿のレンタルビデオ屋に入り浸っていた。今ではとても考えられないが、当時は本当にそこで三、四時間は時間がつぶれたのだ。会話内容などまったく覚えていないが、その時の感覚というものはありありと思い出せる。振り返れば、あまりにもありきたりではあるが、とても楽しかったのだ、その時代は。

 映画が終わり、エンドロールが流れた。アシナガはヘッドフォンを取り、振り向いて、こちらに近づいた。

「帰ってたのね」

「うん」

 アシナガが、テーブルの上に並べられた、五本のビールの空缶に目をやった。

「めずらしく、疲労の色が見えるわね」

「そうだな。今日はまあ……疲れた」

「何かあったの?」

「うん、まあ……」

 俺は言葉を選んだ。個人情報のこともある。

「気易く引き受けた鑑定が、思いのほか大変だった」

「どんな犯人?大量殺人犯とか?」

「いや、そういうわけでは……。なんていうのかな、その被疑者と話していると、まるで自問自答しているみたいな気分になったんだよ」

「自問自答?」

「自分がなぜここにいるのか、みたいな答えのない問いを、自分に投げかけているような。会話内容自体はそういうものでは全然なかったんだけど、でもなぜか、そんな気分になった」

「それは相当な大物ね」

「うん」

「運が悪かったわね」

「そうだね」

「でも飲み過ぎないでね。体に悪いわ」

 アシナガは、向精神薬を大量に服薬している自分をさておき言う。

「しばしアルコールの脱抑制の海を漂ったら、水を飲んでウォッシュアウトするよ」

「ここで寝ちゃったら、肩から毛布をかけておくわ」

「ありがとう」

 アシナガが微笑んだ。俺も微笑み返しを試みたが、口角がうまく上がらなかった。


 俺は、鈴木さくらの鑑定文書を三日かけて一気に書き上げた。どのみち、本鑑定、鑑定留置までいくのが既定路線なのだ。たかが自分の簡易鑑定の判断などたいした意味は持たない。

 診断は、広汎性発達障害。幼少期より限定的なコミュニケーションであり、個人的な興味の中で過ごすことが多く、その傾向は幾分社会化されてはいるものの現在にいたるまで持続している。被疑者の信念と実行した行動には、常識的観点からすれば乖離および飛躍があり、そこに発達特性の反映を見るが、被疑者の犯行時点での学校や職場での適応程度、社会的機能、生活様態を考えると、事理弁識の能力は十分に有しており、完全責任能力であると判断する。

 書いていて、馬鹿らしくなってきた。


*


 被疑者、鈴木さくらの簡易鑑定から一週間が過ぎた。

 突然に、テレビ、新聞報道各社が『鈴木さくら』を連呼し、こぞってこの政治家脅迫事件を報道し始めた。

 俺は自宅に戻ると、アシナガの横に座り、テレビのリモコンのボタンをパチパチ押して、放送局各社の報道をあらかた見た。

 事態は以下のようなものであった。

 昨日、報道各社に一斉に鈴木さくらの文書が届いたのである。文書の中には、鈴木さくらの起こした犯罪の概要とその理由、脅迫文書の内容と、対象となった政治家の名前が書いてあったようである。名指しされた政治家は、みなかつて汚職の嫌疑がかけられていた者たちだった。本人にしか知り得ない情報が書かれており、それは鈴木さくら自身がこのタイミングで自白文書が報道各社に送付されるように、仕掛けていたからに他ならなかった。

 報道はセンセーショナルなものだった。名指しされた大物の政治家、事件が伏せられていた事実、脅迫文書の内容、そして鈴木さくら自身のプロフィール(国内で最も権威ある国立大学の法学大学院生で、若く、人目を惹く容姿)も相まって、世間は熱を帯びてこの事件に関心を向けたのである。

 移送される時には、世間の情報番組、新聞紙、週刊誌には鈴木さくらの名前がいたるところに踊るようになっていた。鈴木さくらが移送される模様を、多数のテレビカメラが映した。眩くフラッシュがたかれる中で、鈴木さくらは鑑定の時の同様に、まったく表情を変えず、背をまっすぐ伸ばし、警察車両に乗り込んでいた。フラッシュに照らされる、警察車両の中の鈴木さくらの非現実的な端正な顔立ちは、大きなインパクトがあり、瞬く間にインターネットでも拡散された。

 事件が明るみに出て、世間の関心の熱量がピークの時に、鈴木さくらの両親が、会見という形で取材に応じていた。二十歳は超えているとはいえ、まだ学生であったので、親の監督責任云々という見当違いな意見があったためだった。

 顔は隠され名前も非公表という形で、テレビ画面には鈴木さくらの両親の首から下のスーツ姿とマイクだけが映っていた。

「このたびは、世間の皆さまをお騒がせし、親として……責任を痛感するところです。まことに、申し訳ありませんでした。今回の件で、被害に合われた方々、ならびにその関係者の方には、深く謝罪申し上げます。娘は、成人は迎えておりますが、我々と世帯を同じくしており、我々の監督責任というものがあると思います」

(地下室に膨大な資料や実験用具、カエルの死体なども積まれていたとのことですが、そういった異様なことには同居していて気づかれなかったのでしょうか)

「その……地下室には娘しか入ることができませんで、私たちが入ることは許されなかったので」

(中学時代から地下室を私有していたとのことですが、まだ子供の時分に大きな地下室を与え、それにまったく関知していないというのは、奇妙なことだと思われるのですが)

「娘は、小さい頃からあまり話をしないので……。必要な物、欲しい物がある時に、ぽつりとそれを言う、くらいのもので。ただその、時々しか口をきかない分、時々口にする言葉には、なんといいましょうか、迫力のようなものがあって。『自分以外入れない地下室が欲しい』と言われた時のことは、覚えておりますし、異様なことであると認識はしていたのですが、なんとなくそれに意見することができない、質問することも難しい、そういった雰囲気がありまして。何をやっているのかとは思うこともあったのですが、それを聞いたり、詮索したりすることなど、ほとんど想像もできませんでした」

(事件前後の本人の様子に違和感は持たれましたか)

「いえ……。だいたい、寝る時以外は娘は自宅に入ることもあまりありませんでしたので。普段から顔を合わせるのも一週間に一度くらいです。なので、事件前後の様子の変化も、まったくわかりません」

(中学時代からそういう様子が見られたり、自宅に住んでいながらほとんど両親と顔を合わせたりしないというのは、異様な印象を受けるのですが、そのことに疑問に思ったり、相談しに行ったりすることはなかったのですか)

「もちろん、ありました。どこかに誰かと一緒に遊びに行く、というような、人間現関係もまったくなかった印象なので。ただその……なんといいましょうか、学校には毎日休まず通いますし、学業という面ではまったく問題ない成績を持って帰ってきますし、非行めいた行動などで学校から連絡を受けるわけでもないですし、違和感はありつつも、咎める要因もなく、今日まで至ってしまったというところです」

(鈴木さくら氏が今回されたことに関しては、どのように思いますか)

「無関係な方たちに非合法の手段で多大なご迷惑をおかけしたわけですし、裁判をうけたのちに、しっかりと罪を償ってほしいと思っています。あと……なかなかご理解いただくのも難しいと思うのですが、私たちは、極端な話をすれば娘がうまれてこのかた、彼女のことがよくわからないのです。何を考えているのか理解ができないのです。小さい頃から今に至るまで、娘のことが全然、よくわからないのです」

 そして一旦番組は切られ、コマーシャルへとうつる。

『孤発性なんだよ』と、また鑑定の師匠の言葉が頭に浮かんだ。

『両親がともに統合失調症だった場合、その子供も高い確率で統合失調症には罹患するだろう。双生児研究ての知ってるだろ?一卵性双生児の、片割れが統合失調症を発症してたら、もう片方は五割の確率で発症する。でもな、本当に統合失調症として重症度の高い、俺に言わせれば統合失調症病者として天才肌のやつは、孤発性だよ。なんてことのない、家族負因のない平凡な家系から、突如として現れるんだ。そういうやつが一番大変なんだ』

 どこまでも凡庸そうな親である。だからこそ、鈴木さくらの異様さは際立つ。非凡な親から生まれる非凡な人間は、優秀ではあるもののあくまで想定される中のものである。しかし、凡庸から突如生まれてくる非凡というものは、あまりにも特異で突出しているという好例だと思った。

 小さい頃から現在に至るまで、娘のことが全然わからないという親の言葉は、率直なところだと思った。わかるわけがなさそうだ。

 俺は次々と、リモコンを操作して報道番組をはしごする。どの番組も内容は同じである。好奇と拡大希釈と無責任とリピートと、当たり障りのなさである。それでも、俺は止めることができない。ソファに座って、延々と鈴木さくらに纏わる報道を見てしまう。

 アシナガはと言えば、俺の隣に座って、無言で無関心そうにテレビ画面を眺めていた。あるいはやはり、テレビ画面の向こうにある何かを眺めていた。この報道に関しては何のコメントもないようだった。

「この記事をみて」

 アシナガが、ソファの隅に置いてある新聞を手に取って、見せてきた。

 そこには、全国の児童養護施設およそ二十か所に、一斉に匿名で二百万円ずつの寄付がなされたという記事が書かれていた。おそらくは同一人物だった。センセーショナルな事件に紛れた、善行である。誰も気には留めないだろう。ごたぶんに漏れず、俺も気に留めなかった。

「捨てたもんじゃないわね」

「うん」

 そしてアシナガは新聞を無造作に放り投げ、またどこでもない宙に視線を向けるのだった。

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