第5話 ある被疑者の鑑定 

 その日は、朝からなんだかいつもと調子が違ったのである。

 アシナガが朝七時ころに、のっそりと寝室から顔を出し、這うようにして起きだしてきた。俺はコーヒーをいれ、アシナガはそれをカップに注がれたそばからどんどん飲み干した。脳がカフェインにいきわたり、覚醒したアシナガは、いつもより表情を曇らせていた。

「昨日、眠れなかったわ」

「どのくらい?」

「一時間おきに目が覚めちゃって……トータル三時間くらいかな。ねえ、今晩からエスゾピクロンとゾピクロンをもう一錠ずつ追加で飲んでいいかしら」

「それはやめておいたほうが……。次の日の昼間に離脱症状が起きたりするし。睡眠は日ごとで波があるし、昨日はたまたまかもしれない」

「そう」

 そして、俺が出かけるまで、ひと言も話さなかった。睡眠不足のアシナガはとても無口なのだ。


                 *


 ノックとともに、女性警察官二人と、男性警察官一人に付き添われた、女性の被疑者がドアの向こうから現れた。両手には手錠がかけられていた。女性は、二十四歳、法学の大学院生である。罪状は、器物損壊、脅迫罪だった。複数の政治家に対し、脅迫の手紙を送り、そのうち一人の政治家の自宅の物置に爆発物をしかけ、実際に損壊させたのである。死傷者は一人も出なかった。報道も伏せられていた。

 女性は、俺と同じくらいの背丈だった。身長百七十センチ以上はある。顔は恐ろしく端正で美しく、髪の毛は長く艶やかに光っており、しかしまったく無表情だった。笑ったことが少ない人間独特の、表情筋の乏しさを感じさせた。背をまっすぐに伸ばしており、部屋に入るなり、俺に無言で一礼した。そして、ゆっくりとした動作で、俺の前の席に座った。そして、俺の目をじっと見た。吸い込まれるような瞳をしていたので、俺は本能的に危険を感じて、文書に目を落として視線を逸らした。なんで、こんな大物が自分の鑑定にまわってきてしまったのかと思った。

「今日お話しをうかがう、鈴木という者です」

「はじめまして。鈴木さくらと申します」

 同じ鈴木姓だった。原始の湖みたいに、透き通って、でも冷たい声だった。

「これは簡易鑑定ということですね」

「そうです」

「ではこの後に、さらに本鑑定あるいは鑑定留置があると考えていいのでしょうか」

「絶対ではないですが、そうなる可能性はあると思います」

 明らかにシステムを知っている人間だった。

「鑑定と言うことは、わたしが精神科病状があるかどうか判断がなされるということでしょうか」

「そうなります」

「先生から見て、わたしには精神科病状があると思われるでしょうか」

「それをこれから行う質問等で判断します」

「事前に資料に目を通されていると思います。そこから推察される、現時点での判断だけで構いません。教えて頂けないでしょうか」

「それはできません。これから質問をさせていただきますので、それに答えてください。判断はそれから行いますし、すべては文書をもって提示します」

「わかりました。いかなる質問にもこたえます」

「まず、一人目、○○氏あてに送られた脅迫文書についてです。この文書を記載、送付する際、どういう心情でしたか」

「心情?」

 被疑者が聞き返した。

「心情とはどういう意味なのでしょうか」

「つまり、この文書を書いている時の、考えていたことや感じていたことを教えてください」

「それは厳密には心情とは異なる」

「……そうかもしれないですね。言葉の選択に誤りがあったかと思います。では、考えていたこと、感じていたことを教えてください」

「考えていたことは、あの子たちを守らねばならない、です。感じていたことは、責任感と義務感です」

「あの子たち?」

「はい。わたしが関わっていた子供たちのことです」

 俺は、被疑者の経歴が書かれた文書のページを開いた。被疑者は、学生の傍ら、アルバイトで保育園の延長保育を行っていた。

「子供たちのために、この行動を起こしたということですか」

「そうです」

「そのあたりを、詳しく教えて頂けますか。子どもたちを守るために、脅迫文書を書くということは、一般的には因果関係のなさそうに思えます」

「子供たちを守るとは、子供たちが成人する頃の日本国が、保たれ存続し、国民がある程度の希望を持って生きていること。それを実現するのが国政なので、国政に関わる議員たちに責務があると考えた。現状でははなはだ困難と考え、文書を一部政治家に送ることにした」

 俺は資料に添付されている、送付された文書をちらりと見る。

<国家の運営に関し 責務をもたれる方々へ

 貴殿においては、自身の国政にまつわる責務を果たしていないと考える。

 そのため、当方はひとつの要求をする。

 この日本国の国民が、一定の幸福感をもって存続、生きることができるよう、己の魂をかけて研鑽し議論し考え実行すること。為政に関わる者はすべからくこの意思を共有してほしいと考える。

 右記が実行されていないと判断した場合、貴殿および貴殿の三親等以内の親族のいずれかの生命と健康を障害する行動を、当方が実行する。なお、十九歳以下の者は対象としない>

 この文書を送った三日後に、一人の標的となった議員宅で、物置が爆破され破損した。

「この文書を、送ってどのようになると予想されたんですか」

「送ったとて、何も変わらないであろうと予想しました」

「ではなぜ送ったんですか」

「危機感と責任感があるならば、それが大海に投げ込まれた小石のさざ波であっても、実行するべきと考えているからです」

「ほかにも穏便なやり方はあるかと思うのですが。たとえばあなたが為政をする側に回るとか」

「時間がかかり過ぎます。事は緊急を要するので」

「あなたのされたことで、不当な恐怖や不安感を持った人たちもいると思うのですが、そういったことを考えたことは」

「恐怖や不安感を持つから脅迫なのであって、それは実行するにあたっては前提です」

「そのことで処罰されるかもしれないという認識は」

「この国の現行の法規では違法という認識はありました」

「違法行為をすれば、あなた自身の社会生活に不利益が生ずる」

「そうですね。でもささいな犠牲はつきものです」

「その犠牲、という言葉の中に、被害者は含まれていますか」

「含まれています。ただ、もしわたしのこの行動で、なんらかの肉体的損傷を負う者が出た場合、その軽重に関わらず死ぬつもりでした」

 鑑定医としては、これに対し何らかの言葉を返さなくてはならないのだが、出てこなかった。

「文書を送れとか、そういった声が聞こえたことは」

「声?」

 被疑者が初めて怪訝な表情をみせた。

「言っていることの意味がわかりません」

 だろうなと思った。馬鹿なことを言った。

「他人と関わることはありますか」

「同じ研究室の教授や院生とはあります」

「友人はいますか?」

「友人?いません」

 文書では、被疑者は同胞なく一人っ子、幼少期から同年代と交わることは少なく、祖父母がくれた潤沢な図鑑や絵本を読んだり、積み木をしたり絵を描いたりと、もっぱら一人遊びに終始したようである(被疑者の母親が聴取に応じている)。

 学童期以降になると、成績は優秀、運動能力も高かったが(陸上の百メートル、二百メートルで国体に出場している)、やはり友人はおらず、クラス内で発言する機会そのものが少なかった。またこの頃より、両親に庭に地下室をつくるよう要請、地下室へは被疑者だけが出入りでき、両親は今回の事件が起きるまで入ることはなかった。

「小学校、中学校とか、そのくらいの時期の交友関係は」

「記憶にないので、ほとんどなかったのだと思います。先生はアスペルガー症候群を念頭に入れておられるのですか?」

 制するような女性警官の視線が被疑者に注がれた。

「私自身の判断や見解をこの場で述べることはできません」

「そうですよね。申し訳ありませんでした」

「あなたが使っていた地下室ですが」

「はい」

「地下室に出入りできるのはあなただけだったんですか?」

「そうです」

「なぜご両親は入ってはいけなかったのでしょう」

「自分だけの個人的な空間である必要があった。わたしの精神内界みたいなものなので。他の人間に立ち入って欲しくない」

「地下室では何をされていたのですか」

「実験や読書や動物の解剖、インターネットを使ってウェブ上の情報発信も行っていました。あと、保育所の子供たちに向けての紙芝居や絵本も作っていました」

「実験というのは具体的には」

「主に、高校生レベルの化学の実験です」

「爆発物も作っていた」

「そうです。それは実験ではありません。必要なので作ったのです」

「情報はどこから」

「書籍とインターネットです」

「解剖は何のためにしていたのでしょうか」

「単純に好奇心です。動物の体がどういう仕組みなのか、それが特定の環境の中にいたらどのようになるのか、そういうことを知りたかった」

「バラバラになった蛙の死体が、たくさんあったと文書にかいてあります」

「はい」

「バラバラにした意図は」

「蛙の大腿筋が、電気刺激でどの程度収縮するのかということを、複数の条件で確かめていたからです。筋収縮とフィラメント構造について、最近は興味を持っていたので。蛙を体を解体したのは、あくまで生命現象を知るための実験が目的なのであって、解体自体が目的ではありません」

「そういった生命現象に興味を持ったのはいつ頃からですか」

「いつ頃……物心ついたころからです。記憶の始まる最初の頃から。幼児期は、動くもの、生きるものに、興味があった。それが、やがて、もう少し広く、生命とは何か、に興味を持った。その後、自分を取り巻く自然にも興味を持った。ただ、生命現象を追求するには、わたしには能力が足りないと思いました。だから大学進学を考える時点では、対象を人間に絞り、そしてそれは人間の身体ではなく、人間が考えた社会原理とすることにしました。人間が歴史の中で制定していった、法という枠組みを知ることで、逆算的に人間存在について迫れるかもしれないと考えたからです」

「それは達成されましたか」

「達成されませんでした」

「保育所との関わりは」

「金銭が必要だったため、アルバイトを探しました。その時、たまたま目についたのが近所の保育所のアルバイトの募集でした。だから応募しました」

 参考資料では、保育所での勤務態度は、職員や保護者といった大人に対しては言葉が少ないが、子供に対しては常に笑顔を絶やさず、歌や劇など子供たちの遊びに積極的に参加し、業務外の遊戯資材の作成もすすんで行い、子供たちの動向には常に目を配り、喧嘩などがあれば即時に介入し諫め、総じて勤務態度は極めて良好で、職場および保護者からは大きな信頼を寄せられていたようである。

 今目の前にしている被疑者からは、笑顔を絶やさず、という状況が想像できなかった。

「子供たちとの関わりはとても楽しいものでした。生まれて初めて、楽しい、という感覚がわかった気がしました。自分で自作の紙芝居を作って、子供たちに披露することが特に好きでした。そこには活きた反応というものがあったからです。ただ、楽しいという感覚と同時に、不安もまた大きくなっていきました。不安という感情をはっきり自覚したのも、この時が初めてだったと思います」

「その、不安というのは」

「子供たちに残せる未来があるのかという不安です。それは日に日に増していって、やがて確信に変わりました。わたしが彼らに残したい未来を、このままでは残すことはできないという確信です。だから行動を起こしました」

「あなたの行動原理には、妥当性があると思いますか」

「自分の中では妥当性はあります。でも他者から見たら妥当性はないから、現況なのだということはわかっています。あと、つかぬことを伺いますが、精神鑑定全般が、こういうものなのですか?」

 こたえなくてもいい質問である。でも俺はこの時、まっこうから答えたくなってしまったのだ。それは被疑者が、純粋な疑問として思っていることがわかったからだ。そして被疑者の醸す、ある種の存在の波みたいなものに、自分もあてられてしまっていた。冷静でいられなかったのだ。

「鑑定医ごとで、スタンスは異なると思います。わたしはこういう立ち位置から考えるというだけであって、他の鑑定医ならまた別の見方をすると思います。だからこそ、簡易鑑定だけでなく、本鑑定や鑑定留置、鑑定入院の制度があります。主観とバイアスがあることが前提なので、なるべくその影響を少なくできるように、制度は作られています。見かけ上は」

「見かけ上?」

「事理弁識の能力の有無、とこの界隈ではよく言われます。いや、そのことだけを我々は問われているといっても過言ではありません。でも、事理弁識というものは一体なんなのでしょうか。わたしは、精神鑑定に携わって七年経ちましたが、いまだにわかりません。そんなものは、本当はありもしないのに、人間が勝手に定義して在ることにしている、抽象概念に過ぎないのではないのかとも思います」

 警察たちが、互いに視線を合わせているのがわかった。

「ご自分の職務に疑問を持っているということでしょうか」

「疑問は常にあります。職務だけには限りませんが。わたしは市民社会の中の小市民なので、社会の枠組みの中でしか生きていけない。物理的にもアイデンティティとしても。だから社会から判断を求められたなら、疑問を持ちながらでも判断は提示します」

「その判断というものは、結局のところ何に依拠するのでしょうか。精神医学ですか」

「学、と名を負うには精神医学は歴史が浅すぎて、完全に依拠するにははなはだ心もとないと考えています」

「ではいったい何に依拠するのですか」

「それは……」

 俺は数秒思案した。

「たぶん、常識です。凡庸で、鈍重で、個人的な、常識の感覚です」

 警察官が、ちらちらと時計を見た。俺は、メモを走らせる手を止めた。

「質問は以上です。ありがとうございました」

 俺は頭を下げた。沈黙が漂った。

「そのうちに、もう一つの仕掛けが発動するかもしれません」

 被疑者がそう言うと、警察官が彼女に鋭い視線を向けた。

「でもそれももう、特に意味を感じません。わたしは、刑期を終えた後に、為すべきことを為すつもりです。あなたは、凡庸だけれども、正直でした。ありがとうございます。さようなら」

 そして被疑者は、音もなく静かに立ち上がり、警察官とともに部屋から退室していった。

 その瞬間、生涯で感じたこともない疲労が肩からのしかかり、俺は机に突っ伏した。額から汗の滴が流れた。シャツも汗でぐっしょりと濡れていた。まるで被疑者が出ていった瞬間に、止まっていた時間が再び動き出したような気がした。

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