第4話 再び、アシナガ

 家に帰る途中の小路の真ん中で、俺はふと急に憤怒を覚えた。全身がイライラと、カッカとして、まさに怒りの人間である。さらにそこに、悲哀、自己憐憫、やるせなさ、無力感、諦め、失望、自己嫌悪と、嫌な感情のオールスターが列をなしてどんどん押し寄せてくる。

 きっかけは明確だった。両親の顔を思い出してしまったからである。思い出したくもない思い出こそ、たまに自動的に再生されてしまうのだ。

「ただいま」

 俺は玄関のドアを開けた。

「おかえり」

 廊下の向こうから声が聞こえた。

 靴をぬいで、リビングに行くと、アシナガはソファに座って本を読んでいた。俺の本だが、俺も読み切れていない、五百ページくらいある本だ。

「おかえり」

 アシナガがもう一度言った。

「ただいま」

 俺ももう一度言って、鞄を床に置き、洗面所で手と顔を洗った。そして台所にいき、湯を沸かしてハーブティーをいれた。アシナガは午後三時以降にカフェインをとることを好まないので、それまで俺は飲む習慣になかったハーブティーを買ったのだ。

 カップ二つにハーブティーが注がれた。俺はそれらを、テーブルの上にのせた。湯気がもうもうと立ち上った。

「お茶いれたけど、飲む?」

「飲むわ」

 アシナガは本を手に持ったまま、ソファから腰を下ろしてテーブルの前に座った。そしてひとくちお茶をすすった。

「少し柚子の香りがするのね」

「そういうの買ってみた」

 俺もお茶をすすった。

「許せない、という感情はつらいよな」

 俺は唐突に言ってみた。アシナガはしばし俺の目をじっと見た。

「許せない相手そのものよりも、許せていない自分が嫌になってくる」

「たしかにそれは、危険な感情ね」

 アシナガは言った。

「下手をすると、極限まで自分の視野と感情の幅を狭くして、いつの間にかタールみたいな真っ黒な虚無の中で、一人ぽつんと立つことになるわね」

「それは怖いね。ごめんだな」

「じゃあ、許せる?」

 俺はしばし考えた。

「いや、許せない」

「でしょう。業からは逃れられないものよ。得てして、そこはタールの海と知りながら、その中に自ら沈み込まざるをえない。だからこその人間じゃない?許せない自分を受け入れるしかないわね」

 俺は黙って、カップに口をつけた。

「何かあったの?」

「とある人間のことを思い出した。わりによく思い出す。もうこの世にいないが。いない人間に対して、悪い感情を持ちたくない。でも持たざるを得ない。怒りを感じてしまうんだ。なら関わらなければよかったのに、いくつかの要因で関わらざるを得なくて、でもそうすると、自分が冷静でいられなかった。その人間には欲望があって、自分が、その欲望のために動いてしまった。それがそもそもの間違いだったのかもしれないけども。他人の欲望のために動くと、自分が空っぽになるんだよ。でもって、空っぽになってしまった自分と、他者との関係性は、当然それまでと変わってくる。その、関係性の変化について、筋違いと知りつつも、不公平、割に合わないと感じてしまう。そして、もやもやしているうちに、その人間はいなくなり、もやもやした実体のない感情だけが残ってしまった。そして、いまだに許せていない。憎んですらいる」

「それが他人の欲望なのか、自分の欲望なのか、そこがまずわからないわよね。自分の欲望は他人の欲望ということもあるし、あるいは他人の欲望は自分の欲望ということもあるし。いずれにせよね、誰かのために、なんて思わないことよね。それは、結果的に必ずその誰かを恨むことになるわ。誰かのために、は、意識であれ無意識であれ、見返りを求めちゃってるんだから。でもそれをやったとて、他人の感情はコントロールできないから。思うような見返りがないことのほうがしばしばで、そうすると、恨むことになるのよ。恨みはつらいわよ。恨まれることも嫌だけど、恨むことはものすごく自分を摩耗させる。だから、何かをするときは、それは何のためにするのか、一考したほうがいいわね。そしてよく考えたら他人のためなのだったら、やめる。自分のためなんだと確信を持てるときに、やってみたらいい。そのほうが無難よ。まあ、自分のためと確信が持てるなんて、そうそうないかもしれないけどね。多かれ少なかれ、誰しも自分の欲望の中に他人の欲望を取り込んでいるものよ」

「それなら、これから自分はどうやってこの感情と折り合いをつければいいんだろうね。まるでマグマを浴びたみたいに、全身が怒りで熱くなる気がするんだよ」

「怒りの人間、てやつね。まあ、たとえば、全部がごっこ遊び、と思えばいいんじゃない。怒りごっこ、憎しみごっご、悲しみごっこ、虚無感ごっこ、諦観ごっこ、不安ごっこ、生きるごっこ」

「ごっこ遊びね……。そういう処理のしかたもあるか」

「感情をすぐに解消しようなんて無理だから。怒りと憎悪の業火に焼かれながら、とりあえず生活行動をするしかないんじゃない。ごおごおと、マグマを煮やしながら、料理をする、感情に焼かれながら、掃除をする、虚無の穴に落ちながら、仕事をする、悲哀の吹雪に吹かれながら、洗濯をする。ねえ、早く夕ご飯作って」

「うん」

 俺は腰を上げて、台所に行った。

 夕食は、誰でも作れて誰でも同じ味にできる、シチューを作った。そしてふと、感情がフラットに戻っていることに気付いた。理由なく感情が高ぶる一方で、平常心に戻ると、その高ぶりがどういうものだったか忘れてしまう。年齢を重ねると、忘却力も高くなる。悪いことばかりではない。

 テーブルで、俺とアシナガは向かい合って座って、シチューを食べた。湯気がもうもうとアシナガと俺の間に立ち込めていた。

「アシナガは誰かを憎んだことある?」

「あるわよ。数えきれないくらいの人を憎んできたと思う。でも寝て起きたら忘れちゃうの。薬を飲んで寝ると、大抵のことは忘れちゃうの。記憶も感情も連続性を持たないの。朝起きた時、自分がどこの誰だかもよくわからない時があるのよ」

「ふうん」

 俺はシチューを口に含んだ。ジャガイモを噛んで、舌の中で転がした。つけっぱなしのラジオから、六十年代の黎明期のロックが流れていた。

「今日、友だちと会って、少し話をしたんだ」

「あなたにも友だちがいるの?」

 アシナガは心底驚いたように言った。

「一人だけね」

 それから俺は、今日、木村が喋ったことを、かいつまんで話した。木村が、あの大量の向精神薬の運び屋であることは明かさなかった。

「なるほどね。その彼は、純粋病なのね」

「純粋病?」

「世界が、子どもの頃感じてたみたいに、シンプルであってほしいと願っていて、現実世界の複雑さに嫌気がさしちゃう病気よ。ほの暗い厭世観が、ずっと視界を覆っちゃうの。純粋病の人はね、この世に長くは生きられないわよ」

 俺はスプーンを運ぶその手を止めた。

「早死にするってこと?」

「たぶんね。その彼とは、縁を切った方がいいんじゃない。下手すると、あなたも引きずられて、破滅するかもしれないわよ」

 俺は皿に目を落とした。

「そういうわけにもいかないよ。友だちなんだから」

「そう」

 アシナガは抑揚のない声でそう言って、黙々とシチューを口に運び続けた。

 食事を終えると、アシナガは風呂に入った。俺は資料をテーブルの上に広げて、鑑定文書の続きを書いた。

『メカニズムが大事なんだよ』

 かつての、俺の師匠はよく言っていた。

『被疑者が行った行動と、精神科病状というものの、因果関係を、メカニズムとして記載するんだ。文書を読むのは精神科医療者じゃなくて法律家だからな。法律家はメカニズムを重視する』

 被疑者が躁状態だったことは間違いないだろう。犯行の直前には、やたらと全国を巡り歩いて、極期と思われる妄想もその頃に出現している。飲酒していて、酩酊も修飾はしているだろうが、アルコール血中濃度は高くはなく、犯行への影響は軽微である。平時の被疑者の社会的機能を考えると、行動は合目的性に欠ける。

『俺には全然わからんよ』

 かつて木村が言った言葉が、頭の中でよみがえる。

『悪いことして、それが病気だからって、なんだって減刑されるんだ』

『まあでも、古代から、知的障害とか酩酊中の人の犯罪は、減刑されてきた歴史がある。世界中でさ』

『答えになってないだろ。病状があるから減刑ということに、そもそもお前の言うメカニズムがはっきりしない。その根本的なところを議論されているものを見たこともない。おかしな話だ。度し難い。到底俺には理解できない。とりあえず医療刑務所に入れりゃいいだけじゃないか』

 アシナガが風呂からあがって、俺の前に立った。髪の毛の乾きが甘くて、まだ濡れていた。

「寝る」

「うん」

 俺は鞄から、木村からもらった向精神薬の箱を出した。そしてそこから、いつもと同じように、ゾピクロンと、エスゾピクロンと、ブロチゾラムと、ブロマゼパムと、ジアゼパムを取り出した。

 アシナガは薬を飲み終えると、

「おやすみ」

 とひと言言って、背を向けた。 

「ねえ」

 俺は呼び止めた。アシナガがぴたりとその足を止めた。

「君のことが好きだよ」

「そう」

 アシナガは振り返らずに言った。

 君は俺のこと好き?という言葉が喉まで昇ってくるが、それは絶対に現実の発声として口から出てくることはなかった。

「寝る」

 アシナガは再びそう言って、寝室に入って扉を閉めた。

 俺はその背中を見送り、PC画面に目を戻して、文書を作成した。寝るまでに、なんとか第一稿をあげた。あとは推敲作業だ。





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