第3話 木村

 俺は電車をいくつか乗り継いで、都内中心部にある木村の勤める薬局に向かった。片道で一時間半もかかる。

 木村は、俺の中学と高校の同級生だった。中学二年の時に同じクラスになって知り合い、それから今までずっとの付き合いになる。

 薬局の前まで来ると、俺はガラスから店の中を伺った。受付にいる木村が見えた。木村の視線が、一瞬俺に向いた。すると木村は立ち上がり、他のスタッフと何がしか話して、店の奥に引っ込んだ。かわりにそのスタッフが受付に立った。

<店の裏に来い>

 と木村からのメールが来た。俺は、周囲を少し見回してから、建物の横を通って裏に回った。

 二分ほど経って、白衣を纏った木村が裏口のドアから姿を現した。

「よお」

 と木村が言った。

「もう足らなくなったのか」

「うん」

「前回渡してからまだ五週間しか経ってない。百錠の箱を渡して五週間でなくなるんだから、内服のペースが早すぎる」

「わかってる」

「わかっているなら、もうその女とは別れろ。関わらないほうがいい。そいつは必ずお前を破滅させる」

「彼女は俺の命だ。彼女なしで、俺は生きる理由がない」

 虚を突かれたように、木村が戸惑いの表情を見せたが、それは一瞬のことで、またすぐにいつもの人を小馬鹿にしたような薄い笑いに変わった。

「お前ってやつは。真顔でそういうことを言うんだからな。いかにもお前らしい。よくそんなに、他人なんかに夢中になれるものだ」

 そう言って、木村は小脇に抱えていた紙袋を渡してきた。

「一応、中身を確認しろ」

「信用してるから」

「馬鹿か。他人なんか信用するな」

 俺は木村に言われた通り、紙袋の中の、向精神薬の箱を確認した。ブロチゾラム、ゾピクロン、エスゾピクロン、ブロマゼパム、ジアゼパム、すべて一箱百錠で揃っていた。俺はその紙袋を鞄にしまい、財布から一万円札を二枚取り出して差し出した。

「いつも言うことだが、金なんていらない」

「そういうわけにはいかないよ」

 木村は、しばし札と俺の顔を見比べ、何かを諦めたような表情で札を受け取り、白衣のポケットにねじこんだ。

「くだらない律義さだけは、昔からだ」

「いつもすまない」

「べつに。少し数字を書き換えるだけの作業だ。五分もかからない。ただ、もし本当にすまないと思っているのなら、俺の話を少し聞いていけ。いろいろ言いたいことがたまっているんだが、言える相手がいないんだ。ご存知の通り、孤立しているものでね」

「聞くよ」

「タバコ吸いながらでいいか?」

「どうぞ」

 木村は、ポケットからタバコの箱とライターを取り出し、タバコ一本を抜き出して口にくわえた。そして火を点け、吸い込み、しかる後に一気に煙を吐き出した。昇っていく煙を、二人で眺めた。

「最近、人生の意味について考える」

「わりとそれ、しょっちゅう考えているよね」

「厳しいことを言うな。必要なことなんだ。みんなが考えなすぎるんだ」

「続けて」

「科学みたいな、客観的見地からすれば、人生は無意味なんだろう。べつに、人生に関わらず、地球だって太陽系だって宇宙だって、無意味だ。そもそも意味を持って存在しているものなんてこの世にない。当たり前のことで確定的事実だ。だが、事実としてそうだと思っても、結局は人間は、生きることの意味について考えちまう。それが人間たる所以だ。他の動物は、おそらくは意味なんて考えないだろうからな。なぜ考えちまうのか。たぶん、進化の過程で言葉を発明してしまうと、必然的に意味について考えるようになっちまうんじゃないかな。言葉によって他者との複雑なコミュニケーションが生まれると、同時に内省をするようになる。内省して、こうするとああなるんだな、という現象の理解によって、人間という動物の社会は発展していく。するとその逆の、ああなることの意味が、こうすることなんだと考えるようにもなる。つまり、現象を微分して考えるんだ。そして、その現象というものの対象は、どうしても人生とか生きることに向けられてしまうんだよ。なぜなら、人間にとって最も身近な生活行動は、生きること、生命活動を維持し継続すること、そのものだからだ。だから、人間は、解がないことを知りながらにして、それでも意味性を追求することをやめられない。と、ここまでは完全に言い訳で前置きなんだが、よろしいか?」

「どうぞ」

「先日、親父が倒れてな。その日は集中治療室に運ばれて、今は一般病室にいるみたいだが。勘当されている身なので普段は実家から何の連絡もないが、この時は兄二人から連絡がきた。両方とも相続の話だ。俺に配当される相続はないと。ただ、自分の相続の取り分を増やすため、有利な動きをしてくれるなら、少し分け前をやると。俺はべつに、そのことで軽蔑したりはしない。そもそも前科者の俺に、その程度のことを軽蔑する資格はないだろ。兄二人だって、自己保身だけのためだけに、金についてうだうだ言ってるわけじゃない。二人とも家族がいるからな。こういう世の中だし、家族に残せるお金はなるべく多く手元に置いときたい、生き残ってもらいたいと思うのが、人情だとは思う。ただ、二人とも俺に電話してくるあたり、相変わらず馬鹿なんだなと思った。そしてそう思ったら、なんだかえらく厭世的な気分になった。そして厭世感が湧いてくると、自分が何故生きているのかとか、考えるようになる。何をもって、生命活動を維持しているのか。何かアドバイスはないか」

「ないよ」

「だろうね」

 木村は深くため息をついて、大きく煙を吐いた。

「まあただ、意味性の穴に落ちそうになった時は、とりあえず対症療法するしかないんじゃないのか。精神科の治療だってそうだ。本質的な治療なんてありゃしない。だから、対症療法の連続で、あとは時間と運に委ねる」

「対症療法ねえ……。まあ、意味性を有耶無耶にする、自己慰安を探すしかないのか」

 木村はタバコをぽいと足元に投げ、それを靴の底で踏んだ。

「行くわ。すまなかったな、つまんない話して」

 木村が背を向け薬局に戻ろうとしたが、立ち止まり、振り返って半身をこちらに向けた。

「お前が一緒に住んでいる女の件だがな。よく知らんが、大方お前にとっての薬なんだろう。だがな、薬には必ず副作用がついてまわる。睡眠薬と同じだ。短期的には手軽に睡眠をもたらすが、長期的には依存と耐性でより問題は深刻なものになる。共倒れで自己破壊に酔うのもいい。何を選ぼうがお前の自由だ。だが、破滅はしないでもらいたいと思っている人間もいる。そのことだけ、頭の隅に留意しておいてほしい」

「わかったよ」

「わかったならいい。気を付けて帰れよ」

 そして木村は、裏口のドアを開け、薬局に戻っていった。俺はドアが閉まって木村の背中が見えなくなるのを見届けた。


 木村と俺は、中学二年生の時に、同じクラスで席が隣になったことから、仲良くなった。その頃は明るくて、どちらかというとクラスのまとめ役みたいな立ち位置だった。しかし、高校一年生の秋頃から、様子が変わった。学校に姿を見せる日が極端に少なくなり、クラスの同級生ともほとんど交わらなくなった。あとから知ったことだが、この頃に木村の母が亡くなっている。

 木村の父は大手の医療機器メーカーの社長だった。創業者の直系なのだ。『家でほとんど見ないものだから、顔もおぼろげだ』と、学生時代の木村は言っていた。二人の兄は、医学部に進学し医者となった。何科の医者になったのかも木村は把握していないという。『教養も情緒性もユーモアもなくて、システムの中の適切な振る舞いだけを身につけて、自分の頭で考えるということを獲得できなかった人たち』というのが兄たちへの評である。

 木村自身は、単位ギリギリで高校を卒業した後、土方の職に就いた。会うたびに、木村の肌は日焼けで浅黒くなっていき、当初こそそれとともに健康感が増し表情も明るかったが、二年を経た頃になると、それは激しい疲弊の色に変わっていた。結局、木村は土方を辞め、父親に頭を下げ、予備校に通い、都内の大学の薬学部に進学した。大学では優等で通し、薬剤師免許をとった。『性根からドラ息子なんだ、俺は。上辺の反骨心で表皮を塗りたくった、おしめもとれない赤ん坊だ』と木村は自嘲気味に言っていた。

 大学院に進学した木村は、また挫折した。『院の研究室は、すごかった。そこでは初めて、尊敬の念を持てる人間も何人かいた。でも自分はその中には入れなかった。単純な話で、才能が足りなかった。研究は、学問に対して無根拠で純粋な信頼が要求される。それが基本で、そのうえにさらに、体力と根気と閃きと論理性と知識が必要になる。とても自分が居られる場所じゃなかった』

 俺から言わせると、木村は十分に研究者としての資質はあったと思う。少なくとも、ポストを得て食べていくことはできたはずだ。でも木村は完璧主義だった。木村こそ、『学問に対して無根拠で純粋な信頼』を持ちすぎていて、学問を自分から遠ざけた。理想とする百パーセントの研究者になれないのであれば、それは選べないというのが木村の価値観だった。

 博士号を取得して大学院を卒業した木村は、西日本の製薬会社に就職した。しかし就職したその年に、犯罪を犯した。会社から不正に入手したベンゾジアゼピン系の向精神薬を、インターネットを用いて複数の個人宛てに無料で送付していたことが表沙汰になったのだ。

 木村は向精神薬取締法違反で告訴され、刑事罰を受け罰金を払った。会社からは解雇されたが、薬剤師免許のはく奪は免れた。裏から有力者である父親が手を回したのだ。

『ボランティアと実験のつもりだったんだよ。本当に必要な人間は外にも出てこれない、当然診察も受けられない。そういうやつの手元に届くようにしてみたら、どうなるか試してみたかった。だいたいのやつは違法に販売するが、俺は送料込みでタダだ。相手も選んだ。妙な組織みたいのに流れないように、メールを受けたら何度もやりとりして、何にも属さない個人で、且つ必要としていると確信した相手にだけ送っていた。ベンゾを選んだのは、抗精神病薬とか他の向精神薬は、適正量がわからないからな。俺は精神科医じゃない。ベンゾなら薬理作用がはっきりわかっているし、適正量もわかっている』

 でもベンゾジアゼピンが本当に必要な人っているのかな、と当時の俺はコメントした。

『まあ……突き詰めて本当に必要かと問われたら、そりゃいないのかもしれんがな。実験としては失敗だ。俺に前科がついただけだ』

 しかし皮肉なことに、この七年後、俺は木村に大量のベンゾジアゼピンの提供を依頼することになる。必要な人間はやはりいたのだ。

 会社を解雇された木村は、首都圏に戻り、刑事罰の事実は隠して小さな薬局に就職した。戻ってきた木村の表情には、どこか安堵をにじませていた。

『製薬会社というところは、本当にひどいところだった。患者の病気をよくしたいと考えているやつなんて、皆無だった。社内のどの人間も、強欲で顔が塗りたくられていて、人間の姿に見えなかった。辞める理由ができてせいせいした』

 そして現在にいたるまで、木村と俺の付き合いは続いている。

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