第2話 仕事

 目が覚めると、朝の五時半だった。リビングのソファで寝るようになってから、俺は窓から差し込む陽光で起きるようになっていた。だから、日の出が遅ければ遅く起き、早ければ早く起きる。

 起きてまずするべきことは、コーヒーを沸かすことである。アシナガが来てからの俺の生活では、これはとても大事なことだった。俺は大匙山盛り四杯分のコーヒー豆を挽いて粉にし、それをコーヒーメーカーのフィルターの上にすべて投入した。そして、コーヒーカップ七杯に相当する分量の水を入れ、スイッチを押した。

 こぽこぽと音を立てて、コーヒーが沸き始める。俺は洗面所で髭を剃り、寝間着から服を着替え、湯を沸かして緑茶をいれた。おれは茶をすすりながら、読みかけの本を読んだ。分厚い、科学の歴史を中学生にもわかるくらいの文章で書かれた本だ。一年ほど前から俺には科学ブームが到来していた。踏み込んだ内容になると理解できないので、いついつの時代にだれだれが何々を発見した、くらいの簡単なクロニクルが知りたかった。好奇心に理解力が追い付かないので、理解できる班にを浅く舐めるのだ。

 六時半を回ると、俺は台所で朝食の準備をした。すべての食器を二つずつ棚から取り出す。小さなカップには、ヨーグルトを入れる。キウイを半分に割って、小皿に乗せる。そして食パンを出しておいて、いつでも焼いてトーストにできる準備をする。テーブルの上に、洋梨のジャムも置いておく。

 すべては彼女の起床のおぜん立てである。

 七時過ぎに、がたがたと襖が開いた。そして、にゅるりと手が滑り出て、続いて体と頭と足が出てきた。アシナガが起きてきたのだ。

「おはよう」

 俺は新聞をたたんで言った。 

「コーヒー」

 とアシナガは小声で言った。そして左右に小さくふらつき首をもたげながら、どさりと椅子に座った。目は半開きであった。

 俺はジョッキみたいな巨大なコップに、コーヒーをなみなみと注いだ。アシナガはコーヒーはブラックと決まっていた。コップにはブラックホールみたいな、漆黒のコーヒーが渦を巻いていた。

 ことんとテーブルにコップを置くと、アシナガはゆっくりと取っ手に手を伸ばして掴み、不思議な生き物みたいに喉ぼとけを上下させながら、コーヒーを胃の中に流し込んでいった。飲む、というよりも『胃の中に流し込む』というのがこの行為を示す適切な言葉である。

 つまるところ、たしなみとしてのコーヒーでなく、薬理としてのカフェイン摂取なのである。アシナガは前日に上限を超える大量の睡眠薬と安定剤を内服しているので、朝起きがけはハングオーバーしていて、眠くてだるくてぼんやりしているのだ。だから、覚醒するためには、大量のカフェインを必要とする。

 アシナガが一杯目のコーヒーを飲んでいる間に、俺はコーヒーの入ったガラス容器を手に持ってアシナガの横に立ち、スタンバイしている。そしてアシナガが飲み終わると同時に、二杯目を素早く注ぎ込む。アシナガは、注がれるとすぐさまそれを口に持っていく。また喉ぼとけが上下する。

 これが三回繰り返されるのである。カップが大きすぎるので、コーヒーメーカーの表示で七杯分のコーヒーも、二杯半で飲み切ってしまう。

 すべてのコーヒーを飲み切ると、アシナガはテーブルに額を乗せた。カフェインが脳に行きわたり、交感神経が賦活化するのを待っているのである。俺もアシナガの覚醒の時を、本を読みながらしばし待つ。

「お待たせ」

 突如、アシナガが顔をあげた。

「頭がはっきりしてきたわ」

「そう。じゃあ、あらためて、おはよう」

「おはよう。今日、何曜日?」

「水曜」

「水曜。じゃ、ゴミの日じゃないわね。燃えるごみは明日か」

「そうだね。ごはん食べる?」

「その前に水ちょうだい」

 そうだった。アシナガは大量のコーヒーの直後は大量の水を飲むのだ。迂闊であった。俺はコップを棚から取り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して注いで、アシナガの前に置いた。アシナガは、それを勢いよく飲み干した。ペットボトルを片手に、水もコーヒー同様三杯飲んだ。

「わたしがコーヒーの後に水をたくさん飲むのはさ」

 とアシナガが言った。

「コーヒーって利尿作用あるじゃない。血流量が少ないのに利尿されちゃったら、脱水気味になっちゃうから、コーヒー飲んだ分だけ水もたくさん飲んで、水分を補給してるの。この説明、前にもした?」

「うん」

「そっか。いろいろすぐ忘れちゃうのよね。眠剤飲んでると記憶が飛びやすいの」

「俺こそ言われる前に水を用意しておくべきだった。なぜだか、今日は忘れてた。ごめん」

「気にしないで。忘れっぽいのはお互いさまじゃない」

 そしてアシナガは、少しだけ微笑む。

 俺はトーストを焼いて、皿の上に乗せた。いただきます、とアシナガが、手を合わせてお辞儀をし、過剰に丁寧さでもって朝の食事に謝意を示した。

「夢を見たの」

「ふうん」

「体よりも大きな鋏を持っている女の子が出てくる夢なの。どう解釈する?」

「寝る直前に鋏のこと考えた?」

「考えてない。それって解釈なの?およそ精神科医らしくない」

「夢分析なんてもうはやらないんだよ。あとそれに――」

 俺はカップを持つ手を止めた。

「それに、俺は精神科医だなんて名乗っちゃいけないような人間だ。本来的にやるべきことをやっている精神科の先生に申し訳ない。もぐりみたいなもんだ」

「ふうん」

 アシナガはじっとこちらを見て頬張ったパンを咀嚼し、カップの水を飲んだ。

「はぐれ者どうしなのね、わたしたちって」

 そして、ははっ、とアシナガは笑った。

 朝食を食べ終わると、アシナガは日中過ごすための茶色いフリースに着替えた。そして、テレビのスイッチを押して、ソファに腰をおろした。俺はその姿を見届けてから、ハンガーから白衣を一着取り出して、畳んで鞄に突っ込み、パーカーを羽織った。

「いってくる」

「いってらっしゃい」

 アシナガはこちらを見ていなかった。テレビに視線を向けているが、テレビを見ているのかもわからなかった。自分とテレビの間の空間を見ているだけの気もした。

 俺は家を出ると、最寄りの駅に向かって歩いた。そして改札を抜けると各駅停車に乗って一駅移動し、そこで降りた。駅ビルの中の喫茶店に入ると、ブレンドコーヒーのMサイズを注文し、椅子に座った。

 鞄から鑑定の資料を取り出し、テーブルの上に広げた。超がつく個人情報の取り扱いなので、駅ビルの喫茶店で広げるなどもってのほかとはわかっているのだが、どこかでどうでもいいと思っていた。仮に、この文書の一部を紛失したとして、それが誰の目にもつく喫茶店だったとして、大問題になるであろう。でも、だからどうしたというのだろう。

 資料に印刷されている、監視カメラの映像は、一人の男性を映していた。男性は、一枚目の写真で交番のガラスを粉砕し、二枚目の写真で身を屈めてくぐり、三枚目の写真で交番の中で茫然と立っていた。

『インターホンで押したんです。誰か出た。男の声です。落とし物をとどけたかった。でも、相手にされなかった。そしたら腹が立ってきて、脅かしてやろうと。相手を傷つけようとか、そういうことは全然考えてなかったです。でも脅かしてやろうと思って。それで、思い切りけ破りました。そしたら、おかしな話ですけど、自分が驚いたんです。なんで交番のガラスがこんなに脆いんだって。そしたら、急に酔いが醒めてきた気がして。やばいなと思って。それで中に入って、母親に電話したんです。まずいことしちゃった、と。<やばいと思ったら、普通は立ち去るものだと思われるが>まあ、普通そうですよね。なんでしょうね。どこか、こうなったからには、居座ってやろう、みたいな、居直りがあったのかもしれません。自分が何やったのかは覚えてますけどね。多少酔ってたけど、それは全部覚えてます。でも、何を考えていたのかまでははっきり覚えてないです』

 突然、携帯電話が鳴った。俺はびくりと身を震わせ、慌てて鞄から携帯電話を取り出して、通話ボタンを押した。

「はい、もしもし」

「もしもし、A市保健所の福谷ですが。いつもお世話になります」

「はい」

「さきほど二十三条通報があったんですけど。説明させてもらってもいいですか?」

 俺はメモ用紙を机の上に出した。

「どうぞ」

「午前五時くらいに、男性が車の中で腹部に包丁を刺したんです。警察通報があって、臨場した後に病院に運ばれて、今病院の処置室にいるんです。身元はわかったんですが、言っていることが滅裂みたいで。通報があがりました。行けますか」

「行けます」

 場所を確認した俺は、駅でタクシーを拾い、現場に向かった。タクシー代は役所が払ってくれる。

 指定された病院は県内の中核の総合病院だった。俺はタクシーから降り、その要塞みたいな大きな病院の入り口をくぐった。ちょうど総合受付のところに、保健所の福谷さんがいた。福谷さんは頭髪が難しくなりかけている中年の男性である。

「どうも、先生」

「あ、どうも」

 俺は頭を下げた。

「これ今日の経緯なので」

 福谷さんが俺に二枚の文書を渡してきた。そこには、警察の保護からここで処置を受けるまでの一連の経緯が書いてある。俺はざっと目を通した。岡谷正仁、四十三歳の男性である。

「早速行きましょう」

 福谷さんは俺に背を向けて歩き始めた。

 救急部の処置室に着くと、そこには警察官三人と、保護されたと思しき項垂れている猫背の男性と、看護師一人と、精神科医と思しき医師が一人いた。猫背の男性のお腹には、創部処置を受けたと思しきガーゼが貼付されていた。

「一回目の診察はもう終わってますので。切り傷も深くないです。救急の先生がやってくれてます」

 福谷さんは言った。

「じゃあ、岡谷さん、もう一人精神科の先生が来てくれたんで、もう一回だけ、診察を受けてください。これは、法令で定められた診察なので」

 福谷さんが、その猫背の男性に言った。男性は、ゆっくりと、こちらに視線を向けた。俺は、鞄からクリップボードとA4の紙を取り出した。

「こんにちは」

 と俺は言いながら椅子にこしかけた。男性の反応はない。

「わたくし、今から診察します、精神科医の鈴木と申します」

 やはり反応はない。

「今日どういうことがあったか、っていうのは、だいたい把握はしているんですけども。あらためて岡谷さんの言葉で、今日何があったのか、説明してもらってもいいですか?」

「あの……」

 男性はつぶやいて、また沈黙に沈んでしまった。髪も髭も長い。長期間、社会的接点も持たなかった印象である。

「なんか、怖い感じってありますか。たとえば、誰かに見られているとか」

「……トライアングルが……まあたぶん、チップの信号……」

「トライアングル?三角形の?」

「……いや、人間……」

「人の声が聞こえたってことですか?」

「いや、声でなくて、信号……」

 俺は男性の言う言葉を、走り書きでメモしていく。

「誰もしゃべってないのに、誰かの考えが入ってきたりは」

 男性は無言に沈む。

「今回、自分で自分を傷つけるという、突飛なことがあったんですけども。それと、その信号というのは、関係しているんですか?」

「指示が入って……。もういいよと……」

「傷つけろ、と命令があったんですか?」

「傷つけろというか……、傷つけてもいいよ、と……この違いってわかりますか?」

「いえ、ちょっと、はっきりとわたしにはわからないので。少し説明してもらってもいいですか?」

「私の中に、もともと、こうしたい、という願望があって……」

 男性が、自分の腹を切るジェスチャーをする。

「それをやめろと、彼は止めていてくれたんですけども……。今日はもういいよと、許しを……」

「とすると、彼というのが、むしろ自分を傷つけたいという岡谷さんの願望を制してくれていて、それが今日、許してくれたから、傷つけたと、そういうことですか?」

 男性が、ごく小さくうなずいた。

「彼、というのが出てくるようになったのは、おいくつくらいの時ですか?」

「あれは、私が転職するためにこちらに来てから……三十……」

「転職?もともとのお生まれはどちらですか?」

「それは……S県で……」

「最後の質問なんですけど、今も、自分を傷つけたいとか、そういう思いはありますか?」

 男性は何も答えず、無言で宙を見つめた。

「ありがとうございます」

 俺は言って、椅子から立ち上がった。

 福谷さんと俺は、部屋から出た。

「どうですか」

 福谷さんが聞いた。

「統合失調症の幻覚妄想状態で、要措置です」

「ありがとうございます」

「どこに入院になりそうですか」

「わかりませんね。これから探すので。ちょっと遠方になるかもしれません。では先生、診断書はまた、レターパックで送付お願いします」

 福谷さんはそう言って、すぐにまた部屋の中に戻った。二人の精神科医の診察で、二人とも要措置の判断となったので、男性は措置入院となる。行政の命令下の非自発入院だ。福谷さんは、その旨を男性に告知しているのだ。

 福谷さんは、この後に入院先を探し、決定したら搬送に同伴しなくてはならない。

 俺は病院を出て、少し周辺を歩き、目についたチェーンの喫茶店に入り、イヤホンを耳に差し込んで音楽を聴きながら、鑑定文書の続きを書いた。二時間ほど、しっかりと集中して書くことができた。

 午後四時を回り、俺は文書作成を切り上げて店を出た。<今からそっちに向かう>と木村宛にメールを送った。




 

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