鑑定医鈴木

@ryumei

第1話 アシナガ

 夕闇の中、道を歩いていた。わずかに残った夕日が、俺の影を地面に細長く投射していた。ふと俺は立ち止まり、空を見上げてぐるりと顔を回転させた。

 つくづく、この空だけは、何にも代えがたい価値があると思った。

 初めてこの街に来たときから、俺はこの空の虜になっていた。広く、澄んでいる。見ていると、いろいろなことが小さく思えて、どうでもよくなる。

 ただ、ひとたび視線を落として地上を見れば、そこは現実である。空によって洗われた心は、一瞬で俗に染まるのである。あらゆる些末なことに腹が立ち始め、俺は嫌な記憶を反芻したりして、憤怒と、恥辱と、自己嫌悪に塗れる。

 そうやすやすと、救われてなるものか。

 木造築二十七年目に突入の我が家に帰る。俺はポケットから鍵を取り出して、鍵穴に入れ、反時計回りに少し回す。ことんと音がする。

 ドアを開いて玄関に入る。自分の家の匂いがする。俺の家の匂いは、半年前から変化している。自分の匂いのほかに、異物が新たに混じったからである。最初は違和感があったが、今ではその異物も含め自分の家の匂いと認識するようになっている。

「ただいま」

「おかえり」

 リビングの椅子に座って、CDプレイヤーにつながれたイヤホンを片方の耳に入れている、女性が言った。髪の毛は肩よりも少しだけ先に延びていた。上下とも量販店のフリースを着ていた。茶色のフリースだ。女性は、同じ茶色のフリースを何着も買っていて、毎日いつも着ていた。

「あなたがいつ帰ってきても、ちゃんとわかって『おかえり』を言うために、あえて一人の時でも、片方の耳にはイヤホンを入れなかったの」

「そう」

 と俺は言った。

「でも、気にしなくていいよ。挨拶とかいいから、両耳で音楽を楽しんだほうがいい。臨場感がないだろう」

「じゃあそうするわ」

 あっさりと女性は言って、もう片方の耳にイヤホンを入れた。

 女性の名前は、アシナガという。当たり前だが、偽名である。偽ろうという気すらない偽名である。本名は明かしてはくれない。べつに俺も、明かしてほしいとも思っていない。

 俺は洗面所で部屋着に着替えて、手を洗った。タオルで手を拭いて、掌を見た。見慣れないほくろが新たにできていた。悪性黒色腫、という言葉が頭に浮かんだ。しかしその可能性は少ない。ほくろの輪郭が綺麗だからである。

 俺は再びリビングに戻った。

「ごはん作るよ」

 俺は言ったが、両耳が塞がっているアシナガは無反応だった。

 俺はジェスチャーで、イヤホンを取るように伝えた。アシナガはイヤホンを取った。

「ごはん作るよ」

「作ったら」

「何を作る?」

「なんでも」

 俺は冷蔵庫のほうをちらと見た。

「チャーハンでいい?」

「なんでも」

 抑揚のない声でアシナガは言って、再びイヤホンを耳に突っ込んだ。

 俺は台所のラジオのスイッチを入れた。聞いたこともない洋楽が流れていた。冷蔵庫から、卵と、にんじんと、ピーマンと、玉ねぎと、豚のひき肉を取りだした。それから、冷凍庫からラップに包んだ白米を取り出し、電子レンジに放り込んだ。そして、野菜をそれぞれ細かく切った。

 テーブルのほうを見ると、アシナガは音楽を聞いたまま、手の甲を枕に机に突っ伏していた。髪の毛が机にたこ足のように広がって、まるで真っ黒な蠢く生き物に見えた。

 俺は肉を炒め、野菜を炒め、卵を炒め、最後に解凍した白米を入れた。そして、へらで米を潰しながら、ひたすら炒めた。炒めることにむきになりすぎて、手首が痛くなった。味付けは、牡蠣醤油と塩少々、最後にごま油をさっとふった。

「できたよ」

「ありがとう」

 アシナガと俺は、テーブルに向かって横に並んで座った。目の前には、食器に盛られたチャーハンがもうもうと湯気をのぼらせていた。

「どうぞ」

 アシナガが、コップを持ってきて、ペットボトルからお茶を注いでくれた。ラジオが相変わらず、聞いたこともない音楽を流していた。

「いただきます」

「いただきます」

 それから俺たちは、しばし黙々とチャーハンを食べた。

「わりと美味しくない?」

「牡蠣醤油のおかげじゃないの」

「まあ、そうか」

 俺は牡蠣醤油の万能性について、思いを巡らせた。

「何のCDを聞いていたの」

「知らない。あなたの部屋の段ボールの中から、適当に拾ってきただけ」

 アシナガが席を立ち、テレビの向かいのソファの上に置いてある、CDジャケットを取ってきて、俺に渡した。

「もう二十年前のCDだよ」

「私が十歳の頃ね」

「俺は十五歳だった」

「悪くないアルバムだったわ。特に四曲目が好き。『石を飲み込む』って曲」

「そんな曲あったっけ」

 俺は驚いて、アルバムのジャケットの裏を見た。そんなものはなかった。

「冗談よ」

 無表情にアシナガは言って、再びスプーンを手にしてチャーハンを食べだした。

「石を飲み込む人って見たことある?」

 唐突にアシナガが訊いてきた。

「ない」

「わたし、あるわよ。友達のお母さんがね、飲み込んでるとこ見たことある。小学校の高学年の頃だったかな。友達の家で遊んでたら、そのお母さんが、突然庭に出て、何かをさっと口の中に放り込んだのよ。驚いたんだけど、友達は見慣れてるみたいで、お母さんたまに石飲むの、って平然と言うの。異食って言葉を、その十年後くらいに知ったんだけど。あなたなら、仕事柄、異食の人を見たことあるんじゃない?」

「あるけど、石は初めて聞いたな。俺が知ってる異食の人は、ペットボトルの蓋を飲み込んでた。入院中に病棟でやったもんだから、慌てて消化器内科に連絡したんだけど、取れなくて、結局消化器外科の人が取ってた。外科はさ、ほら、最悪内視鏡で傷つけちゃっても、開いて切って自分でなんとかできるって自信があるから」

「ふうん。あの子、今頃どうしているのかしら。そもそも生きているのかしら。あの頃のあいつ、今頃どうしてるかな、とか考えることない?」

 俺は少し想像した。

「ごくたまに、あるかな」

 その時俺は、小学校低学年の時に一番親しかった友人を思い出していた。難聴の弟がいて、神社で遊んだりそいつの家でゲームをしたりした。別々の中学に行って疎遠になり、高校は中退したと聞いて、それ以降の消息は知らない。

「いろんな、どこかの誰かが、それぞれの人生で、いろんな思いして生きてるって、なんかすごくない?」

「すごいと言えばすごいし、当たり前といえば当たり前のことだと思う」

「そっかあ。ごちそうさま」

 そう言うと、アシナガはすっと立って、食器を流しに放り込んだ。そして、テレビを付けた。

 俺は、飲み物を途中でビールに替え、ゆっくりとチャーハンを食べて、アシナガに遅れること十分、食べ終えた。

 食器を洗っている間、アシナガはソファに座って、食い入るように真剣な表情でテレビを見ていた。テレビを見ると、動物の生態を解説する番組だった。

 洗った食器を一枚一枚拭いて、食器棚に戻した後、俺はCDを手にしてアシナガの隣に座った。

「このCD、好きで、何回も聞いたんだ。姉ちゃんに、いったい何年同じの聞いてるのって呆れられるくらい。テスト勉強とかする時に、ながらのルーティンで聴く、レギュラーでヘビーローテの一つだった」

「悪くないアルバムよ」

 アシナガは先ほどと同じことを言った。

「この曲歌ってる人って、明るい歌詞を軽い感じで歌ってるけど、なんていうのかな、どこか虚ろっていうか、萎えてる感じがするのね。ポップで、内省的でもなんでもないんだけど、どこか人生に対して萎えてるような。その、萎えてるけども、とりあえず今日という一日をある程度ご機嫌に生きないと、っていうのは、ある特定の人には普遍的に響くような気がする。現にあなたには響いたわけでしょ」

 うってかわって大真面目に論評したので、俺は驚いた。でもそれは俺がそのアーティストに感じた印象とはまるで違うものだった。

「ウォンバットってすごいわね」

「何それ」

「今この番組で特集している動物のことよ」

 テレビに視線を移すと、毛むくじゃらのネズミみたいな動物が映っていた。

「自分の巣に来た外敵を、尻で撃退するって最高じゃない?今度あなたもやってみたら。新聞の勧誘が来た時とか」

「その役は君に譲るよ」

「ははっ」

 アシナガは乾いた笑い声をあげた。タクラマカン砂漠なみに乾いた笑いである。彼女の笑いの特徴だ。

 午後八時になった。アシナガは、時計を確認すると、タンスから寝間着を取り出して、風呂場へと向かい、戸を閉めた。アシナガはいつも時間正確に風呂に入った。そのあいだ、俺は新聞を開いて読んだ。新聞は、かつては思想的中立と言われていた新聞であったが、最近はやけに左寄りになっていた。世界も政治も世情もいろいろなことが起こる。思うことはあるが、それはただ思うことがあるだけとも言え、俺は新聞を綴じる。

 風呂場のドアが開いてアシナガが出てきた。寝間着も日中と同様の茶色いフリースだった。

「長湯したわ。のぼせたかも」

 俺は時計を見た。

「十分も経ってないよ」

 アシナガはちらりと時計に目をやって、「そう」と気のない返事をし、冷蔵庫から牛乳を取り出してグラスに注いだ。そしてソファに座り、牛乳に一口口をつけた。

「わたし、牛乳が好き」

「知ってる」

「それって、私が母乳を飲んだことないのと関係してるかしら。わたし、ミルクで育てられたみたいだから」

「どうだろう。あんまり関係ないんじゃないかな」

「ミルクといえば、芥川龍之介は、自分が母乳で育てられなかったことに相当悩んでたんだってね。母乳じゃなかったから線が細くてひ弱になったって」

「うん」

「母乳を飲まないと、芥川龍之介になっちゃう世界があったとしたら、面白くない?世界人口の相当数が、芥川になっちゃう。『河童』みたいな世界なのかしら。バルビタァルがいくらあっても足らないわね」

 アシナガは牛乳を飲み干すと、空のグラスを流しにことんと置いた。そして、本棚から文庫本を取り出して、読むという行為に埋没し始めた。アシナガの集中はとても深い。

 俺は、アシナガとテーブルを挟んで向かいに座り、仕事用の鞄から書類とノートパソコンを取り出しておいた。ノートパソコンのスイッチを入れて立ち上げると、俺は画面をスクロールして、書きかけの鑑定の文書をざっと眺めた。まだ先は長い。俺は書類を手に取って、ぱらぱらと眺めた。重要と思ったポイントには付箋がしてある。俺はあらためてその部分を見直して、青いボールペンで下線を引いた。

 事件の概要は、酩酊した精神科通院している被疑者が、深夜に交番を突然訪れ、取り合えってもらえず激昂して、石を投げつけて交番のガラスを割ったというものである。器物破損に該当するのだが、その際に精神科病状が関わっていたかどうか、見解と解説を記すのだ。おそらくは酩酊も関わっていたし、病状も関わっていた。心神耗弱と結論づけている。その結論に至るまでの過程を、病状と対象行為に結びつくメカニズムが非医療者(主に法律家)にも伝わりやすいように、記載していく。いわゆる鑑定文書である。

 静かな時間が過ぎていく。アシナガは黙々と本を読み、俺も黙々と資料に目を走らせながら、鑑定文書を書いていく。

「寝るわ」

 唐突にアシナガが言った。時計を見ると、午後十一時だった。

 アシナガは本に栞を挟んで、本棚に戻し、隣の寝室に向かった。そして押し入れから布団を取り出して敷いた。

「これあなたの」

 アシナガが俺の掛け布団を抱えて渡してくれた。俺はそれを受け取ると、ソファの上に置いた。アシナガは寝室、俺はソファと、別々の部屋で寝るのだ。

 アシナガはリビングのテーブルの隣の引出しから、小さな箱を取り出した。箱の中には、複数の種類の向精神薬が入っている。アシナガは、その中から薬のシートを取り出し、ぷちぷちと錠剤を出しててのひらの上に乗せていった。

 アシナガは、毎晩寝る前に、大量の睡眠薬と抗不安薬を飲む。飲む薬と錠数も決まっている。具体的には、ゾピクロン十mg錠を三錠、エスゾピクロン三mg錠を三錠、ブロチゾラム〇・二五mgを三錠、ジアゼパム二mgを二錠、ブロマゼパム五mgを二錠である。ジアゼパムとブロマゼパム以外は、添付文書の上限量を越えている。健常の人がこれだけ内服したら、まず翌日起きられない。

 アシナガは、錠剤を一粒一粒丁寧に口に放りこみ、水道の水で喉の奥に流し込んだ。俺はその様子をじっと見ていた。合計十三錠を飲み終えると、アシナガは

「おやすみ」

 とひとこと言って、寝室に入り、電気の明かりを消し、布団にもぐりこんだ。アシナガは、まっすぐの姿勢でしっかり天井に顔を向けて目をつむる。

「おやすみ」

 と俺も、既に閉眼しているアシナガに向かって言った。

 俺は、アシナガの飲んだ大量の向精神薬が、胃に到達し、小腸に到達し、ゆっくりと吸収され、血液の流れに乗り、脳内に入り込んで浸透していくイメージを、頭の中に思い描いた。

 十五分程経って、俺は寝室をのぞいた。アシナガは先ほどと同じ姿勢で目をつむっていた。寝息が聞こえない。掛け布団を、集中して凝視すると、わずかに呼吸に合わせてごく軽く上下している。一応、生存が確認される。

 俺は寝室の襖を閉めた。カーテンを少し開いて、夕方よりも西方に移動した月を見た。そして再びテーブルに向かい、文書の続きを書いた。目の前には、アシナガの薬箱が置いてあった。薬のストックはだいぶ減っていた。アシナガの使用頻度だと、あと三日は持たなそうだった。

 俺は知り合いの木村に、メールを送信した。<明日、必要なので頼む>という短い文章だ。

 俺は結局午前二時まで鑑定文書を書き、資料を読みながら眠気で意識が遠のくようになった段階で、ソファに横になって寝た。

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