第2話〜モニター(中)

…………。


ここの管理人の募集は1人だけだった。


¨運が良かった¨。


前任者は病気か何かで辞めたらしい。


電波は届かず、有線のみ。


水や食糧は週一で届けられるだけ。


心でも病んだのかもしれない。


男には関係のないことだが。


確かにこの男のような図太さがなければ病んでしまうことだろう。


まだ牢獄の方が活気と変化がある。


今日もまた男は気晴らし程度の感覚で見回りに出る。


…………。


街からこの工場までには崖と谷、それらを繋ぐ一本の橋がある。


そして地形のせいかよく霧が出る。


今日は朝から霧が濃かった。


外のカメラの映像を映すモニターのほとんどが役に立たなかったほどだ。


辺りも暗くなり、ようやく少し霧が晴れてきたようだ。


不鮮明だったモニターがようやく仕事をし始めた。


必要最低限の外灯と薄暗い室内灯を付けていく。


ライトはあるが、別に電気は消さなくても問題はない。


文句を言ってくる人間など何処にもいないのだから。


さすがに報告の前に無駄な電気は消して回るし、今も全ての灯りが付いているわけではないが。


…………。


なまじ半端に照らされているからこそ、陰影が生まれてモニターの向こう側が見えにくい。


また霧が濃くなったようだ。


ガタガタと風の音もする。


この場所は地形のせいかよく風が吹き込む。


霧は風に流されるどころか渦を巻いて集められているようだ。


モニターにはほとんど濃淡による模様しか映らない。


月に何度か、多ければ数日に一度はこういう日もある。


男はフンと鼻を鳴らして椅子に座り直した。


…………。


男は不意に違和感を感じてモニターを見渡した。


不規則なようでいて規則的な画面に、何やら異物が映り込んだようだ。


不鮮明なモニター。


これは確か工場の裏手だ。


1匹の獣らしき影が見える。


それほど大きくはない。


野犬だろうか?


モニターにノイズが走る。


野犬らしき影は建物の方へと移動して行く。


そして見回りの時に閉まっていたはずの扉のあたりで姿を消した。


…………。


一部始終を見ていた男はフンと鼻を鳴らし、悪態をつき、しかしどこか嬉しげに机からライトを取り出した。


そして壁に掛けられた警棒を取り、腰にさす。


モニターに表示される男の心拍を表す数値が上がって行く。


ライトの光が、古い建物内を照らした。


ガタガタとガラスが鳴る。


風は強く隙間風が甲高い音を立てる。


嵐でも来るんだろうか?


それで野犬が避難してきたのかも。


格子状の門は人は出入りできないが、獣程度ならすり抜けられる幅がある。


男は久々の変化ある出来事に胸を躍らせながら、部屋を出た。


『…………』


誰もいなくなった管理人室。


男のバイタルを記録していたモニター画面の右下に、赤いライトが点滅した。


…………。


男は管理人室から離れた位置にある建物の裏手に来た。


閉まっていたはずの古い扉を照らす。


鍵が壊れたのか、僅かに開いていた。


男は舌打ちをし、扉を開ける。


やたら傷跡の多い壊れかけの古い扉は、蝶番そのものが壊れているようだ。


後で報告しないといけない。


男は埃っぽい建物内をライトでぐるりと照らす。


足元に、野犬のものと思われる足跡があった。


ごくり…


男は無意識に喉を鳴らす。


これまで一度も立ち入ったことのない建物内。


外にも漂う異臭が濃く、嗅覚を刺激する。


これは、消毒液の臭いと何だろうか。


鉄錆臭さもあったが、建物内には機械類はほとんど見当たらない。


そう言えば、と男は思い出す。


男がこの仕事に就いてから、2回ほどこの臭いが強くなった日があった。


それは業者が点検のために建物に入った日で、点検にしては大型のトラックが数台と大掛かりなものだった。


点検のある日は、男は敷地の外にある小屋で寝泊まりするよう言われていたのだが、今から思えばなぜ管理人の自分が外に出されていたのか…


…………。


仕事内容はマニュアルで伝えられたが、口頭で管理室以外には立ち入らないよう釘を刺されていた。


男の仕事はモニターの監視と、建物の施錠の確認。


モニターの置かれた建物以外の工場や細々とした建物の中には入ってはいけない。


見回りで中を覗いたことはあるが、カーテンが引かれていたり、目打ちされているものがほとんどで、中がどうなってるのかは知らない。


男は強い違和感を覚えた。


進んで言われた事を破ることはしないが、仮にも管理人の立場なのだから。


この場合は中に入っても仕方あるまい。


そんな理由を付けて、男は入らないよう言われていた工場内に侵入する。


暇で刺激のない日常に起こった些細な出来事。


心の片隅に覚えた違和感も合わさり、男の心拍数は大きく上がっていた。


所々にホコリの積もった床にはハッキリと野犬の足跡が続いている。


…………。


室内灯のスイッチを手探りで見つけ押してみたが、付かなかった。


ブレーカーそのものが落ちているらしい。


工場のどこかにあるブレーカー。


それを探し出さなければ工場内を照らすことはできない。


男はコツコツと床を爪先で叩き、すぐにブレーカーを探す事を諦めた。


ライトがあれば十分。


野良犬を見つけて追い出すだけだ、と。


男はライトをかざしながら、建物内をゆっくり進んでいく。


どこかで嗅いだ事のあるような、無いような、不思議な異臭にはすぐに慣れてしまった。


…………。


足跡は工場の奥へと続いている。


時折通路や部屋をライトで照らしながら、男はゆっくりと進んでいく。


埃の積もった床には所々引き摺ったような跡があり、人の足跡や傷跡もあるようだった。


まるで何かが暴れた跡のような…?


不自然に所々清掃された跡がある。


消毒跡だろうか?


薄らと床や地面に変色したシミのようなものが見られた。


なんの工場だったのだろうか。


部屋にはほとんど荷物はなく、時折忘れられたように工具やパイプと言ったものが置かれていた。


忘れ物だろうか?


男はそれらの光景に、何かを思い出しそうになったが、今は犬を追いかけるのが先だと思い直した。


工場は何棟かあるが、ここが一番でかい。


奥まで入り込まれていた場合、探すのには時間がかかりそうだった。


…………。


ーーーグルルル…


工場内に入って十数分、獣の唸り声が男の耳に届いた。


通路の奥にライトを向ける。


曲がり角に薄汚れた野犬が、二つの瞳を爛々と光らせていた。


ライトに照らされた野犬は牙を剥き出しにして男を威嚇する。


カチャカチャと忙しなく、床と爪が当たる音がした。


しかし男は構わず前に進んだ。


カシャン!


男は腰にさしていた警棒を伸ばす。


それで肩を叩きながら、わざと足音をたてながら近づいていく。


すると野犬は唸ったままゆっくりと後退し、身を翻すと曲がり角の向こう側へと姿を消した。


ふん、と男は鼻を鳴らし、嫌らしい笑みを浮かべたままその後を追う。


その表情からは優越感、嗜虐心といった醜い心情が滲み出ているようだった。


男はわざと警棒の先端を壁に押し当て、音を立てながら野犬を追いかける。


ゆらゆらとライトを揺らし、どこか酔っているような足取り。


男は追い付いてはわざとらしく威嚇し、音を立てて野犬を追いやった。


男が入ってきた扉以外に出入り口はない。


他の扉は鍵が掛かっていて開かない。


野犬の唸り声と男の嘲笑が工場内に何度も響き渡る。


…………。


野犬と男の醜い追いかけっこはしばらく続いた。


男は鬱屈とした気分を晴らすように、何度も何度も、わざと近くに警棒を叩きつけては逃げる野犬を追いかけた。


みずぼらしい犬だった。


肋が浮き出でがりがりに痩せ、泥やらで汚れた体毛からは獣臭が漂っている。


逃げ回るその瞳には明確な怯えが浮かび、男の嗜虐心を満足させた。


男は上がり始めた息を整える。


普段の運動不足のせいか、走り回ったわけでもないのに息が乱れ、足も重く感じ始めていた。


そろそろ潮時か。


男は通路の隅にうずくまる野犬に駆け寄り、逃げる暇も与えず警棒を叩きつけようとした。


が、


「⁉︎」


突然足に抵抗と痛みが走った。


まるで段差に躓くように、男は惨めに床に倒れ込む。


その衝撃でライトは遠くへと飛んでいき、警棒を持っていた手には激痛が走った。


その音と衝撃に驚いたのか、野犬は悲鳴をあげて奥へと姿を消した。

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