第29話 王妃さま牛丼を召し上がる
「ユイトさん」
「ぎえっ!」
おれは気が小さいんだ。
このアパートは結菜さんと二人だけで住んでいる。部屋には他に誰も居ないはずなのに、後ろからいきなり女性の声が掛かり、卒倒しそうになった。
「王妃さま」
いつの間にいらしたのか、そこに王妃さまが立っているではないか。
「ユイトさん、また負けたんです」
「あ、の……」
結菜さんの通訳で、オーストリアがまたフランスに大敗をしてしまったと知った。
王妃さまは居ても立っても居られず、ユミさんに頼んでまた時空移転をしたという訳だった。
「ユイトさん、どうしたら良いんでしょう」
「あの、王妃さま、どうぞここにお座り下さい」
おれは王妃さまに椅子を勧めた。どうしたらと聞かれても、すぐには答えられない。
「王妃さま、何かお飲みになりますか?」
「ユイナさん、ありがとう」
結菜さんが紅茶を入れようとしたが、その間おれと王妃さまとの会話が途切れてしまうからと、代わって結菜さんにお相手をしてもらう事にした。
おれは紅茶を入れている間に、なんと返事をしようかと考えていたが、なかなかいい答えが浮かばない。
それはそうだろう、なにしろ相手は戦術の天才ナポレオンだ、簡単に勝てるわけがない。現に全ヨーロッパが束になって掛かってもかなわない男なのだ。それは歴史が証明している。
「結菜さん、これは難しいな」
紅茶を出しながら、結菜さんにはつい本音を漏らした。
はっきり言ってオーストリアはフランスに、いやナポレオンには勝てない。
おれは王妃さまに、ナポレオンの率いる軍がどんなに強いかを話したのだが、今それをこの方は身をもって知りつつあるのだ。
「あの、おなかが空いてないですか?」
この重い空気の中で突然そう聞いたおれを、結菜さんの目が非難するように見つめている。
「いや、今深刻な状況になっているのは、もちろん分かっているよ」
「…………」
「だけどどうしてもいい案が浮かんでこないんだ」
という訳で、とにかくここは腹ごしらえをして、ゆっくり考えようという事になった。
「お昼ご飯は何にしようか」
「回転ずしか牛丼はどうだろう」
「でも王妃さまはお魚がだめでしょう」
「そうか、じゃあ牛丼だな」
結局吉野家の牛丼を食べて頂く事にした。
「ゆいとさん向こうを向いて――」
「分かった」
おれは出かける前に着替える二人に対して、後ろ向きになる。またファッションショーが始まったのだ。
「こっちを向いていいわよ」
「いい、わ、よ」
王妃さまの表情が明るくなっている。少しずつだが日本の言葉も覚えたようだ。
前回と同様で、洋服が何着も取り換えられ、なかなか決まらない。
ジーンズを履くと結菜さんが、
「しゃがんでみてください」
「…………」
マリーアントワネット王妃がジーンズでしゃがむ姿はちょっと見られないだろう。
だがこれは無理だと仰る。体のラインが綺麗に出て良いと思ったのだが、どうしても窮屈に感じるのか、まあ仕方がない。
やはりゆったりとしたワンピースがお好みのようだ。最終的に王妃さまが選ばれた服は、シアーチェックティアードワンピースというのだそうだ。ベージュ色のロングタイプで身体をゆするとスカートの裾がひるがえるのを、何度も試してご満悦だった。
もちろんスタイルがいいから、何を着ても絵になっている。
吉野家に入るとそこに居合わせた客から一斉に見られてしまった。やはり王妃さまは目立つ。
箸は無理なようなので、フォークを出してもらった。
カウンターに腰掛けていると、王妃さまは好奇心を抑えきれない様子で、
「ユイナさん、ここではどんな料理が出るのですか?」
「王妃さま、とても美味しいと言って頂けると思います。お楽しみに」
結菜さんは小声で王妃さまにそうささやいた。
結局カレーライス同様、こんな美味しい物は初めてだと牛丼は完食だった。王妃さまには日本の食べ物が合っているようだ。
昼食の後はスターバックスに入る。メニューを見る王妃さまは嬉しそう。
「スタバの新作で、桃の果肉がたまらないピーチフラペチーノですって!」
結菜さんは自分が食べたそうに言った。
おれはカフェラテにしてあと二人は仲良くピーチフラペチーノを注文、その後は静かなコーナーを選んで座る。
そこでゆっくり王妃さまにはヨーロッパの現状を話して頂いた。
「ナポレオンがフランスを留守にしている間に、イギリス、ロシアなどとのに第二次対仏大同盟が結成され、我が国は北イタリアを奪回しました」
ところがその状況に危機感を抱いたナポレオンはエジプトからフランスに戻り、クーデターを起こして独裁権を握ったという。
そして反撃のためアルプス山脈を越えて北イタリアに進出。
マレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。ライン方面も、ホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破した。
フランス軍の行軍スピードが速すぎるのだ。
さらにユミさんから得た情報では、重火器の進歩が激しいため、戦術もかなり変わっているようだ。
18世紀後期、歩兵の主力兵器はフリントロック式の前装銃から後込めに変わっていた。日本からイングランドに伝わった新式銃は、既にヨーロッパ全土に行き渡っていたのだ。仁吉の開発した機関銃もさらに進歩していた。
歩兵部隊は従来の弾幕射撃と違い、精密な狙いを定めしかも遠距離攻撃出来る為、塹壕が掘られ始める。
砲兵は、それまでは歩兵の援護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。
この時代、物資は各国軍とも現地調達によるしかなかった。だからフランス軍は人口密度の高い地域では円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアなどでは機動力が鈍った。
ここで注文した品が出来たので、おれが取ってくるとテーブルに戻った。もちろん美味しそうなピーチフラペチーノに王妃さまは目を輝かせた。
スプーンですくい口に入れた王妃さまは、これ以上満足な顔は出来ないといった風だ。
ひとしきり食べるとまた会話を戻した。
「王妃さま、残念ですが私達が知っている知識は既に過去のものとなっているようです。あまり参考にはなりません」
「…………」
ここでおれはコーヒーを一口飲んで先を続けた。
「ただナポレオンは巧みな戦略的機動によって、より有利な状況を作り出すことを得意としているようです」
「…………」
「分散して進撃するオーストリア軍に対して、機先を制して各個に撃破したり、敵主力の側面から背後に移動し、敵の主力を包囲して降伏に追い込んだりしてます」
王妃さまは黙って結菜さんの通訳を聞いている。
「また自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意としているようです」
「…………」
「つまりナポレオンは敵を分散させて味方の有利な状況を作り出し、包囲して殲滅させることをしてます」
「…………」
のどが渇いたおれはまた一口飲んだ。
「だからナポレオンにやられないためには、味方同士の連携が最も重要になります」
「…………」
「彼はオオカミのように敵を孤立させては、個別に撃破して行くんです。それを可能にしているのがスピードなんです」
「……スピードと連携プレイですね」
王妃さまはスプーンを回しながら、深いため息をついた。そんな事はすぐに出来るものではないだろう。
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