第19話

「すまない美名美くん。ミネラルウォーターを切らしていてね」

「別にいいですよ。っていうか、今までそれだったんですね」


 冷蔵庫の中から、水道水をんでいた水差しを取りだして申し訳なさそうに言うが、美名美は逆にそれを使っていた事に驚いた。


「いつも水道の水でいいですよ」

「そういう訳にはいかないのだ。水ぐらいは美名美くんに半端な物を飲ませるわけには」

「じゃあ、なんか浄水? みたいなそれのやつで」

「うむ。では君の意見を尊重しよう」


 分量ちょうどになる様に水を入れて、ケトルのスイッチをオンにした由実はやや不満げながら了承した。


 コーヒーを淹れてクッキーを紙皿の椀に盛り、美名美はカウチに座ったまま、由実はいつもの窓際の席でレクチャー前の腹ごしらえをする。


「旨いな。やはり市販品とはひと味違う味わいだ」

「そうなんです?」

「喫茶『ハチノス』という店に理事長自ら発注しているとかなんとか」

「どこにあるんですかねそのお店」

「私も気になって探したのだが、どうも地図にも電話帳にも載せてない様なのだよ」

「へえ、今時珍しいですね」

「であるな。出来れば訪れたいのだがね……」


 クッキーをモリモリ食べている一方、湯気が立ちこめるコーヒーはいつも通り手をほぼ付けず、由実は僅かに眉をひそめてごく小さく唇を噛む。


「まあ、見付からないものは仕方が無い、しっかり買って応援するとしよう」


 そう言ったところで、ちょうど由実はクッキーを全て平らげてしまった。


「氷とか入れます?」

「……。いや、それは何か負けを認める様な気がするのだよ……」

「何との勝負なんですか……」


 コーヒーにちょっと口を付けて、まだ熱かったため離して憮然ぶぜんとする由実へ、美名美がそう提案するも、彼女は一瞬迷った後に修行僧のような顔で拒否した。


「まあとにかく、だ。腹が膨れたところで始めさせて貰おうと思うが」


 カップを机の上に置いて薪を追加した後、1つせき払いをした由実は、いそいそといった様子で道具類の脇に立った。


「あ、どうぞ」

「美名美くんはそのままでいい。私が動く」


 座ったままなのも、と立ち上がろうとする美名美を制し、由実は一番左端に畳んであったライトグリーンの布製シートを手に取って広げた。


「お立ち会い、という程ではないのだが、これは焚き火台の下に敷く防火マットだ。どうもここ最近普及し始めた様なのだが、これさえあれば火の粉や薪が落ちても芝生が燃えずにすむぞ」

「なんで最近なんです?」

「いや、どこの界隈でもそうなのだが、人気の拡大と共に平気で迷惑をかける無法者が増えたせいでな。おかげでまともにやっているこちらも一緒くたにされて大迷惑だ」


 実に腹立たしい、と由実が見たことの無い程の最大級のしかめ面をし、


「ま、それは置いておこう。では次。このたき火台についてだ」


 完全に諦観ていかんした様子でため息を吐きつつシートを畳み、やや小さめの穴が空いたバケツ型の物を手に取った。


「私は携行性を考えてメッシュタイプにしているが、こやつは扱いやすいし、レトロな雰囲気で良いと思ってな。他にも様々種類はあるが今は割愛させて貰う」

「触っても?」

「元から美名美くんのものだ。遠慮はいらんよ」


 両手で受け取った美名美は、裏返したり回したりしてそのディティールを眺める。


「……」

「……あ、喋ってて下さい。邪魔とか思ってないんで」

「うむ。分かった」


 あまりに熱心だったため気を遣って黙った由実へ、顔を上げた美名美は、言いたくてソワソワしていた彼女にそう促した。


「たき火台の次はなんといってもたき付けであるな。これがなければかなり難儀する羽目になるぞ」

「松ぼっくり以外はだいたいどういうものを使うんです?」

「うむ。定番の小枝や新聞紙の他にもスギの葉や皮があるが、着火剤、牛乳パック、ほどいた麻紐あさひもという手もある。まあ燃えやすければ何でもありだな」


 私は大概、新聞紙か自然物を使うがね、と付け加えて、由実は火口が長いタイプで赤いボディの新品のライターを手に取る。


「そして火種だ。これはもはや我々の間では説明不要であろう?」

「速さが一番ですね」

しかり。便利なものがあるならば使わない手はない」

「ですね」

「では次。意外かと思うだろうが皮手袋だ」

「火傷とか危ないですもんね」

「うむ。さすが美名美くんだ。話が早いな。無くても出来るがあった方が安全なのだ。何せ薪はささくれが手に刺さって面倒だからね」


 そう言いつつ自分の革手袋をはめた由実は、ストーブへその横に積んである手製の薪置き棚から追加し、さらに1本を持って戻ってきた。


「大きく分けて薪には針葉樹と広葉樹がある。前者は着火しやすいが火持ちが悪く、後者はその逆だ。

 私はヒノキとナラを好んで使うが、スギ、カシ、クヌギ、竹、梅、柿などの天然物のほか、バイオマス薪やオガライトといった人工物もあるぞ」

「ちなみにそれって?」

「コイツはカシだな。火持ちと火力の良さでチョイスした」


 薪を美名美が食べているクッキーが乗った紙皿の横に置き、由実はブルーシートの最奥の方に並べてある手斧ておのを手に取った。


「まあ見ての通り、コイツは薪割りに使うぞ。プロはナタや普通の斧、ナイフ、のこぎりを用途に合わせて使うそうだが、まあこれとナイフ辺りがあれば我々には事足りるな」

「見せて下さい」

「うむ。ああ、ケースからは出すのはおすすめしないぞ。素手では危ない」

「分かりました」


 落とさないようにそっと美名美に手斧を渡し、一番端にある金属製の火吹き棒と火ばさみを手に取った。


「火をいじるなら当然必要なのはこやつらだ。ここにあるのは単に金属のストローだが、2つが合体したものなどいろいろ手の込んだタイプもある」


 まあ火ばさみは知っての通り、と言って、両方とも元の場所に戻した。


「合体……」

「私も目にしたときには、その発想があったか、と驚嘆したものだ」


 気になった美名美が携帯で調べ、いかにもなそれらの合理性溢あふれる形状に感心している様子を見つつ、愉快そうに笑ってぬるくなったコーヒーを啜った。


「とまあ、大方これらがあれば良きたき火ライフを送れるぞ。ついでにエプロンがあるとなお良い」

「由実先輩は使わないんですか?」

「――私は、まあ、諸般の事情があってね」

「なるほど」


 訊いた瞬間、由実の表情が少し凍り付いた様に感じ、美名美はそれ以上は追求しなかった。


 理由は分からないがちょっとマズいことを訊いたかもしれない、と感じた美名美が、他の話題を探して視線を彷徨わせたとき、


「邪魔するわよ由実」

「邪魔をするなら帰ってくれたまえ諸星くん」

「またそういう事言うー」


 引き戸がノックされ、真梓まあずがひょっこりと入ってきて、由実はやや面倒くさそうにして冷笑気味に言った。


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参考文献


 猪野正哉著『焚き火の本』(山と渓谷社)42頁~55頁、58頁~61頁、78・79頁。

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