第9話

「晴れたねー」

 宿に着いた僕らは、空を見上げていた。雲一つない快晴、とはこのことだ。

「いやあ、俺日頃行い、いいっすからね」

「そうね、荒津君に感謝しましょう。じゃあ、まずは今日の準備しなきゃね」

 部屋は二つ、南宮さんとそれ以外に分かれる。いかにも山小屋、といった感じの大部屋は、木の香りに溢れていた。懐かしい感覚だ。

「うわあ、なんかいいっすね」

「……木目だ」

「いいことばかりじゃないぞお。虫とかに気を付けろよ」

 先生は手をくねくねさせながらおどけてみせる。先生は海外も含め、相当経験が豊富らしい。勘だけれど、登山部の顧問よりも色々とできる人なのではないだろうか。三年前うちの学校に赴任して、自らフィールドワーク部を作ったそうだ。登山部で出来ない何かをしたかった、のではないかと思う。

「虫は……いやっす」

「トカゲとかもね。じゃあ、行こうか」

 再び表に出ると、すでに南宮さんはいた。さすがリーダーである。

「部長、虫には気を付けてくださいね!」

「え? あ、平気平気」

 荒津君は気にしているが、そのうち普通の虫なんてどうでもよくなる。山では、ひどい時はヒルにかまれて血まみれである。

「まあ、虫は出るものと思って。では、今から洞窟に向かいます」

 山に登るのは明日で、今日は近くの洞窟を観に行くことになっている。探検みたいでワクワクする。

「じゃあ、並びはいつもと一緒で。頼んだよ、神野君」

「はい」

 僕、荒津君、久佐木君、南宮さん、先生。いつもの並びで出発する。夏真っ盛りとはいえ、木々の間を抜ける道は気持ちのいい温度だった。

 今日の行程は坂が少ない。ただ、大きな岩があったりして、足場には注意が必要だった。

「先輩、ちょっと早いっす」

 振り返ると、荒津君との距離が少し開いていた。体力的な問題ではなく、歩くのに苦戦しているようだ。久佐木君も困ったような顔をしている。

「こう、手を使ってみて」

「はい」

 僕がやって見せると、荒津君がそれを真似する。すると、久佐木君も真似して、笑いながら南宮さんも真似した。

 僕は、しばらく前だけを向いた。涙が出てきたからだ。

 できないことは、教えればいい。怒ることも、けなすことも必要ない。

 ここでは、それが当たり前だ。誰かが遅れれば、待てばいい。

 ここに、あいつがいれば。

 幸いにも、先頭なので誰にも顔を見られなかった。

 目の前に、大きな壁が見えてきた。その下の窪みにはお堂がある。

「昔ここで、修行した人がいたんだって」

 先生はそう言って、座禅を組んでみせた。確かに、自然の中でじっとするにはいい場所かもしれない。

 山には、そういう修行の伝説の残る場所、今でも修行がされている場所が多い。それは山に何かのエネルギーがあるということだろうし、修行になるほど山がきつい場所だったということでもあるだろう。

「ここなら雨降っても大丈夫っすね」

 荒津君はそう言って、壁と空が両方映るアングルで写真を撮っている。

「……こうかな……」

 そして久佐木君は、メモ帳に絵を描いていた。壁に貼りつくように生えている草の葉っぱを、脈の一つ一つがはっきりわかるほど丁寧に描写していた。

「おもしろいな」

 そんな後輩たちの様子を眺めながら、南宮さんがつぶやいた。確かに、山だけでなく、山にいる人々を見るのも面白い。去年の僕にはそんな余裕がなかったけれど、一昨年までは楽しめていた。野原があると必ずフリスビーをする人、しゃぼんだまを作る人、釣竿を常に持参している人、いろんな人がいた。

「最初は、あんまり山が好きじゃなかったんだよね。小さい頃、お父さんに無理やり連れられてって」

「そうなんだ」

「でもね……夫婦喧嘩してすごく不機嫌な時、山で笑顔になったのを見て……ああいいな、と思ったの。色々忘れたりできるんだな、いいなって」

「そっか……」

「どうしたの?」

「いや、お父さん、本当に山好きなんだね」

「神野君もそう見えるよ」

「そうかな」

 もちろん、山は好きだ。でも、山に来ると嫌なことも思い出してしまう。その記憶から逃れられる日が来るかは、わからない。

「先生なんてな、目の前で仲間が滑落していったんだぞ」

「え、どうなったんですか」

「幸い命は助かったけど、まあ、大変だったよ。それでも、山は楽しいぞ。むしろ、生きて帰る度に幸せを感じる」

 ベテランの方は、よくそういう経験を語ってくれる。山は決して安全ではない。それでやめていく人もいるし、それを乗り越えてさらに奥地へと入っていく人もいる。僕はまだ、どっちつかずだ。

「先生は……やっぱり険しい山の方が楽しいですか」

「そうだなあ、もちろんすごいところを登り切ったら充実感があるけど、そういうところは人を選ぶからなあ。仲間がみんなちゃんとたどりつけて、それでいて充実感が得られるのが一番かな。おし、そろそろ行こうか」

 休憩を終え、再び歩き出す。

 もし一人だったら、と考える。一人で行くとしたら、ここではなかっただろう。でも僕は、一人で山に行きたいと思ったことがなかった。いつも誰かと……いつもあいつらと一緒に、山に行っていた。

 今は全く違う仲間と歩いている。それはそれで楽しいのだ。でも、やっぱりどこかにもやもやとした思いがある。

 しばらく歩くと、水の流れる音が聞こえてきた。川とは何かが違う、その音。

「見えてきたぞ」

 岩にぽっかりと空いた穴から、水がこんこんと流れ出てきていた。あれが、今日の目的としていた洞窟なのだろう。

「すごい! もっと暗くてどんよりしたのイメージしてました」

 穴は小さいけれど、圧倒的な存在感を感じさせる洞窟だった。中から命があふれ出てきているような、大きなエネルギーを感じさせる穴なのだ。

「ちょっと飲んでみよう」

 先生は洞窟に近付いていき、流れる水へと手を伸ばした。一すくいして、豪快に浴びるようにして飲む。

「ふぁー! これはいいぞー」

 僕らも真似して、水をすくった。ひんやりとして気持ちいい。飲んでみると、味がした。なんと表現したらいいかわからないけれど、普段飲んでいる水道水は味を感じないので、とにかく味がすることが不思議だった。

「遭難したら、ここはパラダイスだなぁ」

 先生がおかしなことを言う。みんなで、ゆったりと笑った。



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