第21話 雨の声
「……で、殴られて気を失ったと。うーん、実に大胆な犯行だ」
そう言って、ニクソン巡査部長は薄い頭頂部をぽりぽり掻いた。半袖のシャツにベストを着用して涼し気な夏仕様の彼だが、腹回りは相変わらず立派なままだった。
「しかし、犯人が何かを持ち出した形跡は見当たらない……。奴は何のためにここに来たんだろうか」
メロが難しそうな顔をして言った。部屋中を調べまわる鑑識班の傍ら、彼は椅子にもたれるキーファを看護していた。彼女の額の殴打痕に、消毒液を染みこませた綿を当てる。
「大丈夫かい?キーファ君」
キーファは疲れ切った表情をしていた。
「めっちゃ痛いです、博士。めっちゃ染みます」
そんな二人と鑑識のようすを見ながら、ニクソンは腕を組み、考え込んでいた。
「犯人は体中を覆い隠していたから、当然キーファさんは奴の顔を見ていない。それどころか、身元を割り出す手がかりすら見当たらない……困ったなぁ」
「手がかりと言えるのもは現時点で二つほど。全身を衣服で覆い隠していた事と、僕の論文を探していた事、くらいか」
メロはキーファの傷にガーゼを当て、医療用のテープで固定した。
「次会ったら、頭を思いきり殴りかえしてやりますよ」
キーファは指の骨を鳴らして、誰にでもなく威嚇した。
「――それにしても、」
彼女はそう言ってメロをじっと見た。
「博士がどこかをほっつき歩いてたせいで、こんな目にあっちゃったんですけど」
「ごめん、キーファ君。さすがに僕も、白昼堂々強盗がやって来るとは思わなかった。君はしばらくは研究所に来ない方がいい。家で安静にしていてくれ」
メロは目を伏せ、申し訳なさそうに言った。
「いやです」
「え?」
キーファは勢いよく椅子から立ち上がった。
「私のかわいい顔に傷をつけやがって、あの野郎絶対に許せません。ボコボコにして、牢屋にぶちこんでやりましょう、ね!」
彼女はそう意気込んでメロとニクソンの顔を交互に見た。鼻息荒い彼女のようすに、二人は目を合わせた。
――どうすればいい?
困惑するメロの視線を受けて、
――知りませんよ、そんなの……
ニクソンは薄い頭頂部をぽりぽり掻くだけだった。
――『襲われた美女!メロニック昆虫研究所に訪れた謎の男』。
翌日の新聞の一面に、大きな見出しが掲載されていた。荒らされた研究所の写真に真っ黒な男の影が重ねて描かれ、本文には昨日の一部始終が誇張と脚色を大いに施された状態で列挙されていた。
「キーファ君」
いつものようにコーヒーを飲みながら、メロは訊ねた。
「何ですか」
「記事のタイトルになっているこの、『美女』、というのは……」
彼がキーファの方を向くと、彼女は満足げな笑みを無言のままメロに見せた。
メロは気の抜けた表情をして無造作な自分の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。
「ところでキーファ君。侵入者がやってくるより以前、何か普段と変わったことはなかったかい?」
彼はパンを牛乳に浸した。
「変わったこと?うーん……」
特に思い当たりませんね、と口から出かかったキーファの脳裏に、ある出来事がフラッシュバックした。
「そういえばあの日――」
事件が起きる二日前。
翌日から地獄のような猛暑がやってくることを知らないキーファは、このところずっと続いている雨にうんざりしていた。窓の外では、庭に植わっている木が風に揺れ、地面にはいたるところに水たまりが出来ている。彼女しかいない研究所の中は静かで、雨と時計の針が進む音だけが聞こえていた。
メロはその日、珍しくレッドウォールへ訪問していた。キーファは所内での留守番を選び、研究書物を読み漁っていた。
読書を中断し、ふと顔を上げるキーファ。窓には水滴が貼りついている。
ジリリリリ……
電話が鳴った。キーファは椅子から立ち上がり、受話器のそばへ近寄る。
「もしもし、メロニック昆虫研究所です」
彼女は言いなれた文句を述べる。が、電話越しの相手は何も言わない。しばらく間が開いて、いたずら電話と判断したキーファが受話器を置こうかと逡巡した時、
「にげて」
「え?」
電話の向こうから、少年のような声が聞こえた。
「そこからにげて」
「どういうこと?あなたはだれ?」
問いかけの答えを待つ間もなく、電話は切れた。
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