第20話 訪問者

「あっっつ……」

 キーファは椅子にもたれてうなだれていた。額を汗がつたう。

 壁にかかった温度計を見る。赤い目盛りは二十九と三十の間を行ったり来たりしていた。

「……なーんにもやる気起きない」

 天井の木目を視線でなぞりながら彼女は呟く。もうすっかり夏だった。

 先週まで雨が続き、水を多分に含んでいたメロニック研究所の庭先も、ここ二日間の容赦ない日照りによりすっかり乾いていた。花壇の植物たちも、日の光を浴びて調子よさそうにピンと背筋を伸ばしている。

 一方。朝やってきて花壇に水やりをして以降、キーファは溶けてしまったアイスクリームのように、大部屋でずっと座ったままだった。

 全くの無気力である。

「博士、水ほしいです……」

 彼女は家の中に自分しかいなかったことを、そう呟いてから思いだした。朝、彼女が来ると大部屋のテーブルの上に書置きが置いてあり、


 ――ちょっと気になることがあるので、ホワイトランまで調査に行ってきます。


 それだけ書かれていた。彼女は仕方なく、自分の研究を進めようと準備をしたところまではよかったのだが……。

 日が昇り、気温がだんだん上がっていくと、とても机に向かうどころではなくなった。家じゅうの窓を開け放っても、今日は風が全く吹いていないのでちっとも涼しくならない。むしろ、家の中を歩き回ったせいで、体温が余計に上がってしまった。

 彼女が着ているノースリーブで薄手のニットは汗でしっとり湿っていた。短く活動的な印象のパンツを履いてきても、暑さからは逃れられない。髪はうしろで一つに束ねていた。そのままにしておくよりマシだった。

 論文を書くための原稿用紙で首や顔まわりを扇いでいると、


 ガラガラガラ……


 不意に玄関の呼び出しの鈴が鳴った。

 「こんなばかみたいに暑い日に来客かよ」、と思わないでもなかったが、居留守を決め込むなんて、メロを裏切るようなことは絶対にしたくなかったので、キーファは溶けきった体をなんとか持ち上げ、ふらふらと玄関に向かった。

 扉を開けると、誰かが立っていた。背格好からみておそらく男だが、断言はできなかった。

「……えーと」

 無言のままの訪問者。キーファはどう対応したものか、と戸惑っていた。

 訪問者は顔をフードですっぽりと覆い隠していた。さらにコート――とは呼べそうもない、縫い目の荒い大きな布で首から下をすっかり包み込んでいた。今までも時折、おかしな風貌の依頼人はいたが、この猛暑日に全身を覆ってしまう格好をするような変人は、さすがにこれがはじめてだった。

「ここは、メロニック昆虫研究所。私はキーファです。あなたは……?」

 キーファが不安な表情で訪問者に問いかける。彼は黙ったまま動かなかったが、急に室内に入りこみ、キーファを押しのけてずんずん歩いていった。

「ちょ……ちょっと!何してるんですか」

 訪問者――いや、侵入者は大部屋に入り、机の上や本棚を手当たり次第に引っ掻き回し始めた。

「ちょっとあなた――警察呼びますよ!」

 キーファが大声で威嚇する。すると侵入者はぴたりと動きを止め、ぼそぼそと呟いた。

「……はどこだ」

「は?」

「アンダーソンの論文はどこだ」

「あなた何者?博士の論文なんか盗んで何になるのよ」

 侵入者は再び黙り込んだ。無言の圧力をキーファに押し付けている。

「……」

 キーファは警戒した顔つきのまま、本棚のとなりのキャビネットの引き出しを開け、中を探りだした。がさごそとしばらく中身をひっくり返していたが、

「おい、早くしろ。でたらめに探してるんなら――」

 声を荒げる侵入者へ、キーファが振り返る。突き出した手にはリボルバーが握られていた。

「警察が来るまでおとなしくすることね」

 侵入者が後ずさる。キーファは彼の方を見たまま受話器を取った。

「もしもし、警察ですか。こちらメロニック研究所です。今、所内に不審者が――」

 突然、侵入者がキーファとの間合いを詰めてきた。キーファは咄嗟に銃を構え直し、侵入者に照準をあわせたが、彼はキーファの手から銃をはたき落とし、彼女を後ろへ突き飛ばした。

「いッ……!」

 倒れこむキーファ。銃を拾い上げた侵入者は彼女に近づき、リボルバーを握りなおして――、

 

 銃の持ち手でキーファの頭を殴った。

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