第18話 お帰りなさい、メロニック博士

「ところでキーファ君。君はなぜ、僕を訪ねてきたんだい?」

 研究室に向かう途中の廊下で、メロニックは不意にそんなことを訊ねた。キーファは――当然そんなことはないのだが、なんだかばつの悪い、責められているような気持ちになった。彼女は自分の罪を釈明するかのごとく語り出した。

「わ、私はグレッグ教授の研究室に入ったんです。……昔から、このレッドウォール大学で、昆虫のことを学びたいって、私、ずっと思ってたんです。他のことは後回しにしてきました。ここに入るために」

 彼女は一度言葉を切り、

「グレッグ教授の講義が学問的に大切な内容というのは判ってます。根拠はないですけど、それは必要な知識なんだ、って。

 ……でも、退屈なんです。退屈だなんてそんなこと、思いたくありません。今まで、ここで勉強したくて頑張ってきたのに、いざ来てみたらそれはちっとも私を満足させてくれない。最近腑抜けた顔してるって、言われました――きっと私、楽しくないんです」

 キーファの目に、涙が浮かんでいた。

「……すみません。私、最高にわがままなこと言ってます」

 彼女の前を歩くメロニックは、黙ったまま話を聞いていた。

 口をつぐんでしまったキーファに、

「もしかして君は、どこの馬の骨ともわからないグレッグ教授ではなく、長年この由緒あるレッドフォール大学で研究をしていたソル教授が研究室にいてくれたなら……そう思っているのかい?」

「……はい」

「それが叶わない今、ソル教授に認められていた僕の授業なら、グレッグより満足できるんじゃないか、と」

「……はぃ」

 彼女の声はどんどん小さくなっていった。

「正直なことを言うとね、キーファ君。僕よりグレッグ教授の方がよっぽど、ソル教授の系譜を正統に引き継いだ研究をしているんだ」

「……え?」

 キーファは潤んだ眼をメロニックの背中に向けた。

「――というよりも」

 彼が振り返る。

「僕は最初から、あの研究室を引き継ぐつもりなんてなかったんだよ」



 病院に血清を納めた次の日。キーファは研究所へ向かった。

 目が覚めた時間が遅かったので、研究所に到着した頃には、太陽はすっかり高いところまで昇っていた。

 二輪車を庭先に止め、花壇の植物をチェックする。ここ数日まともに世話をしていなかったので、いくつかの花がしおれていた。

 玄関へ入り、じょうろを探す。靴箱の隣に積もったガラクタの山の中で、かつてじょうろを見たような記憶が彼女にあった。

 サンダルやら折れた傘やら用途不明のロープやら、いろいろとひっくり返してみたものの、肝心のじょうろは見つからない。

 キーファがため息をつく。ふと、コート掛けに引っかかっていた麦わら帽子が目に入った。

 メロが暑い時によくかぶっている大きめの麦わら帽。顔の小ささに不釣り合いなこれを頭に載せて、強い日差しの中を闊歩する彼の姿が思い出される。彼がこれをかぶっているのを初めて見たのはいつだったか。大量発生したカメムシ駆除の依頼を受けた時?いや、もっと前の気もする――

 

 ジリリリリリ……

 大部屋から聞こえてきた音。間違いなく電話の呼び出し音だ。

 キーファは手に持っていた傘とロープを投げ捨て大部屋へ走り、受話器へ駆け寄った。

「メロニック昆虫研究所です」

 息を切らせて答える。

 電話をかけてきたのは、ホワイトラン市営病院だった。



「キーファ君は恐竜を見たことがあるかい?」

 例の殺風景な部屋の中で、メロニックは突然大きな声を出した。

 キーファは少し困惑した、怪しむような表情で、

「……いや、ありませんけど」

「そう!そんなもの、誰も見たことがない。それなのに、僕たちは恐竜の姿かたちを、なぜか知っている。なぜ?彼らの化石を発掘し、科学的検証をして、生前の姿を復元したからだ」

「ところで」とメロニック。

「キーファ君は、ラウタロトプスを知っているよね」

「ええ、ホワイトランの郊外で出土した恐竜です」

「ラウタロトプスが発見されたのが約五十年前。ラウタロトプスの当時の復元図を見たことは?」

 そう問いかけられて、キーファは小さい頃に行った博物館を思い出していた。恐竜展示場に二体のラウタロトプスが並んでいたが、両者は全く違う姿をしていたのをよくおぼえている。

「現在考えられているラウタロトプスの姿は、全身に羽毛が生えた鳥のようなものだ。一方、発掘当時の復元像は、体の表面がつるっとした、脚が生えた魚のような姿だった。

 今の子どもたちが五十年前に考えられていたラウタロトプスの姿を見たら、馬鹿にして笑うかもしれない。しかし、当然だが、五十年前の科学者たちは、魚もどきのラウタロトプスの姿を大真面目な気持ちで再現したんだ。だが、それは魚になった。彼らと今の僕たちと、一体何が違う?」

 メロニックは何もない研究室の中を歩き回っていた。キーファは黙って立っていた。

「いいかい、キーファ君。グレッグ教授にしろ、ソル教授にしろ、彼らは好き好んでああいう研究をやってるんだ。部屋で椅子に座って本を読み、それを黒板に写し、考察を掘り下げていき、持論をだれかとぶつけ合う。彼らは、それが好きなんだ。

 僕?僕は何が好きなのかって?――虫だよ。それも、まだ誰も見たことのない虫だ。それを僕は見つけたい。議論はほかのだれかが勝手にやってくれればいい。それは僕の仕事じゃない。

 でも、彼らが繰り広げるその議論は、既に周知の発見・情報をもとに、積み重ねた考察によって行われるんだ。もし、基となる情報が間違っていたら?もしくは正しい結論を導き出すための情報が欠けていたら?その時は、また、魚じみた恐竜の復元図が生まれてしまうだろう。だれかが正しい情報を、不足している未知の情報を見つけ出さなければならない。誰が?――それが僕だ。キーファ君、僕はそれを好き好む人間なんだ。だから、三か月も研究室を放り出して、虫を追いかけ回してた。土を掘り返して、木に樹液を塗ったくって、肌を真っ赤に焼いて。

 僕は何かと目立つ――若いからね。大学教授としては異例の若さだ。だから、よく言われるよ。『飛ばされたんだね、若いから』と。確かに。間違いない。僕は飛ばされた。由緒ある研究室から追い出された――だからなんだ?何もない部屋に押し込まれた上に研究のための予算もろくにつけてもらえない。それがどうした?

 ソル教授は――先生は、研究室を引き継いでくれと僕に言った。でも、僕は断った。彼にはたくさんの恩義がある。それらの恩義を、先生を、全てを裏切るに等しい行為だ。先生の寂しそうな表情を覚えている。僕は、恩を仇で返す道を選んだのかもしれない。でも、後悔はない。僕のやりたいことと、先生が僕に望んだことが違っただけ。僕は、自分がやりたいことを選んだ、ただそれだけのことだ。酷い奴だと思うかい?心のない人間だと思うかい?僕はそれでもかまわないよ。

 僕は僕のために研究する。研究することそれ自体が目的だ。僕の研究成果がたまたまだれかの何かの役に立つことがあるかもしれないが、それは偶然そうなっただけ。たまたまだ。僕は僕のために研究を続けるし、だれかのために役立つ研究を、なんて考える必要もないと思っている。僕は、研究がしたい。僕にはやりたいことがある。

 キーファ君。君はグレッグの講義に満足できなくて、僕を訊ねたと言ったけれど、そのくせ入学してからずっと彼の研究室にちゃんと通っている。

 君はもう気づいている。というか最初から気づいていたはずだ。グレッグの研究室では、自分が満足できないと。彼とは馬が合わないと。なのになぜ三か月もそこにいた?僕が研究室を留守にしていたせいで、しばらく会えなかったから?

 違うよ、キーファ君。それは、君自身がグレッグの研究所から出ようと思わなかったからだ。現状を自分で変えるつもりがなかったからだ。だから、僕をんだ。自分ではないだれかが、今の状況を変えてくれると思って、動かなかった。

 今の君は、何かしているようで、実際は何もしていないんだ。君は、自分で選んだ研究室に通い、自分の好きな席に座り、自ら講義を受けているなだけだ。それは、本当に君が望んで選んだ大学生活なのかい?自分でつかみ取った毎日なのかい?――現に、君は後悔している。

 考え方が合わない人、異なる人と、無理に自分を擦り合わせる必要なんてないはずだ。僕らは一人一人が別々の生き物で、全く違う人生を送ってきたのに、みんなと仲良くやれなんて、少し考えれば出来ない話だとわかる。多くの人はそれを認めないし、『仲良くしよう』と言いながら自分が理解できないものを排除しようとする。それが人間だ。そういう生き物だ。だから、嫌われるのがこわい。人間が本能的に感じる恐怖だ。君だって、群れから離れるのはこわいだろう?でも、そうやって周りの顔色ばかり窺っていたら、本当の君はどこに行ってしまうんだ?

 だって、僕らは何のために生きているんだ?家族のため?友人のため?世界中の名前も知らない人々のため?そうじゃないだろう。少なくとも、僕は違う。僕は、自分のために生きたい。誰だって一度きりの人生だ。多少のわがままくらい、きっと許されるよ」

 メロニックは一気にまくし立てた。どうやら、口の減らない男らしい。乱れた息を整え落ち着いた彼はキーファの眼を正面から見つめ直す。

「さて、キーファ君。改めて訊きたい。君は一体、に何をしに来たんだい?」



 『キーファ・グリーンウッド』

 ボロボロの図鑑に書かれた、まだペン先がおぼつかない私の字。

 小さい頃、家の中で絵を描いているより、外へ遊びに行くのが好きだった私。どちらかといえば、ひとりで自由に走りまわるのが好きだった女の子。

 父が自転車を修理するところを隣でよく見てた。仕事が終わると、近くの店へ連れて行ってくれて、好きなお菓子を買ってくれたからだ。私は父のことが大好きだった。

 もうすぐ四歳の年が終わりを迎える頃、その日もいつものように、父は仕事を終えて私を外に連れて行ってくれた。そして、たまたま通りがかった本屋で、四歳の私の目にそれは飛び込んできた。

 全身緑色の、手が大きな鎌になった、細長い体つきの生き物。私は釘付けになった。父が私の手を引っぱって連れていこうとしても、その生き物の前から頑なに動かなかった。どうしてあそこまでそれを気に入ったのか、そんなことはもうわからない。

 ――ただ、あの日の私は珍しく頑固で、お父さんに「これほしい」と駄々をこねた。初めは「む、むしがいいのか?」、だんだん顔が険しくなり「今日はだめだ」と、お父さんは私をなだめようとしていたけど、実のところ、かなり驚いていたんだと思う。普段おとなしい娘が突然「むしのほんがほしい」なんて街中で喚くんだから。

 父は娘に「むし」の本を買い与えることに少々ためらっていたけど、「いいじゃない」と母の後押しもあり、最終的に五歳の誕生日プレゼントとして、昆虫図鑑を買ってくれた。

 私はそれから、自分の部屋で『こんちゅうずかん』を読んだ。

 図鑑にのっている虫を見て、

 父に虫網を作ってくれとまた駄々をこねて、街の外の森を走りまわった。

 今度は、図鑑にのってない虫が見たくなった。

 図鑑に書いてないことまで知りたくなった。

 一日中、虫を追いかけまわして、

 『こんちゅうずかん』に書いてない虫の秘密をどんどん書きこんだ。

 『こんちゅうずかん』は私の下手な字と絵でいっぱいになって、

 そうして私は、自分の昆虫図鑑を作りたくなってしまったのだ。


 父に訊いた。

 どうしたら昆虫図鑑を作れるかな。

 父は、

 とりあえず、大学に行ったらどうだ。

 私は勉強を始めた。

 もともと一人でいるのが好きだったから、

 友達と遊べないことも、そんなに苦ではなかった。

 何より、図鑑を作るためだ。つらいと思った記憶はほとんどない。

 そうしてだんだん月日が経って、

 私は人の目を気にし出した。

 私は、悪目立ちしていた。

 馬鹿みたいに、一つの目標に突き進んでいく私に、

 キーファ、何で虫なの?

 女なんだからさ、もっとほかにあるじゃん

 もったいないよ

 可愛いのに……

 変なの

 無責任な言葉の数々。

 そうしていつの間にか、負い目を感じるようになって、

 私は、

 四歳の私をうらんだ

 なんで虫なの?

 なんで虫だったの?

 もっと、お菓子とか、服とか、童話とか、なんでもよかったのに、

 どうしてそういうものを選ばなかったの?


 図鑑を作りたい

 そんな思いは年を重ねるにつれて忘れていった

 そして

 大学に行く、という目標だけが残った。



 君が、僕の話にただただ夢中で聞き入っているようにも見えたのだ

 やっぱりあんたはなのね

 キーファ君。改めて訊きたい。君は一体、に何をしに来たんだい?

 

 何かがぐつぐつと沸き立つような感情。

 心の奥底で眠っていた記憶。


 ――私が好きなのは、何?

 ――私がしたかったことは、何?


 あの時の私はわからなかったけど、博士は私の心の底に沈んでいた大事なものを拾い上げてくれたんだ


 それがうれしくて、だから私はあの時、博士の前で、ぼろぼろ泣いてしまったんだ。



 薬品の匂いがそこかしこから漂ってくる廊下を疾走し、キーファは病室のドアを加減なく開けた。

 窓から差し込む光につつまれたメロを、医者や看護師たちが囲んでいた。

 メロは上半身だけ起こし、背中をベッドの柵にあずけて医師と何やら真面目な顔で話していたが、入口で立ち止まっているキーファに気づくと、一転してやわらかい表情になった。

「やあ、キーファ君、久しぶり。久しぶりといっても、僕の記憶は君とベン巡査とで夜の森を探検したところで途切れているから、たいして久しぶりといった感じじゃないんだけどね。ところでキーファ君、となりの彼から聞いたんだけど、僕は十三日もの間、眠り続けていたらしいね!びっくりだ。しかも、あの忌々しい肉蜂に刺された間抜けな僕を深い巣穴から救い出してくれたのも、眠ったままの僕の目を覚ます薬を作ってくれたのも君なんだって?実に驚いた。いつの間に、君がそんなに成長していたなんて。いつも憎まれ口ばかり言い合っていたから気がつかなかったよ。まったく、君は僕の命の恩人すぎて、どんなに感謝してもしても返しきれないだろうね。ああ、そうだキーファ君。締切りをとうに過ぎているあの論文のことなんだけど――」

 昏睡状態のブランクを感じさせない饒舌で一気にまくし立てたメロは、そこではじめてキーファをまっすぐ見た。そして、ドアの前でぼろぼろと涙をこぼしている彼女にようやく気づいた。

「……君が泣いている姿を見るのはこれで二回目かな。あの時も、そうやって立ったまま涙をこぼしていたね」

 もしかしてキーファ君、君は泣き虫なんじゃないか――彼がそう言い終わらぬうちにキーファはベッドに駆け寄り、メロを思いきり抱きしめた。

 抱擁する腕に力が入り過ぎて、寝たきりで体中の筋肉が落ちていたメロは相当痛かったのだが、優しい笑顔を浮かべていた。

「……もう大丈夫だよ、ありがとう」

 むせび泣くキーファに、そう呟いた。


「――お帰りなさい、博士」

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