第17話 お久しぶりです、メロニック博士(後)
メロニックの傍らにはバケツやスコップが置いてあった。彼は黄色いじょうろを傾けて花の根元に水を注いだ。土の色が濃くなるまで入念に。
「あなたが花壇の手入れを?」
「一部ね。珍しい花にはそれ相応の虫が寄ってくるから」
丁寧に水をやり終えた彼は一旦じょうろを置き、メモ帳を取り出して何か書き始めた。根や茎の状態をしきりに観察しているので、おそらく花の成長記録をつけているのだろう、とキーファは予想した。
「あれから何度か教授の部屋をおたずねしたのですが、結局今日まで一度も会うことが出来ませんでした」
彼女がそう言うとメロニックは振り向き、ニコニコと笑みを浮かべて、
「なるほど、君はもしかして、僕の講義を受けたかったのかい?」
彼はうれしそうに、懐から小さな瓶を取り出した。例によって、中には虹色に発光する液体が入っている。
メロニックは瓶を片手に、「これはね……」と野外授業を始めようとしたが、
「いえ、そういうのは間に合ってます」
キーファはすばやく距離をとり、彼の言葉に被せて言った。
「そうかい?」
メロニックはいささか残念そうな表情で瓶を一瞥し、胸ポケットへしまい込んだ。
「それで一体、教授はいままでどこにいたんですか?」
キーファは話の続きを促した。
「四月の中頃、僕の研究室に入りたい新入生は一人もいなかったと大学側から報告を受けてね。それなら、と僕は昆虫の生態調査に出かけたんだ。三か月くらい研究室を留守にして、つい先日、ここに戻ってきた」
メロニックは麦わら帽子を脱いだ。顔が浅黒く日焼けしていて、それは彼が長い間、研究対象を求めて外を走りまわっていたことを如実に物語っていた。
「フィールドワークが好きなんですか」
キーファは訊ねると、
「いいや」
メロニックはバケツの中にじょうろやスコップをしまい、周囲をすっかり片づけた。彼はバケツの持ち手を握り、立ち上がった。
「本当は部屋の中でコーヒーを飲んでいたい。しかし残念なことに、僕の
キーファの家は玄関へ入るとそのすぐ左手に、二階への階段がつづいている。正面にはリビングへの入り口があり、木のビーズを垂らして仕切りにしていた。
「ただいま」
キーファは誰に言うでもなく呟いた。ビーズののれんを頭にのせ、リビングをのぞく。革のソファ。床にクッションが転がっている。が、だれもいない。
キーファはクッションをソファの上に戻した。彼女の母は、この時間に家にいることはない。夜遅くまで役所勤めだ。弟も、出かけているようだ。では父は?
……と、探し出す間もなく、リビングの奥にある書斎からいびきが聞こえてきた。開いたドアの隙間から、一人掛けのイスにもたれて眠る男の姿が見えた。最近少し白髪が目立ってきた短い茶色の髪は、間違いなくキーファの父親のものだ。
聞きなれたいびきの調べに少し安心した彼女はリビングへ戻り、ソファに身を任せてみた。肌に触れる革の部分がひんやりと冷たい。午後の家の中は静かで、時計が時を刻む音だけが、規則的に響いている。
しかし、とりあえず座ってみたものの、なんだか落ち着かない。
彼女はソファから立ち上がり、リビングを出て二階への階段を昇っていった。
二階には三つ部屋がある。彼女は一番手前の部屋に入った。
そこはキーファの部屋。入口のドアを開けると正面奥に窓があり、右側の壁際にベッドが置いてある。
キーファは窓を開けた。馬の足が地面を蹴る音、回転する車輪、通行人の話し声が一気に飛び込んでくる。
後ろを振り返る。ベッドの向こうには彼女の勉強机。誰かの机と違い、きれいに整頓されている。
キーファはベッドに座った。ふかふか――とは言い難いマットレスはほとんど弾まない。手をついて上体を支えると、毛布の手触りが心地いい。
彼女が今見ている反対側の壁の前には、棚とタンスが並んでいる。棚には、彼女の幼い頃や家族との写真、友達からもらった手紙などが飾られている。
キーファは立ち上がって、棚に立てかけられているものを手に取った。虫網だ。
細長い棒の先端に網を取り付けた、とてもシンプルな品。父親の手作りだ。手入れが行き届いた状態だが、よく見ると何度も修復を繰りかえした跡がある。
キーファにとって、この虫網は思い出深いものであり――と同時に実はそうでもなかったりする。キーファは何本も何本も網を折り、壊し、紛失した。今彼女が手にしているものが何代目の網なのか、定かではない。
キーファはしばらく虫網を強く握ったり、振ったりして感触を確かめていた。ここ最近は、虫を取りに森や山へ出かける機会もない。大学に入ってからは、ずっと。
網を手に持つと、色々な記憶が蘇りそうだった。
彼女は網を元の場所に戻そうとして、ふと棚の一番下の段に目がいった。
比較的新しい品々に混じって、一冊の小さくてぶ厚い本が、奥のほうに押しこまれている。彼女は手を伸ばし、棚からそれを引き抜いた。
ボロボロの本だった。題名は『こんちゅうずかん』。表紙に大きなカマキリが印刷された子ども向けの図鑑だ。
キーファは本をじっと見た。手垢だらけのカバー、日焼けした中身。ページをぱらぱらめくると、つたない字で大量の書きこみがあった。ところどころに、下手なスケッチも散見される。
全体を流し読みして本を閉じると、そのまま自然と裏表紙が目に入った。隅にある長方形の枠の中に、それを悠然とはみ出す大きさの、先ほども目にしたつたない綴りで、名前が書いてあった。
『きーふぁ・ぐりーんうっど』
幼いキーファが書いた、彼女の名前。
釘付けになったキーファの視線はそのまま本も壁も通り抜け、どこか別の世界まで飛んで行ってしまいそうだった。
そう、それは彼女の、五歳の誕生日が近づいていた頃――。
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