第16話 お久しぶりです、メロニック博士(前)
キーファは目を開けた。
窓の外から暖かい春の日差しが差し込んで、光の筋が彼女の顔まで伸びている。
頬に手を当ててみる。じんわりと温かい。
頭だけを逆向きに回転させ、壁に架かった時計を見る。短針は十の位置を指していた。
どうやら、ほぼ丸一日を寝て過ごしてしまったらしい。彼女はゆっくりと立ち上がり、目一杯伸びをした。
なんだか懐かしい夢を見ていた気がした。しかし、どんな夢だったかまでは、もうまったく思い出せない。
キーファは玄関先に向かい、配達されてあったぬるい牛乳を持ってきた。次にキッチンから固いパンを皿に乗せてテーブルに運んだ。
椅子に座る。床の上で寝ていたからか、体の節々が痛い。
まず、パンをそのままかじってみる。
「……固った」
想像以上にパンは固かった。彼女は仕方なさそうにかじった痕のついたパンの先端をコップの中に浸す。
視界の端で、試験管やスポイトなどが散らかったままだった。キーファはふやけたパンを歯ですりつぶしながら、正面の空間をぼーっとながめていた。
これを食べ終わったら、とりあえずシャワーを浴びよう。実験の続きはそれからだ。彼女はそんなことを考えながら、牛乳を勢いよく飲み干した。
「失礼します」
キーファは白い扉をノックした。中から「どうぞ」とこもった声が聞こえる。ドアを開けると、殺風景な部屋の真ん中で、大きなモップを手に持った男がこちらを向いていた。
「おや、ここの生徒さんかな?」
男はどうやら大学の清掃員らしく、薄緑のつなぎを着て首にタオルを巻いていた。
「いえ、そうではないんですが。ちょっと用があって――アンダーソン教授を見ませんでしたか?」
キーファが訊ねると男は人懐っこい笑みを浮かべて、
「ああ、メロニック先生かい。さっきまでここにいたけど、たしか花壇のほうを見に行くと言って出ていったよ。好きだよねえ、あの人も」
それまで真一文字にかたく結んでいたキーファの口角が、きゅっと上がった。
「わかりました、ありがとうございます」
「いえいえ、先生によろしくね」
キーファは丁寧な言葉で感謝を述べたが、声が若干うわずっていた。開いた扉をそのままに、彼女は廊下を走り出した。花壇がある植物園は、大学の裏側に位置している。キーファもたびたびそこに通っていたので、場所はばっちりわかっていた。
彼女は階段をすばやく降りた。息を切らせて、頬を少し蒸気させて。
実験を再開したキーファは四日後、ついに肉蜂の毒に有効な成分の調合に成功した。彼女はその足でホワイトランへ向かい、メロが入院する市営病院を訪れた。
彼女はメロの担当医に血清を渡し、調合過程について二、三点専門的な会話をした。
あれから一週間以上経過していたが、メロは意識を失ったままだと担当医の報告を受けた。
「お顔を見て行かれますか?」
担当医にそう聞かれたが、キーファは断った。病床に横たわる彼の姿など、彼女は見たくなかったし、見れなかった。
薬品の匂いがそこかしこから漂ってくる廊下をぬけて、キーファは病院を後にした。
担当医に、血清はすぐには使用されず、病院側で成分の検証を改めて行った後で初めて投薬されると彼女は聞かされた。
依然、予断を許さない状況であることに変わりはなかったが、それでもキーファは、自分の肩の荷が少し降りたようにも感じていた。手は尽くした。あとは、投薬の結果を待つだけ。
彼女は数日ぶりにやって来たホワイトランの街で、しばらくうろうろした。汽車の駅が街の中央に鎮座し、建物の間を走る大きな道を馬車が行き交う街、ホワイトラン。古くからある建築は白を基調とした建材で組まれていて、それがそのまま街の名前になった。
野菜、果物、パンが並べられた露店の賑わう一帯を抜け、キーファは二番通りに出た。石畳の上を歩く人々の波に乗ってしばらく行くと、なじみのある看板が目についた。
『グリーンウッド車両工務店』
キーファは縦に長い二階建ての店の裏手に回り、扉に鍵を挿した。しかし、鍵を回してみても手ごたえがない。
「お父さん、また開けっ放し?もう……」
そう呟いて彼女は家の中に消えた。
大学の正面入り口のちょうど反対側にある扉から出ると、裏庭が待っている。左手には植物園の入り口。室内植物園には、植物学研究室の研究対象である草木や花が大量に植えられていて、窓の多い部屋の中は小さなジャングルのようだった。
キーファは伸びた枝が重なってできた自然のアーチや垂れ下がったツタをくぐりぬけて室内を歩き回ったが、誰もいない。彼女は再び外に出た。
花壇は植物園の外壁沿いに横に広がっていた。夏を迎えた花壇は、さまざまな種類の花が咲いて七色に彩られていた。
キーファからみて奥の方に、花壇の前で屈みこむ一人の人影があった。そっと近づいていくと、それがあの少年だとわかった。彼は大きな麦わら帽子をかぶっていて、サイズのゆるいシャツの袖を捲り、オーバーオールを履いていた。一見、祖母の手入れする花壇で、お手伝いに励む子どもにしか見えないが、キーファは彼がただの子どもではないことを、よく知っていた。
彼の周囲が影に覆われたので、少年は背後にいる何者かの存在に気づき、くるりと後ろを向いた。
麦わら帽子の下から覗く、深い緑色の瞳。自分のうしろに立っていた人物の顔を確認したメロニックは、日焼けした顔にうっすら笑みを浮かべた。
「たしか君は、一度僕の研究室に来たよね。来たというより、迷い込んだ」
「キーファ・グリーンウッドです。お久しぶりです、アンダーソン教授」
キーファは自然と姿勢を正していた。かしこまる彼女を見て、メロニックは優しく笑った。
「メロニックでいいよ、キーファ君」
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