第14話 わすれもの

 目の前に座った気品ある青年の思いがけない返答に、キーファは動揺を隠せなかった。

「あ、会いたかったってどういうこと……?」

 ジョッシュは店内にごった返す客の隙間を縫うように飛びまわるウエイターを手で呼び止め、「ハンバーグカレー一人前」と低い声で告げた。そしてその手を流れるように胸元へ運び、ポケットからペンを一本取り出して彼とキーファのちょうど中央に置いた。

「君にこれを返したかったのだ」

 そう言って彼はどこからか文庫本を取り出し、挟んだしおりをテーブルに置いた。キーファは差し出されたペンに目を凝らして「あっ」と短く声を上げた。

 ペンを手に取りじっと眺める。側面に彼女の名前が掘られていた。

「これ、私のペンだ。なくしたと思ってたのに」

 「あ、私はサンドイッチで」と、キーファは横でメモを片手にじっと待っているウエイターに早口で注文を告げた。

「これ、どこで拾ったんですか?」

 キーファは手の中でペンを遊ばせながらジョッシュの顔を見た。彼は手元の本に視線を固定したまま、

「昆虫学研究室だ」

 と抑揚のない声で答えた。

「研究室……?」

 キーファはあごを手にのせた。研究室で見つけた?彼が?

 彼女はほぼ毎日あの忌々しい部屋に通い詰めているが、グレッグ教授を激怒させたあの日以降、彼をあそこで見たことは一度もない。

「そのとおり」

 ジョッシュはページをめくって、

「僕がそのペンを拾ったのは、入学してから間もないあの時だ。寝ぼけた君が手から落としたそれを、今まで保管しておいたのだ」

 なるほど、とキーファは一瞬納得しかけたが、

「いやいや、そうじゃないでしょ。それなら、あの時すぐ私に返してくれたらよかったじゃない」

 さらにページをめくろうといていたジョッシュの指が硬直し、そのまま数秒間、時間が止まったかのように固まってしまった。

「……部屋を出ていった後、ペンを返し損ねたことに気がついた。しかし、あの状態で君のところに戻ることは不可能だった。だから、『まぁいいか』と」

「『まぁいいか』って、もうその時点で諦めてるじゃないの!授業が終わるまで、外で待っていたらいいでしょ」

 テーブルに、ばん、と両手をついてキーファは身を乗り出した。しかしジョッシュは澄ました顔で、

「あの教授のつまらない話を聞く時間すら僕には惜しいんだ。待つだなんて、そんな選択肢は存在しない」

 何?こいつ、と喉まで出かかっていた台詞をキーファはぐっと飲みこんだ。身を引いて椅子に座り直す。

「それにしても――」

 ジョッシュはページの間にしおりを挟んで本を閉じると、キーファの方に視線を上げ、彼女の眼をじっと見つめた。

「君、よく僕のことを覚えていたな。顔も名前も、一度会っただけなのに」

「入学早々教授に喧嘩売るようなやつ、嫌でも覚えてて当然でしょ」

 ほう、と口元に指先を寄せるジョッシュ。

「あなたこそ、よく私の顔を覚えていたわね。あの部屋にはたくさんの新入生がいたのに」

「入学早々授業に遅刻してきた上に教授の見てる前で居眠りをかますような人間、記憶に残っても不思議はないだろう」

 キーファは口をへの字にしてそっぽを向いた。今度は彼女が窓の外をひたすら凝視する番になった。

「そもそも君はなぜ――」

 ジョッシュは何か言おうとしたが、それを制すように彼の目の前に大きな皿が現れた。

「お待たせしました、ハンバーグカレーです」

 ウエイターは慣れた手つきで皿と食器と二人分の水をテーブルに並べ、「ごゆっくり」と言い残し、そのまま急ぎ足で人の海へと潜っていった。

 真っ白な皿の上に、肉汁が滴るハンバーグとつやのある白米、そこにスパイスが香るとろとろのカレールーがかかっていた。ジョッシュは食器を手に取った。

「……そもそも君はなぜ、あの授業に遅れてきたんだ」

 ナイフとフォークを器用に操り、ハンバーグを縦四列に切り分け、さらにそれを半分に割り、ルーをからめて口に入れた。

「自分の持ち物に名前を入れるような性格の人間が、春先一発目の重要な授業に遅刻してきた。どうも違和感がある」

 熱々の肉を、冷静な表情のまま味わうジョッシュ。窓ガラスを睨みつけたままのキーファは、いつになくか細い声で呟いた。

「……もう一つの昆虫研究室に行ったの」

 ハンバーグを口に運ぶ手を、ジョッシュは再び止めた。

「狭くて殺風景な部屋の、小さな教授のところにね」



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