第10話 少年教授

「きみが、教授……?」

 キーファはしばらく温めていた質問をメロニック少年にぶつけると、彼はイスから立ち上がり、

「そうだ」

 キーファは女性として比較的背が高い方ではある。メロニックは彼女より頭一つか二つ分小さかった。

、あなたいくつなの?」

「学問を追求する事と年齢が何か関係あるのかい?少なくとも、僕は君より四年長くここにいるんだ」

 キーファの額のしわがさらに深くなる。四年前から大学にいただって?じゃあ、この少年は十歳やそこらで、難関と謳われるレッドウォールの試験に受かったということか。

 ありえない。それが彼女の出した結論だった。

「私はこのレッドウォール大学の伝統ある生物学研究に憧れてやってきたの。百年以上の歴史をもつ昆虫学研究室に本棚が一つしか置いてないなんて、考えられないわ」

 キーファは目の前の少年をじっと見つめた。少年はしばらくそのまま固まっていたが、「あー……」と呟いて、

「もしかして君が言う『昆虫研究室』というのは、グレッグ教授のいる方じゃないかい」



 キーファは廊下を小走りで急いだ。

 彼女は、まさかこの大学に「昆虫研究室」が存在するなんて、思ってもいなかったのだ。おかげで、変わり者の少年との会話に時間をとられてしまった。

 時計を確認する。授業の始業時刻はとっくに過ぎていた。研究室紹介のプログラムも、既に中盤へ差し掛かった頃だろう。

「もう……何だったのよあの子は……」

 息を切らせて足を細かく回転させるキーファが小さく呟いた。



 キーファがもう一つの昆虫研究室に着いた時、グレッグ教授は新入生を前に模擬授業を行っていた。半端なタイミングで部屋の扉を開けたキーファの方を何人かの生徒が振り返ったが、誰もさして気にする様子もなく授業は進んだ。

 グレッグは中年の小太りな男で、目は小さく、額の生え際は著しく後退していた。お似合いだがやや滑稽にもみえる黄色の蝶ネクタイを首に結んで、自信ありげに講釈を垂れていた。

 彼は暑い地方に生息するムラサキゼミの生態について語り、最初はキーファも熱心に耳をかたむけていたのだが、発見者は誰だとか、どこの研究が先行しているのだとか、破裂する性質が軍事利用にも注目されている、など話題が昆虫本体から離れていくにつれ、頭がぼーっとし、うつらうつらと船を漕きはじめてしまった。

 朦朧とする意識の中、生徒を見回す太った男が「何か質問のある者は」と言ったような気がしたが、それもいまいちよくわからなかった。

 ……。

「質問があります」

 キーファの隣に座っていた男が急に立ち上がり、明快な調子で話し始めた。キーファの眠気は吹き飛んで、彼女は目をこすりながら横の男を観察した。

 背が高く、短く切りそろえられた黒髪は鋭い双眸を際立たせていた。落ち着いた口調は、聞いている者に彼の育ちの良さと知性を感じさせた。

「この大学には昆虫研究室が二つに分かれていますが、それはなぜですか」

 グレッグは黒板によりかかって薄ら笑いを浮かべながら答えた。

「僕と彼とで研究の意向が分かれたから、それだけさ」

「彼、というのはメロニック・アンダーソン教授のことですね」

 男の問いにグレッグは頷いた。

「アンダーソン教授は十一歳の若さでレッドウォール大学へ入学した天才です。以前、レッドウォールの昆虫研究室で教鞭を振るっていたソル教授も、彼のことを高く評価していたと聞きます」

 新入生徒の質問を受けるグレッグの表情が、徐々に険しさを増していった。

「たしかにアンダーソン教授は異例の若さで教職につき、研究室を持つことになった。たった十五歳でな。で?それがなんだというんだね」

「なぜ、優秀な彼が大学の隅の小さな部屋に追いやられ、なぜ去年までこの国の端っこの大学にいたはずのグレッグ教授が、歴史と伝統あるこのレッドウォール昆虫学研究室の教壇に立っているのかと聞いているのです」

 背の高い男の言葉に、さすがに生徒たちがざわつきはじめた。グレッグは耳を真っ赤にして鼻の穴をひくひくさせながら語気を強めた。

「いいか、この僕もかつてソル教授のもとで研究を行った人間の一人だ。こうしてレッドウォールで講義をしているのは、これまでの功績が認められたから、ただそれだけのことだ。……今年の新入生はけしからんな、教師に向かってなんたる態度だ。君、名前はなんだ」

 グレッグが顎で返事を促す。黒髪の男は彼の挑発など、どこ吹く風で答えた。

「ジョッシュ・ケイン。十八歳、ウエストパーク出身」

 その名に、キーファも聞き覚えがあった。レッドウォール大学の入学試験は、その年の合格者の中で最も優秀だと評価された者の名前が公表される。ジョッシュは今年最も優秀な受験者として発表され、名の知れ渡った存在だったのだ。

 ジョッシュは続けた。

「あなたの講義を聞いて、もうこれ以上この研究室に用がないことがはっきりしました。失礼します」

 彼はそう言って、鞄を右手に抱え研究室から出ていった。室内にいる誰もが唖然として、ゆっくりと閉まるドアを見ていた。

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