第9話 三年前
三年前。
十九歳のキーファ・グリーンウッドは晴れてレッドウォール大学の一員となった。聡明な彼女は、かねてより昆虫に対する強い興味を抱いていた。希望する研究室配属のアンケートには『昆虫研究室』とだけ書いて提出した。
「やっぱりあんたは虫なのね」
大学構内三階の廊下を、女が二人並んで歩いていた。一人は金髪が肩まで伸びた、小綺麗な顔立ち。もう一人は、隣の女より少し短い茶色の髪で、形のよい青の瞳をしていた。
「もちろん。アナは?」
金髪の女は妖しい笑みを浮かべた。
「聞いてよキーファ。考古学の教授がね、若くて、品があって、賢そうでかっこいいの!」
目を輝かせるアナを見て、キーファは何も言わなかった。いつものことだ、そう思った。
「研究室の中なら、近くで彼を見れるのよ。ああッ、最高!あたしもう行くわね、キーファ。また後で!」
アナは廊下を疾走し、角を曲がっていった。周りの通行人たちはざわついていたが、彼女を見送ったキーファは何事もなかったかのように、腕時計を確認した。
「もうそろそろ時間ね」
ふう、と一回深呼吸する。彼女は緊張していた。緊張するなんて、キーファにとっては珍しいことだった。大学への入学試験でも大してプレッシャーを感じなかった彼女が、今は心拍数が増し、手にうっすら汗をかいている。レッドウォール大学は生物研究がさかんな場所で、昆虫の領域もその例に漏れない。
歩いているうちに、彼女は廊下の突き当たりに行き当たった。真新しい表札には「昆虫研究室」と記されている。ついに始まる。私の大学生活。キーファは胸の高鳴りを押さえて、扉を三回ノックした。
どうぞ。
扉の向こうから声がした。予想よりずいぶんと高い声だった。高い、というか幼い、そんな印象をうけた。
ドアノブを引いて中をのぞく。そこは思っていたよりずっと小さく、殺風景で、何もない部屋だった。
右側の壁に本棚が一つだけある。教材や資料はそれだけ。部屋の奥に大きな机があり、誰かが座っていた。
少年だった。キーファよりも三、四つくらい若いと思われる男の子。髪は無造作に乱れた黒髪で、眼は深い緑色。白のシャツは少しサイズが大きいようだ。彼は両手に新聞を広げていた。
キーファは部屋の入り口で立ち尽くしていた。なんだこの部屋は、何もないじゃないか。場所を間違えた?いや、表札には確かに「昆虫研究室」と書いてあったはず。
それに、どうして子どもがここにいるんだ。教授の息子?というか、部屋の中になぜ彼以外の人間が一人もいないんだ。ここは由緒あるレッドウォールの昆虫学研究室だろう。
色々な疑問が彼女の頭の中をぐるぐると駆け巡り、そして止まった。分からない。一体、ここは、どこだ。
「何か用?」
少年がドアの前で立ったままのキーファを見た。その声色は子どもでも、男のものでもない、中途半端な耳ざわりをしていた。
「こ、ここって、昆虫研究室ですよね」
キーファはどぎまぎしながら言った。
「ああ。表札を見なかったのかい?」
子どものくせに、やけにかしこまった話し方だ、とキーファは思った。少し緊張が解けた彼女は、少年の方へ近づいていった。
「えーと、きみはだれ?ここが、その、研究室なら、そのイスには教授が座っているべきで――きみは教授のお子さん?」
「僕がそうだ」
少年はとんとん、と机を指で叩いた。キーファは訳が分からない。彼女の表情に、『こいつ、何言ってるんだ?』という言葉がはっきりと見て取れた。
「僕がこの研究室の責任者、メロニック・アンダーソン教授だ」
そう言って彼はポケットから名刺を取り出した。そこには、今彼が述べたとおりの文字列が寸分の違いなく刻まれている。
キーファは名刺を見てもなお、目の前の事実を受け入れられずにいた。自分より明らかに歳下の――子どもが、大学の教授だって?それも、よりによって昆虫学の。
その時、キーファは初めて少年の瞳をまっすぐ見た。緑色の、儚げな感じを与えるまなざしは、この部屋で浮いている彼の存在をより一層神秘的に演出していた。
キーファ・グリーンウッド十九歳。メロニック・アンダーソン十五歳。三年前、春の出来事である。
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