第8話 残った傷跡
ニクソンは落ち着かなかった。二人が巣へ潜ってから一時間が過ぎたが、まだ戻ってこない。彼は待つことしかできない分、気を紛らわす手段もない。
「巡査部長、中から叫び声が聞こえます」
警官の一人が穴の中を覗いて言った。ニクソンは慌てて穴まで駆け寄って行き、頭を突っ込んだ。五メートルほど下に、ロープを登ってくる人影が見えた。
「お前たち、ロープを引き上げるんだ、急げ!」
ニクソンは唾をまき散らしながら部下をぐるっと見回した。警官たちが五人がかりで縄を引きはじめる。
「キーファさん、ベン、がんばるんだ!」
そう言ってニクソンも、上着を脱ぎ捨て、腕をまくりロープを引っぱり上げる。彼は地下の二人に声をかけ続けた。
地中から引っぱり上げられたキーファは酸欠状態に陥っていた。メロは変わらず全身麻痺状態で、ベンも腹部に傷を負っていた。三人はすぐ病院に運ばれた。
三人が救出されて、作戦は即第二段階に移った。一個の樽を三人で持ち上げ、穴の中に水を注ぎこんだ。キーファとベンが地下を捜索している間に樽はどんどん追加で搬入されていたので、最終的に計七十個以上の樽から大量の水が投入された。
巣穴は大量の土砂で入口まで埋められた。巣穴一帯はしばらく立ち入り禁止区域になり、それはその年の秋まで続いた。
翌日。キーファは病室のベッドで目を覚ました。
「キーファさん、気がつきましたか。良かった……」
ベッドの隣りのイスにベンが座っていた。おだやかな表情をしていた。
キーファはすこしの間、目が虚ろなままベンの顔を眺めていた。やがてゆっくりと口を開き、
「ベンさん……博士は?」
彼女の問いに、ベンは目線を逸らした。
「今も、意識は戻らないままだ……」
メロは集中治療室に入れられていた。脈はあったが、依然として意識は失ったままだった。
ベンの言葉にキーファは何も返せず、天井に顔を向けた。
二人の間に沈黙が流れた。
やがて、ベンが立ち上がった。
「じゃあキーファさん、体に気をつけてください。俺はこれで失礼します。今回はお世話になりました……」
ベンは頭を下げ、部屋から出ていった。ばたん、と扉が閉まる音が病室に響いた。
廊下に出たベンは、部屋の前で待っていたニクソンと並んで歩いた。
「キーファさんはどうだった」
「目を覚ましましたよ」
「そうか、それはよかった」
ニクソンはほっと胸をなでおろした。キーファの身を心から心配していた一方で、万が一キーファの生命が危うい状態になれば、救出作戦の指揮を執ったニクソンに重大な責任問題がのしかかるということもあり、自らの名誉を失わずに済んだという気持ちも、彼の安堵のため息には多分に含まれていた。
「メロニック教授はまだ、目を覚ましていないそうです」
「……そうか」
二人は病院の出入り口を抜け、外に出た。その日は太陽が雲に隠れているせいか、風が冷たかった。
「お前は大きな怪我じゃなくてよかったよ」
ニクソンはそう言ってベンの肩をぽんと叩いた。事実、彼はメロニックが救出されたその日のうちに退院していた。
しかし、ベンが負った傷は、おそらく三人のうちもっとも深いものだった。
肩を叩かれたベンの胸には、警察証のバッジが二つ輝いていた。
キーファが意識を取り戻してから二日後、彼女は退院した。家には戻らず、すぐにメロニック研究所へ直行した。
数日ぶりに訪れた木造の家屋は、ものすごく懐かしい感じがした。
彼女は倉庫から試験管やビーカーなどの実験器具を持ってきて、大きなテーブルの上に並べた。傍らには毒物の研究書と、肉蜂の生態書が開いてあった。
キーファはその日から、肉蜂の毒を打ち消すための血清を作り始めた。従来の血清はメロニックの身体の麻痺を解毒できなかったのだ。幸い致死性はない毒だったものの、あの巨大な怪物が有していたのは、明らかに新種の毒物だった。
実験は続いた。彼女は、メロの体内から採取した肉蜂の毒のサンプルを病院からもらい、毒を無毒化するために薬品を調合し続けた。
三日が経過した。実験は失敗が続いた。キーファも病み上がりの身だったので、頭が上手く回らない時も多かった。彼女はイスから立ち上がり、床にごろんと横になった。この三日間、パンとコーヒーしか口にしていない。服すら着替えていない。シャワーを浴びる気なんて起きなかった。
寝転がった彼女を、三日分の睡魔が襲っていた。血清を早く完成させなければならない。頭ではそう思っていても、体は重たく、言うことを聞かない。
窓の外の庭を、ぼーっと眺める。しばらく植物の世話が出来ていない。観察記録もつけていない。
そういえば、博士の論文も、締切りをぶっちぎったまま何も進んでいないはずだ。学長からお咎めを受ける前に、早く提出しないと。それから……。
いつのまにかキーファは眠っていた。深い深い眠りについた。
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