第7話 肉蜂の巣

 森には二人だけが取り残された。キーファはメロが座っていた場所を呆然と眺め、ベンは身体を震わせて俯くばかりだった。

「……すまねえ、キーファさん」

 何もできなかった、とベンは小さく呟く。あたりはまた静かになり、風の通る音が響くだけだった。

 ふと、キーファはメロが落としたかばんの近くから、妙な臭いがすることに気が付いた。ふらふらと立ち上がった彼女が足を引きずりながら、メロの落とし物に歩み寄る。かばんの周囲に、何か黒い斑点が浮かび上がっていた。キーファが地面に顔を近づけ臭いを嗅ぐ。

「……インクだ、何でこんなものが――」

 はっ、とキーファは顔を上げた。黒い点は森の奥へと伸びていた。メロニックはとっさに持っていた万年筆か何かを折り、滴るインクが目印になるようにしたのだろうか。

「ベンさん!」

 キーファの声に張りが戻った。しかし緊張感は失っていない。彼女に手招きされたベンもインクの跡を見て眼に光が射した。

「辿っていきましょう、キーファさん」

 二人は疲れた体に鞭打って歩き出した。



「……なるほど、これがその化け物の巣穴ですか、キーファさん」

 翌朝。森の奥深くには総勢十四人の警官とキーファがいた。彼らの前には、倒木やツタに隠れるように盛り上がった地面があり、その先端にぽかりと大きな穴を開けていた。

「そうです、ニクソン巡査部長。この中に、ジョンストン巡査とメロニックがいるはずです」

 肉蜂の巣穴突入は、敵の活動時間帯である夜を明かしてから決行の運びとなった。穴の入り口には長いロープが置かれ、尻尾のほうは太くて丈夫そうな木に縛りつけられていた。

 巣穴の手前には、大きな樽が数十個置かれていた。中には水がなみなみに入っている。

「キーファさんとベンが巣の中に入り、ジョンストンとメロニック博士を救出。四人が穴から脱出したら、ここにある大量の水をあの中に注ぎ込んでやる、と……」

 作戦を一通り反芻したニクソンは緊張感のなさそうな顔で頭をぽりぽりと掻いた。

「キーファさんがものすごい剣幕で『いた』と言うから準備したものの、結局私どもはこの作戦が成功したとして、その化け物の顔を拝むことは出来ませんから、そいつが本当に存在したのかどうかさえも分からずしまいなんですよ、ははは」

 間抜けな笑い声をあげるニクソンに、ベンがずいっと踏み出した。

「巡査部長……あなたが代わりに行っても、誰も文句は言いやしませんぜ」

 ベンの眼光にひるむニクソン。彼は一歩下がって何か言おうとしたが、

「そのお腹じゃ、コルクの代わりにしかならないわよ」 

 穴に向かってロープを投下するキーファの言葉にかき消された。



 穴は深く、十メートル以上は超えると思われた。キーファとベンは結び目がいくつも並んだロープにしっかり掴まりながら、ゆっくりと降下していく。

 やがて底に足が着くと、二人は音を立てないように穴の中を行進開始した。地中は暗く、空気は冷たい。穴は途中で何度も曲がったり下ったりを繰りかえして奥に続いていた。闇の中を十分ほど歩き続けて眼も慣れてきた頃、二人は開けた空間に出た。はっきりとは確認できないが、そこはいくつかの部屋につながっているようで、まわりの壁に何か所か穴が開いていた。

「キーファさん」

 ベンがキーファの肩を叩く。彼が指差した部屋の中央で、かすかに何かが光った。光沢が小さく上下に運動しており、二人はどちらが言わずともそれがあの巨大な黒い肉蜂だということは理解していた。

 二人は大きな空間から繋がる穴へ別々に入っていった。キーファは入口から向かって右、ベンは左奥の穴に潜った。

 穴の中はそれまで通ってきたものと違い、壁がつるつるとなめらかだった。その穴の奥まで行き当たると、キーファは目の前の光景に心臓が喉元まで上がってきたような感覚を覚えた。

 そこに、人間が放り出されていた。黒い制服はどうみても警官のもので、それがジョンストン巡査ということはすぐに分かった。彼は無表情のまま口を大きく開けていて、よだれがだらだらと溢れていた。そして彼の身体は奇妙に蠢き、まるでシーツの中に子どもが入り込んで遊んでいるように不気味に波打っている。

 明らかに、彼は寄生されていた。

 悲惨な有り様を目にして後ずさるキーファ。しかしあまりに衝撃的だった警官の姿に気を取られたのか、彼女はしばらく間を置いてからようやく、彼のとなりに横たわるもう一人の影に気が付いた。

「博士……!」

 キーファは吐息交じりの小さな小さな声で叫び、メロニックに駆け寄った。彼もまたジョンストンのように口を開け、死んだような眼差しのまま動かなかった。

 キーファはメロの身体を起こし、背中にのせて持ってきた紐で括りつけた。メロが彼女より年下といえ、十八歳の少年の命は彼女の背中に重たくのしかかった。

 キーファは穴を出ていこうとして一旦引き返し、ジョンストンの胸についていた警察証のバッジを回収し、それをポケットに入れて部屋を出た。



 穴から出ると、中央の空間でベンが待っていた。

 キーファが背負ったメロニックの変わり果てた姿を見て、彼は動揺を隠せなかった。

「…‥ジョンストンは?」

 絞めあがった喉からやっとの思いでその言葉を絞りだした彼に、キーファはポケットからジョンストンのバッジを取り出して渡した。ベンは一瞬絶望に打ちひしがれた表情をしたが、目を閉じ深呼吸をしてすぐ落ち着きを取り戻した。

「教授は俺が運びます」

 ベンが自分の背中を指差した。頷いたキーファが紐を緩め、背中からメロを下ろそうとした時、


 かつーん。

 メロのポケットから、折れた万年筆が落ちた。

 静寂を打ち破ったその音は洞穴の中に反響し、そして再び静まり返った。万年筆はキーファとベンの足元をころころ転がった。

 そして、彼らの背後からあの嫌な羽音が唸りを上げ始めた。二人が振り返る。暗闇の中に二つの赤い眼がぼうっと浮かび上がった。

「逃げろ、キーファさん!」

 ベンは銃を構えた。刹那、キーファは逡巡し足が止まったが、ベンの銃が火を噴いたと同時に走り出した。

 キーファは全力で走った。暗く足元が不安定な穴の中を、何度も躓きながら駆け抜けた。背中のメロは何も言わない、何も反応しない。ベンが追ってくる気配もない。不安で胸が押しつぶされそうだった。でも走った。

 銃声がうしろの方から聞こえた。耳障りな羽の音と発砲音はどんどん近づいてきた。

 ようやくロープが垂れている場所までたどり着き、キーファは上に登りはじめた。息は上がりっぱなしで、汗がとめどなく流れてくる。足を壁に突き刺し、一歩、また一歩と進んでいく。だんだん、頭上に見える地上の光が大きくなっていく。

「うおおおおおおおお!!!!!」

 キーファは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。手の平からは血が流れ、彼女とメロを繋ぐ紐が体中に食い込み、筋肉を締めあげる。彼女はそれでも登り続けた。意識は朦朧とし、ただ手を動かすことだけに必死になった。





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