第2話 事件の予感

 キーファは一階の大部屋でテーブルに着き、大きな図鑑を開いてノートに何かを写していた。開いたページには、四枚の大きな羽と金色の眼が特徴的なトンボが記載されていた。

 キーファはやわらかい鉛筆を片手に図鑑を睨みながらトンボの図を写している。筆は動いては止まり、少し描いてはやめてを繰り返した。

「模写の練習かい」

 彼女の横にシャワーを浴びたばかりのメロニックが立っていた。相変わらず髪は無造作にはねていた。

「はい、絵描くの苦手なので……」

「じゃあコーヒーを淹れてくるよ」

 少し湿ったタオルを首にかけたまま、メロニックはキッチンへ向かおうとした。しかし、図鑑とにらめっこしていたキーファはそれを聞いた途端イスから勢いよく立ち上がりメロの右腕をつかんだ。

「私がやりますから、博士は論文を進めていてください」

 メロは面食らって「あ、ああ」と小さくもらした。きょとんとする彼を尻目にキーファは早足でキッチンへと向かった。

 玄関からみて大部屋の右側にキッチンがある。レンガ造りの窯の中の薪に火をくべて、水を注いだ鍋を窯の上に載せる。窯のとなりに常温保存の調味料や食器がおかれたテーブルがあり、二つの間にはなぜか白い瓦礫の山が積もっていた。

 窯と反対側にある食器棚からマグカップを二つ取り出す。白い器にかわいらしいクマが描かれている。キーファが瓦礫の山のうちのひとかけらを拾った。白い破片には半分に割れたかわいらしいクマの顔があった。

 ごうごう燃える窯の炎。ぐつぐつ煮立つ鍋の水。欠けたクマを無表情で見つめる彼女はそれを破片の山に投げ入れた。



 大部屋の散らかったテーブルの上にマグカップが二つ置かれた。メロとキーファはそれぞれ向かい合って座った。

 メロは玄関先に配達されてあったぬるい牛乳をコーヒーに入れ、そこに堅いパンをひたして口に運んでいる。キーファはカップを片手に昨日が提出期限だったメロの書きかけの論文を読んでいた。


 ……サクレツゼミの俗称で現地の人々が呼ぶのは、オオムラサキゼミだった。

 多くのセミは約一か月ほどの期間を成虫の姿で過ごすが、オオムラサキゼミの成虫は一週間鳴き続けた後に破裂して絶命してしまう。

 オオムラサキゼミの鳴き声は体内に張り詰めた一本の弦が振動して鳴り響く。一週間の間鳴くために振動し続けたその弦はやがてぷっつりと切れてしまい、それによって体内の環境の安定が失われたオオムラサキゼミは爆発してしまうのだ。


「火山地帯でのフィールドワークはさんざんな目に遭いましたね」

 紙の束から顔を上げたキーファは虚空を見つめながらしみじみと呟いた。

「ああ。調子に乗ってオオムラサキゼミに近づいていった現地のガイドの頭が爆発で吹っ飛んだ時はさすがに驚いたよ」

 歯ごたえのない湿ったパンを味わいながらメロも同意した。半年前に実地調査のため訪れた活火山のふもとの集落での三週間は、二人にとってあまりいい思い出ではないようだ。

 メロは残りのパンを口の中に詰め込むと、牛乳と一緒に取ってきた新聞を広げた。まだ半分寝ぼけた目つきで紙面に目を通していた彼だったが、何を発見したのか急に食い入るように顔を近づけて読み始めた。

「キーファ君、今日の新聞はもう見たかい」

「はい。あまり気が惹かれるものはありませんでしたけど。……ああでも、この近くの森を切り開いて観光施設をつくる計画が進んでいることは今日の三面で知りました」

 それじゃないよ、とメロは両手を大きく広げて新聞をがさがさ震わせた。その時右腕がマグカップを吹き飛ばし、床に落ちたカップは粉々に砕け散った。

「『ガーストン農場の怪事件!奇怪な死をとげた家畜たち』これだよ、キーファ君」

 熱の入った声で見出しを読み上げるメロのうしろで、ほうきを手にしたキーファはさきほどまでマグカップだった陶器の破片をちり取りに集めていた。

「博士は好きですね。そういう胡散臭い記事」

 彼女はそう言って破片をひとつ、つまみあげた。クマの手と思しき描線が白いかけらに刻まれている。

 だれが頼んだわけでもなく、メロは記事を音読し始めた。


 ……ガーストン農場の主であるオーエン・ガーストンは、約一週間前に失踪届を提出していた。お尋ね人は彼が保有する牛のポポと豚のピグの二頭。警察や地元の住民の協力のもと、懸命な捜索が行われたが成果は上がらなかった。

 しかし昨日の夕方五時頃、農場内の見回りを終え母屋に戻ろうとするオーエン・ガーストンは、母屋の前で驚くべきものを目にする。それは――、


「『まるで生気を根こそぎ吸い取らたかのような、恐ろしく痩せ細ったポポとピグの姿だったのだ!』」

 と、眉をつりあげ口を大きく開いて怪物のような表情をつくるメロ。が、マグカップの破片を瓦礫の山に捨てて席に戻ったキーファは彼に一瞥もくれずコーヒーをすすった。

「それで?」

 冷めた目つきでメロを見つめるキーファ。彼女の視線を遮るようにメロは新聞を広げて顔を隠した。

「……『現在警察は何者かが家畜を拉致虐待したとして周囲に住む住民を中心に捜査を開始。付近の農家からはさまざまな不安の声が上がっている』だそうだ」

 記事の締めくくりを述べたメロは新聞をたたんでテーブルの上に置いた。

「さあ、キーファ君。出かけるよ」

「え、どこにですか」

 メロはにやりと笑い、目を輝かせた。

「もちろん、ガーストン農場だよ」

「……博士、忘れたんですか。締切りをぶっちぎってる論文があるんですよ」

「それに関しては僕から大学にお詫びを入れておくから」

 メロはすでに外出の準備を始めていた。白いシャツと薄いベージュのパンツに身を包み、大きな革のかばんを肩にかけた。

「さっそく馬車を手配しよう」

 そう言って彼は壁にかけられた電話に手を伸ばす。しかし、キーファはそれを声で制した。

「メロニック研究所に、馬車を借りる余裕なんてありませんよ」

 彼女はコーヒーを飲み干し、イスから立ち上がった。

「……じゃあ君のあの不思議な自転車の後ろに乗せてくれよ」

「あれに人間二人を乗せて走るくらいなら、歩いたほうが速いです」

 彼女はメロの手から受話器をすっと取った。

「でも、馬一頭くらいならなんとかなります」

 キーファは微笑んだ。しかし一方でそれを聞いたメロの表情はみるみる曇っていった。

「でっかい哺乳類は苦手なんだが……」

「何言ってるんですか。牛や豚だって似たようなものでしょう」


 

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