メロニック博士と結晶昆虫

そうま

第1話 お早うございます、メロニック博士

 なだらかな丘が一つ二つと続いていく草原にはゆるやかな起伏があった。丘を覆う草は丈が低く、風にゆられて波打っていた。緑の海に点在する三メートルほどの高さの木は、青々とした葉をつけていた。

 その草原を走る影があった。

 影は草原の上に伸びる道を走っていた。舗装されていない土の道は少し凹凸があり、幅はおよそ馬車一台分くらいである。人の往来で草が禿げあがって出来た道だ。

 土煙を立てている影は二輪車だった。自転車にエンジンやモーターを無理に縫いつけたような、歪ないで立ちをしている。ハンドルをにぎる運転手はサングラスをかけ、長い髪をうしろで束ねていた。

 サングラスには青い空がくっきりと映り込んでいた。

 細い川を流れる水は太陽の光をきらきらと反射して揺らめいている。そこにかかった石造りの短い橋を越すと、土の色がすこし濃くなった。

 道のそばに生えている木が視界のはしで通り過ぎていく。一本、二本、三本と見切れていったが、遠くに見える大きな樹木の位置は変わらない。

 運転手から見て左の方角にある山や森。そちらに向かって二、三回道を曲がる。すると、草木に覆われた平たい家が見えてきた。

 速度を徐々に落とし、門の前で停車する。エンジンを切り、運転手は二輪車を押して中に入っていった。

 家の前に小さな庭があった。多くの鉢が並べられて、短い木や花が育っていた。運転手は庭のはずれにある小屋の屋根の下に車両を止め、花壇へ向かった。歩きながらサングラスを外し髪を結っていたゴムを取る。少しパサついた茶色い髪が肩までおりた。屈みこみ、形のよい青の瞳で葉の表面や土の状態を観察する。

 庭を通り抜ける風はおだやかで暖かい。そろそろ、この庭が一年で最も華やかな景観になる頃だった。

 花壇を一通り調べ終えた彼女は家の前まで行き、扉をノックした。たっぷりのニスが塗られた艶のある木造のドア。返事はなかった。彼女はとくにため息をついたり顔をしかめたりする様子もなく扉を開けた。

 玄関は靴や傘、日よけの麦わら帽子などでごちゃついていた。左手には温室への廊下がつづいており、右の方には大きな部屋がある。部屋の中央には縦に長い木のテーブルがどっしりと構えていて、その上に虫の標本やぶ厚い図書、書きかけの論文が散らかっていた。部屋の奥の壁に架かっている木の時計の短針は10の字を指していた。

 大部屋の横にある狭い階段を上り、2階へ。廊下は短く部屋も二つしかない。手前の部屋の前に立ち止まり、ドアの横の鏡に映った姿を確認する。深い紺のシャツに黒のスラックス。土埃を払い、革のブーツに付いた庭の土を軽く落とす。

 再びノックをする。

「メロニック博士、起きていますか」

 返事はない。

 彼女は間をほとんど開けずにドアノブを引いて中に入った。

 部屋の中は薄暗かった。カーテンの間から太陽の日がもれ出して光の筋が浮かんでいる。机に積み上がった文献や空中の埃が照らされ、光線は窓と反対側に設置されたベッドまで伸びていた。

 籠った空気の室内。

 ベッドの上にもぞもぞと動く影が一つ。

 彼女はカーテンを勢いよく開けた。窓の戸を外に突き出す。春の日差しとやわらかな風が部屋へ飛び込んできた。

「博士、もう10時ですよ」

 窓の外の、通ってきた原っぱの先に浮かぶ白い街を望みながら彼女は言った。ベッドの上の影は小さな唸り声をもごもごと咀嚼しながら寝返りをうち、そのまま床に落ちた。

「……」

 若干のタイムラグがあったが、メロニックはのっそりと起き上がった。黒い髪は無造作に暴れていて、深い緑色の瞳はまだ半開きだった。

「……キーファ君、僕の眼鏡を知らないか」

「今かけてますよ」

「……ああ、その机の上の論文は今日までに仕上げるよ」

「提出期限、昨日までですけど」

「……そういえばどこかに新種昆虫の分布図がなかったかい」

「博士の下敷きになってます」

 キーファが指をさす。細かな書き込みがなされた図面はメロニックに押し潰されていた。

 彼はのっそりと立ち上がり、くしゃくしゃになった分布図を拾ってしわを伸ばした。紙をなでる力は結構強めで、寝起きの彼はいきおい余って紙を破いてしまった。

 屋根の上に巣をつくった小鳥たちのさえずりが窓の外から聞こえた。

 

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