「おちる」

「落ちる」を「墜ちる」に変換することにより、文学的地平において、どれくらいの効果が期待できるか。それを敷衍ふえんして思考すると、誰でも一度は、文学とは、言い換えと置き換えの「言い換え」と「置き換え」に過ぎないという観念に達すると思われる。


 私の机の上に置いてあった筆箱が、床に


 この「おちた」は「落ちた」と書かれるのが、一般的であるかもしれない。だがそれは、、そう記述する傾向にあるだけなのだ。


 文学的地平おいて、「落ちる」と「墜ちる」を区別して用いることができるのは、を観察する側であり、を経験する側ではない。言い換えるなら、書く側であり、書かれる側ではない。ここに、文学的地平における権力構造を看取することはたやすい。


 腰を曲げて、筆箱を拾い上げた。


 ところで、私が筆箱を拾い上げることができるのはなぜか。


 それは、第一に、私が筆箱に対して覇権を握っていること、第二に、筆箱が私の行為に対して抵抗する力を持っていないこと、そして第三に、近代において制度化された膾炙かいしゃである。即ち、筆箱を拾わなければならないと、私たちは見えざる権力により受動的に調教されてきたのだ。


 この一連の所作に、ありきたりな解として想定されているであろう、が入る余地は


 筆箱を拾うという行為から、ここまで、いや、これ以上を想像することなく、この一連の所作を、常識に回収した場合、私たちは、あらゆる狼藉ろうぜきを肯定する快楽にしまう。


 常識は、現代社会において、ではなくなり、例えば、以下のような言い訳を産出し続ける道具と化している。


「暴力は禁止されなければならない。だが、


 こうした留保付きの主張は、前者を常識に回収することで氾濫はんらんする。即ち、たとえ後者が誤謬ごびゅうだったとしても、前者が常識であると見なされるかぎり、言い換えるなら、正統であると認められているかぎりにおいて、その理屈は、、ということである。簡潔に言うならば、ということだ。


 しかし、この理屈は、常識として回収したはずの「暴力の禁止」を訴求しているとはいえない。。この留保がもたらしているものは、反対の効果、即ち、暴力の正当化と助長にすぎない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る