「定義の暴力性」

 こうした定義めいたもの、即ち、私の身勝手な断定が、どれだけの暴力性を秘めているのかということを、幸いなことに私は知っている。知りすぎている。ある定義を採用したとき、その定義の例外は曖昧な姿になり周縁化されるか、暴力的に排除されるか、強制的に包摂されてしまう。定義とは単純化。差異を無効にする。


 しかし私が物事について考えるとき、その思考を記述しているだれかは、私の思惟を身勝手に定義し、私に一種の暴力をふるっている。殴ってやりたい。蹴ってやりたい。暴力への応答は暴力。


 いや、それは違うのだ。もっとうまいやり方があるはずなのだ。そもそも、暴力さえ定義できない。だからだろう。どちらが先に暴力をふるったのかという議論は、水掛け論になってしまう。認識の相違。定義の暴力性。もし闘争を回避したいのならば、すべての既存の概念を括弧にいれてしまって、その括弧の前でも後ろでもいいから、新たな概念を明記するしかないのだ。

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