花瓶

紫鳥コウ

花瓶

 康子は朝起きると窓を開けて深呼吸をしました。そして家の中の空気と同様に家の外の空気もまた、傲慢ごうまんなものだと今日も感じていました。


 空気には彩りがなく、味や匂いというものは、他のものに影響を受けないかぎり持つことができない。そうした没個性で日和見主義的なものが、ひとの生き死にを左右するのだから、傲慢としかいいようがない。


 康子はおおよそ、そういう風に思っていたのです。


 しかし傲慢という表現はともかく、そうした感性は大事にしてほしいものです。


 康子は自分を傷ひとつない水晶のようなものだと思っていました。どの角度からだれが見ようと、自分は整然とした存在なのだと得意になっていました。


 しかし水晶というものは、光の差し込みに依存するものです。光がなければ輝きやしないのです。


 ところで、水晶にかぎらず光のあたらないもののほとんどは、世間というものからまったくないものにされてしまいます。


 その世間というものは、まるで妖怪のようなもので、あるようでないようなものです。しかし、いまもむかしも、世間というものの無根拠を思考することは禁忌きんきとされているみたいなのです。


 それはともかく、朝ごはんを食べてしまった康子は、鏡にうつる自分が、そのかわいさにおいて昨日に劣らないこと、そしてヘンななりをしていないことを確認すると、ランドセルを背負って学校に行ってしまいました。


 通学路ほど俗悪なものはないとだれかがよく言っていましたが、その時の康子はそういう風には感じていませんでした。


 定められたところを歩かされるということに、なんの疑いも抱いていないのですから、気楽なものです。鼻唄まじりに学校へ向かっていきます。


 康子の目の前に、並んで自転車を押す中学生のカップルがいました。


 来年は自分もあのように、車道を彼氏の体格で隠しながら駅まで自転車を押していくのだろう。三番目に告白してきた相手と付き合うくらいがいいのかもしれない。学校では知らん顔をしているのが大人というものなのかもしれない。


 秋のうっすらとした涼しさは、妄想をたくましくしてしまいます。


 ふたりがこの場でキスをしてくれないものかと、康子は密かに期待していました。康子は俳優のキスしか知りませんから。いまかいまかとドキドキしながらふたりを見つめます。


 しかし康子が学校に着くまでのあいだに、このカップルは一度もキスをしませんでした。なんなら、会話がはずんでいるようすもありませんでした。


 それはそうです。愛情とは鍵のかかった部屋のなかでしか存在を許されなくなりましたから。康子の生きる時代というのは、成仏できない憎しみと悲しみの幽霊があちこちで愛情を呪おうと必死ですから。


 友情もまた俗悪だと思うひとは、たくさんいると思います。もっと踏み込んでいえば、友情というものが怖い。怖くて見ていられない。この先、康子はいやでもそう思いながら生きていかざるをえません。


 つるつるの平面の上に置かれたピンポン球のようなものです。友情というものは。あまりにも不安定なのです。わずかな刺激を与えただけで、台風のなかにいるかのように揺れ動いてしまいます。


 とくに康子の歳ごろの友情なんて、人生において最も信じられないものです。もはや友情というものはないのではないか。そんな風に思えてしまうほどです。


 しかし、友情はなくとも友人はいくらでもできますから。友人になるためには、友情より優先するべきものがありますから。


 さて、なんでこんなことを言う必要があるのかといいますと、康子はここのところ、同級生をからかい続けているからです。ほかの子たちと一緒にからかっているのです。少し前までは、一緒に遊んでいた子をからかっているのです。


 季節柄、鼻水のとまらない同級生です。鼻からぽたぽたと雫が落ちている様が、滑稽だと、醜いと、からかっているのです。


 特に康子は、自分を水晶のようなものだと思っているものですから。自分は彼女と対比してかわいいと思っているものですから。


 それにしても、なぜ康子の歳ごろの子たちのからかいというものは、容姿ばかりが対象になるのでしょう。美醜の判断は、どこからしいれてくるのでしょう。わかりがたいものです。


 さて、そんな話をしている暇はありません。


 どうやら康子は自分の上靴を探しているようです。片方しかないのです。もう片方はどこにあるのでしょう。きょろきょろ見渡しても、見つかりません。これでは教室までいけないので困ってしまいます。


 しかしだれかに頼ることほど、康子に屈辱を与えるものはないのです。ぺこぺこお礼を言うことは、だれかから借金をするようなものだと康子は思っているのです。


 自分がお金を貸すのはいいけれど、借りたくはないというのが、康子のプライドなのです。水晶ですから、康子は。


 上靴はごみ箱のなかにありました。なぜだかは、康子にはわかりません。なぜわからないのかといえば、わかりたくないからです。この事実が指し示すことなんて、わかりきっているからこそ、事実を受けいれないという選択しかできないのです。


 うす汚れた左の靴と、まっさらな右の靴の非対称性は、康子の足どりを重くさせました。階段の一段が、二段分の高さに思えるほどです。


 そして教室に入ると、自分の机の上に赤色の花瓶がおかれ、そこに白い花が一本してありました。けられた花――その美しさと、それが意味する残酷さの非対称性もまた、康子には受けいれられませんでした。


 ああ、康子はなんてことをするのでしょう。


 右手で花瓶を思いっきり振り払ってしまったのです。カッとなったのです。プライドがあったから、抵抗を見せないまま泣くわけにはいかなかったのです。


 その花瓶は、横の机の脚にあたってくだけてしまいました。ひとつとして同じもののない破片は、あたりに飛び散りました。


 そして、そのなかのひとつが康子の右足をかすめました。するとしばらくして、じんわりと傷口にそって血がにじんできました。


 その時の教室の沈黙は、いまでもまざまざと思いだすことができます。人生において時間が止まったのはあのときだけですから。


 しかし康子はいまさら不思議に思うのです。


 なぜ、汚い靴がごみ箱に入っていたことや、花瓶が机の上に置かれていたことの深層の意味にばかりこだわって、もう片方のまっさらな靴や、花瓶に挿された白い花の美しさという表層に対して、なんの感想も覚えなかったのかということを。


 しかし次のことだけは確かです。


 康子は非対称性を受けいれることができなかったのです。深層と表層を、自分のこころのなかで共存させることが不可能だったのです。


 それにしても、なぜこんなことを書こうと思ったのでしょうか。


 もうすぐ人生の筆をかないといけないでしょうに、こうして原稿を頼まれれば筆を動かしているのですから、なんだか笑ってしまいます。


 もう、題材なんて尽きていますよ。

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花瓶 紫鳥コウ @Smilitary

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