第10話 蝶タトゥーの女
「たのもー!!」
開口一番に叫んだ声は、静かな事務所の中を響き渡り一瞬で注目をさらう。
ホッホという笑い声と共に裏手へ入り込む美千代さん。
音を鳴らして机に敷かれた画用紙の上を転がる赤いクレヨン。
『怪奇伝承』とおどろおどろしい書体で書かれ、気味の悪い絵が着いた奇抜な色の雑誌書に付箋を挟んで、怪訝な顔でこちらを見る探偵。
「今日は依頼の付き添いで来たの。境探偵に相談したいって人がいてね、それで連れてきたのよ。話を聞いてあげて」
そう言うと、探偵は私の奥へと視線を伸ばし口を開こうとしたので、私は慌てて話を付け加えた。
「わ、私が彼女を連れて来たんだし、中途半端に関わるだけ関わって後は投げるなんて事出来ないわ。
だから、私にもこの依頼手伝わさせて欲しいの!
少しでもいいから何か力に」
「ちょっとあんたさ、さっきから聞いてればなんな訳?よく分からんあんたに、ウチの何が分かるってんだよ!!」
私の話を遮るように怒鳴りつける女性の声。
それは私の背中に容赦なく叩きつけられ、私はあまりの驚きで竦んでしまった。
あの・・・あの優しく笑ったり、困ってオドオドしていた、あの苺さんが・・・?
とても信じられなかった、一体どうして?何で?
疑問符ばかりが焦らせるが、私はその答えを確認する事が出来ない。
振り返る、その簡単な動作が怖い。
「用がないんならさっさと退けよ馬鹿女!邪魔なんだよ!!」
その人は、固まる私の肩を掴んで強引に脇へ押し退かすと、無理矢理に入口へ割って入った。
視界に割り込んできたその女性のは、薄い金色の巻き髪に焼けめの褐色の肌、シャツは捲し上げられ背も腹も丸見え。
短いダメージジーンズから除く足には大きな揚羽蝶のタトゥーが浮かんでいる。
え・・・?誰・・・?
「ここが
・・・チッ、んだよしけたもんだな!
ホントに
ズカズカと大股で上がり込んだその女性は、少し酒に焼けた声で汚い言葉と唾を吐き捨てた。
一体何がどうなったの・・・!?
そうだ、苺さん!!
周囲の何処にも苺さんの影は無い。
もしかして途中でこの人に何かされたんじゃ!?
「おまっ!?ちょっと待て!!そ――」
後出に探偵の声が聞こえた気がするが、私は無視をして駆け出す。
慌てて階段を駆け下りてボロビルの外まで探し回り、声もかけてみたが何処にも苺さんの姿は無かった。
どうしたんだろう?気が変わって帰ってしまったのだろうか・・・
あんなに真剣に探していたのに・・・
もしかしたらまた気が変わって戻って来るかもしれない。
一応探偵には伝えておいてあげよう。
仕方なく、私は一度探偵事務所に戻る事にした。
「何処へ行ってたんだ馬鹿者!!お前が連れてきたんだろ責任を取れ!!」
再び戻った探偵事務所は地獄と化していました――。
そこらじゅうに撒き散らかされた本や書類。
その幾つかは珈琲だろうか、茶色い染みが広がり、椅子や机は蹴られたのか哀れに転がり――。
そしてその中心には鬼が鎮座していた。
いつも探偵が腰掛けている一番高価そうな椅子に座って。
「おいババァ、さっさと酒持って来いつってんだろ!?気が利かねぇ糞ばっかだな!・・・ッペ」
あの美千代さんが、落ちる唾を避けて昼間から手を震わせてお酒を運んでいるだなんて・・・
駄目だ、あまりに可哀想で見ていられない!
「美千代さん、私が運びますよ」
私がお盆に手を添えると、美千代さんは『ごめんね・・・和花さん』と奥へ戻って行った。
「おい!そんな事よりも何とかしろ!」
あの男は、デスクの影に隠れても尚、高飛車な態度を改めようとは思わないのか?
貴方の最上位クラスが今、目の前に鎮座する鬼ですよーだ。
ちゃんと反面教師に学ぶといいんだわ。
「どうぞ、日本酒しか用意が無いものですから、温めさせて頂きました。
さぁ、境探偵お勤めをお願い致します」
お酒を置いて、慎ましく下げた頭の下で笑いが止まらない!
きっと今探偵は怒り立ち、それを抑え抑え悔しさで唇を噛んでいるに違いない。
いや、もしかしたら拳も握っていたりして!
あー今すぐ高笑いを決め込みたい!!
「美味い。こりゃー高い酒だな!あんた、少し見直したよ」
丹精込めて焼かれたお猪口へ、だぶだぶと溢れんばかりに継いでは喉へ、一息に流してしまうとは――。
趣のあるものも、この人には意味を成さない。
豚に真珠とは上手く言ったものだ。
「ごゆっくりどうぞ」
だけどここは、少し我慢して裏へ履けるとしますか。
遠くでゆっくりと名探偵の手腕を見物させていただきますよ。
ふいと踵を返して足を何歩か踏み出した時だった。
背に伝う禍々しい視線に肌が粟立つ。
何だろう、物凄く嫌な予感が――
「まぁ待たないか。
今回は良い働きをしている事だし、それに――。
いい機会だ、直に調査を学ぶといい。さっさと自分の席に着くがいいぞ弟子よ」
怖々と振り返ると、恐ろしいまでに爽やかな笑顔の探偵が逆さまの椅子を指差していた。
い、今何て?でし?弟子って言いました?
聞き間違いだろうかと考え倦ねていると、『さっさとしろ!』と鬼の怒号が鳴り、私は腑に落ちない顔で逆さの椅子を返すしかなくなった。
起こした椅子に掛けようとすると、『違う、それは俺の椅子だ』等と、偉そうに探偵が駄々を捏ねたので、大人な私は椅子を譲り、立ったまま話を聞くこととした。
「では、調査内容を聞く前に確認をさせて貰う」
そう言うが早いか探偵は立ち上がり、派手な女性の元へ近づくと徳利を、持つ彼女の手ごと握りしめた。
「なっ!?何すんだテメェーーー!!」
地雷原の如き女も、完全に意表を突かれてしまえば若女の顔を覗かせてしまうようで、驚いたその顔はか弱い乙女そのものだったが、すぐさま般若の形相へと戻り、憤慨しだす。
「確認だ。さっき言っただろう」
探偵はシラっと答えてデスクに戻ると、高さの合わない椅子に腰掛けて、最初に読んでいた奇天烈な雑誌を開いて呟いた。
「調査料は前払いで50万だ。出せ」
すると女性は立ち上がって、足音を立てながら探偵の目の前まで詰め寄る。
「50万だ?んな金有るわけねぇだろ糞が!!
四の五の言ってねーでさっさと
今日一番の怒声に肩がこわばる私だが、その言葉だけはどうしても許す事が出来なかった。
「ぶっ殺すだなんて、そんな言い方無いでしょう!?あまりに酷すぎるわ!!」
席から立って子供椅子の方を見るが、赤いクレヨンは転がったままだった。
「んだよあんた、あんな
ゲラゲラ笑い立てる女性に、私の頭にはみるみる血が上る。
そんな中、探偵は顔色一つ変えず雑誌のページを一枚捲る。
「なら帰れ。俺は料金が支払えない奴に奉仕してやる程
それを聞いた途端、女性が急に静かになった。
女性の周囲の空気までが冷たく変じる。
何故だろう・・・頭から湯気が出る程に怒り狂っていた今までより怖く感じる。
「あんたも貧乏人を馬鹿にする奴らって訳か。
まぁいいさ。世の中そんな奴ばっかだ・・・
金はねぇけど、他でなら何でもくれてやるぜ?」
弛んだシャツの襟口に指を入れ、胸元が見えるくらいに広げる女性に、私はふためいて鼓動が早まる。
体で払うなんてこの世に存在したの?
なんて野蛮な人だろう。
私ならその考えにまず至ることは無いし、自分に出来るとは到底思えない。
目の前の女性がどう出来たのか。
同じ国で同じ教育を受けてきたはずなのに・・・
そもそも本当に同じ人間なのか、同じ脳が心が入っているのか?
目の前の状況は、私の思考ではとても計り知れなかった。
「ちょ、ちょっと・・・!?」
私の言葉などものともせずに、滑らかな動きで伸ばされた女性の指先が、探偵の頬を撫でて顎を縁取り親指が唇をなぞると、ゆっくり降りていく。
首筋を伝うと盛り上がった喉仏に触れる。
女には無いその固さや形が、親指の腹から伝わって自分とは違う性という物を実感させてくる。
そのまま女性が探偵の肩へ腕を回すと、二人の顔の距離がぐっと縮まった。
私はその一連の動きを見ているだけで、羞恥に駆られて居た堪れなくなり、どうしていたらいいのかソワソワとしていた。
いつまで続けるつもりなの・・・?
何でもいいからこの空気早く終わらせてよ!!
だがその心配は直ぐに必要なくなった。
じっと動かないでいた探偵が発した言葉によって。
「生憎俺は、人間が大嫌いでね。
群れ馴れ合うなんて考えただけで反吐が出る。
――まぁどの道、繁殖など俺には無為な事だ」
照れるでも、動じるでもなく並べられたその言葉は何処か不可解で異様なもので、事務所内の空気は一変した。
断られた筈の腕を回していた女性は、怒って牙を向いたり、悲しんで言い返したり、羞恥に顔を赤らめるなんて事はせず、ただ静かに回していた腕を解いて、目の前にいる不可解を理解しようと励むので手一杯だ。
「あ・・・あんたおかしいよ・・・」
彼女が漏らした言葉は怯えや蔑みから出たものでは無い。
純粋な疑問に少しでもヒントが欲しくて垂れ出た弱音だ。
私も一度経験した。
誰だってこうなるだろう。
境幸之助の硝子のような目を見れば――。
「・・・何でもと言ったな?」
硬直した状況の中、何事も無かったように口を切る探偵に、女性が初めて弱みを見せた。
肩を揺らして驚いたのである。
「えっ、・・・あ、あぁ」
返事を聞くと探偵は、時代錯誤の黒電話を取りダイヤルへ指を通し回した。
「境だが。・・・何だ?電話番が変わったのか?面倒だ、俺からの電話にはどう対応するかをもっと上の奴に聞け」
そう言って、探偵がため息混じりに受話器をデスク上に寝かせると、受話器から怒声や罵声がこの位置からでも聞こえるくらい大声で漏れ出て来るではないか。
雰囲気のある黒電話からは、想像だにしないようなドスの効いた声の数々。
ごく平凡な一般市民の私でさえ分かる。
電話の向こう側
横目でちらりと女性を見ると、やはり彼女も勘づいたらしく焦点が定まっていない。
唇を噛み締めて服を掴み、必死で強がって見せているが握った手が小さく揺れている。
「
この男は、いつだって意地悪で性根が腐ってる。
だが、真っ直ぐに彼女を見据え、静かにその言葉を投げかけた姿からは、何故か紳士さが感じとれた。
女性は少し下を向いて考えてから、一歩踏みしめる。
「分かった、50万払う。だからウチを・・・助けて、欲しい・・・・・・!」
涙ながらに叫んだ彼女は、弱々しく震えるごく有触れた女の人だった。
勇ましく強い殻に隠していた彼女の本心は、恐怖と不安で今にも押し潰されそうになっていたんだ――。
そうか、確かにそうだ――
私も数ヶ月前は恐ろしくて、寝る事さえ出来なかった。
彼女もきっとそうなんだ――
濃いメイクはそれを隠す為の物なのかもしれない。
私は夢中で彼女の手を握りしめた。
「大丈夫!!この男はいけすかないけど、腕は確かな探偵だから。一緒に解決しよう!」
その時、受話器の騒がしい声が止んで静かになった。
「境か」
重低音の声が一言告げる。
その声は、静かで微かに聞き取れたものだったが、腹に響かせ背筋に悪寒を走らせる凄みを孕んでいて、私は気づくと呼吸を止めていた。
「あぁ、まだ健在で何よりだな
受話器を耳にあてて話す探偵は、此方と打って変わって楽しそうに口元を緩めている。
「・・・いいだろう?唯一の友なんだ。
そう言って、どうせ今も孤独に小枝を切る切るまいで悩んでおろう?
・・・ん?俺か?俺は・・・」
何やら話に花を咲かせる探偵は、受話器片手に徐に此方を見回す。
「増えたとも。嘘ではない。
嘘ではないと言っている!!
最近は仕事が耐えなくてな、今も現に・・・
あぁ、そうだ。要件があるのだ。
金を貸してくれ」
はいぃーー?!?!
普通楽しく話している途中で急に爽やかな感じで『金を貸してくれ』何て言いますぅーーー!?!?
どう考えても
ん?いや内容は合ってるのかな?ん?んんん?
もうコイツのせいで意味分かんないじゃないのぉーーー!!!!
「ほら、自分で頼め」
私が我に帰ると、探偵は受話器を私の隣に居る女性に差し出していた。
女性は、深く息を吸ってから私の握る手を払って受話器を取り、唾を飲んで『もしもし』と一言話す。
沈黙が続く中、少しすると女性の体は縮み上がり、膝がガクガクと震え始め『く、く・・・く・・・』と消え入りそうな声を漏らし出した。
そして一通り何かを聞いた後、最後に『必ず・・・返します・・・。お・・・願いし・・・ます』と絞り出すようにして話し、震える手で受話器を電話の上に乗せた。
「条件は整ったな。
境探偵事務所主人、境幸之助だ。
お前の名を聞こうか?」
「ウチは・・・
一番高くてふかふかな椅子に乱暴に座ると、彼女、叶夢さんは綺麗な蝶のタトゥーが見えるように足を組む。
「安心しろ、金額に見合う仕事はしてやる。
さて、話を聞かせて貰おうか――」
雑誌に指を刺していた箇所へ栞を挟み込むと、探偵は少し低い椅子に座り直した。
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