第8話 事件を終えて(下)
私達は、探偵も引っ込んでしまった事だし場所を移すことにした。
境探偵事務所が入るボロビルを出て、すぐ近くにある昔ながらといった小さな喫茶店に入る事にした。
店の使い込まれた戸を引くと、カランと鳴るドアベルの音と共に珈琲の芳ばしい香りが鼻先を擽る。
中は時間が止まっていました。
トンネルを潜るとそこは――雪国。なんて昔母の口から聞いた事があった気がするけど、戸を開くとそこは――昭和。
異世界か、はたまた他の世界線に迷い込んだような奇々怪々に、勝手に浮き足立たされる。
「いやー、いつ来てもここは良いですなー。懐かしくって懐かしくって、まるで故郷に帰ったみてぇで落ち着きますよ、マスター」
手塚さんが手を挙げると、カッコ良くイートンコートを着た年輩のバリスタがそっと頭を下げた。
手塚さんはこの店来た事あるんだ――。
そっか、探偵事務所の側だものついでに寄ってもおかしくないわよね。
手塚さんについてカウンターの少し高い椅子に掛けると、『ブレンド2つで』と頼んでくれた。
巷では『映え〜』を求めて、個性あるオシャレカフェが増える中、こういうレトロな生粋の喫茶店は減る一方だし、それに何故か敷居が高い気がして今まで入った事が無かったけど、不思議と大人なのに大人になれた気がして、良い物を知れたと内心はしゃぐ私だ。
カウンター席のみの小さなお店は、観葉植物が置かれた窓の外よりも少し暗くて、天井から下がる照明はどれも、ステンドグラス風の花の形をした笠を被り、深い茶色に浮かぶ木目が美しいカウンターへ、オレンジの光を落とす。
壁にはモノクロの女性が写るポスターがチラホラと。文字の書体が時代を感じさせる。
その隣で大きな壁掛時計が絶えず振り子を揺らす。
もっと速いテンポだと思ってたけど、本物はとてもじっくりと時を刻むのね。
カウンターの向こうには、化学の実験で出てきそうな大小様々の繊細な機器や多彩なカップ。
それと、よく分からないけどレシート?ラベル?のような紙が、付箋を貼るみたいにマスターの背後の壁にぎっしりと貼り付けられている。
紙に目を凝らしていると、手塚さんが少し咳払いをして話を切り出した。
「さっき境が言っていた件なんだが――。
俺はあの後、境にある封筒を渡されてな。
表に簡単な地図が書いてあって、『ご遺体の場所だ、上手く使え』と言われたんだ」
それはきっとあの時、探偵に聞かれて晴美が書いた物だ。
「それから、『その後中身は、椎名晴美さんの職場の上司で、年齢は椎名さんより30上の既婚男性へ渡す事』ともな」
30上の男性って晴美のデートの相手じゃない!
でも既婚って――
「一体その人に何を渡したんですか!?」
予想だにしない話に、体は前のめりに答えを求める。
手塚さんは、私の食いつきっぷりに驚きつつも『まあまあ』と宥めて話を続けた。
「俺は、篠田の聴取に十分それを使わせて貰った後、境が言っていた人物を探そうと、被害者の勤め先を訪ねたんだが、探す必要も無くすぐにその男は見つかった」
カチッと音がして、見ると柔らかい湯気を上げた珈琲が置かれていた。
カップを置く小音に喫驚する程、気を張りつめていたらしい。
『全く・・・、折角の喫茶が台無しだ』
奴の声が聞こえるようだ。
言い返せない所が余計腹立たしい・・・
私は、何をしてるんだ・・・
恥ずかしさを押し流すように、珈琲へ砂糖を一欠片だけ入れて口へ運ぶ。
途端、幸せが口いっぱいに広がった。
温かい熱が甘味と共に喉を伝うと、舌の上にほろ苦さが広がり、豆の芳ばしい香りが鼻を抜けて行く。
「美味しい・・・」
言葉が勝手に口をついて出ていて、取り繕うようにマスターの顔を伺うと、少し微笑んで見えた気がした。
手塚さんは懐から、先程事務所で見ていた黒い革の手帳を取り出すと、手早く目的のページを開く。
「被害者椎名晴美が所属する部署の部長、西村58歳。妻と息子、娘を持つ大黒柱ってヤツだ。息子は独立、娘も立派に働いていて夫婦仲も円満ときた――まぁ、言う事なしだわな。
だが――」
「晴美に手を出したって事?」
なんだか呆れてモノも言えないわ・・・
晴美が知らなかったとしたら酷すぎる。
あんなにおめかしして楽しみにしていたんだもの――
それに、考え過ぎなのは分かってるけど、その約束さえ無ければもしかしたら、晴美は助かっていたかもしれないじゃない・・・
手塚さんは物憂げな顔で暫く黙った後、言葉を選ぶようにしてゆっくり話し出した。
「本人が言うには・・・魔が差したそうだ」
私は脇立つ怒りを押さえつける為に、強く拳を握る。
この珈琲が無ければ机を叩き付けて奮い立ち、手塚さんに掴みかかっていただろう。
そんな事は誰も望まないし、無意味な事――
「悲しいけど、ここに珈琲があってよかった・・・」
奥歯をかみ締めて漏らした言葉。
それを聞いて何を思ったのか、手塚さんは置かれたまま、まだ手付かずの珈琲を掴み取って一気に飲み干した。
「ちょっ、大丈夫ですか!?」
まだ少し湯気立つ珈琲を、しかもブラックで一気に飲むなんて危険にも程がある。
慌てて鞄からハンカチを差し出すが、手塚さんは『大丈夫、平気です』と言って再び手帳を開いた。
「俺は初めに、『探す必要も無くすぐにその男は見つかった』ってぇ言ったでしょ?
あれは、俺が被害者の勤め先を来訪した途端、酷く取り乱した彼がすっ飛んで来たからなんです。
それで彼、俺に言ったんですよ。
『椎名さん、椎名さんがずっと行方不明なんです!私の大切な、とても大切な人なんです!早く探して下さい刑事さん!お願いしますお願いしますお願いします――』
と、多く人が見てる中追い縋るもんだから困ったのなんのって」
黙りこくる私をチラリと見て、手塚さんは話を続ける。
「仕方ねぇてんで、場所変えて彼だけに事件の事を言える範囲で伝えると、今度は崩れ落ちるようにへたり込んじまってなぁ・・・
『とても良い子だったんです・・・
家族にも気にさえして貰えない、空気みたいな私に気遣って話を聞いてくれた。
あの子が居なかったら私は・・・今此処に居られたかどうか――
それなのに私は、御礼にって彼女を一人休日に呼び出すだなんて――、なんて馬鹿な事をしてしまったんだ!!』
そうやって、ひたすら自分を責め続けてたよ」
西村さんと晴美は付き合ってたわけじゃ無かったんだ。
「だけどあの時、晴美はデートだって――」
あの服装や西村さんを語る時の表情、どう見たって晴美は恋をしてた。
「そうだったのか――。
嬢ちゃん、俺は項垂れる西村さんへ探偵から預かった封筒の中身を渡したんだ。
それは有名旅館の宿泊チケットだった――
きっと椎名晴美さんは」
「分からない!分からないじゃないそんなの!!2人で行こうとして買ったのかもしれない!そうでしょ!?」
晴美は西村さんに会う日を、会う事をとっても楽しみにしてた。
ずっと片想いしてた人で――
大好きな人で――
やっと、やっと2人で会う事が出来て――
それなのに――
「駄目なんだ、嬢ちゃん――、
チケットは4枚入ってた。
・・・きっと、椎名さんはあの日お別れを言うつもりだったんじゃないか?
家族のある西村さんが、自分に傾きつつある事に気が付いちまった彼女は、自分ではなく家族を大事にして欲しいって、チケットを用意してたんじゃないかってな・・・」
『・・・うん、デートにはこれから行くの。ずっと片想いしてた人でね、歳が30も上なの。可笑しいでしょ?』
『何に誘えばいいのか分からなくて・・・今思えば彼もそうだったのね。
『椎名さん美味しいお肉食べに行かない?』
ですって!嬉しかった――。』
『だけど、待ちぼうけにしちゃった・・・。』
『彼、一人で食べてないといいんだけど――』
「晴美っ!!」
私は込み上げてくる涙を必死に抑えようと上を向いた。
彼女が私は雨じゃなくて晴れて生きて欲しいと言ったからだ。
だけど、彼女を思うと沢山のやるせなさが溢れて、止まらないんだ。
あんまりだ・・・こんなのあんまりじゃないか・・・いるのかも分からない神に問う。
だけど、私だって同罪だ。
彼女の優しさに甘えるばかりで、何一つ彼女にしてあげなかった。
探偵がしきりに彼女に謝っていた意味が、少し分かった気がする。
もし時間が戻せるならば、まだ彼女がこの世界にいる時に、誰よりも優しい晴美を、抱き締めてあげたかった――
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