automne
苦く重くるしい煙が肺を焦がす。心の奥底に重圧された鉛色の塊を解放するように、深くゆっくりと力を抜けば、不快感を帯びた紫煙が宙に漂う。
口内に残留する独特の味わい。苦み、辛み、渋み。舌をヒリつかせる味覚と痛覚の殴り合いは未だ馴染まない。
後味に違和感を覚えて唾を飲み込む。折角吐き出した毒素は確かな質量をもって、再び体内に蓄積された。
悪循環の抜け道を探して、いくつの失敗を重ねただろう。
この毒薬を心地良いと感じられたら、大人の階段を一歩上ったと周囲の見る目が変わるそうだ。
制限に縛られて自由を主張しても、誰かの定めた枠組みに収まるのが子どもに求められる生き方。自らの行動指針に従い新たなレールを敷くのは大人の特権。煙草に嗜好品としての価値を見出すことは、そんな登竜門の入り口だという。
枠を外してステップアップした世界の色めきに夢を魅て、子どもは口をそろえる。
ああ、早く大人になりたいと。
ひと吸いの余韻に浸りながら、自分なりの落としどころを手探りする。どれだけ不味いと毛嫌いしても、他者がそれを嗜む姿は魅力的に映った。
きっと巡りあわせが悪いだけで、理解を深めれば印象も変わるだろう。じわじわと進行する不完全燃焼を足もとに散らす。扱う手つきだけは妙に小慣れていた。
石畳の街に新たな灰が積もる。
色素を奪われた街景色に木枯らしが容赦なく吹きつける。ふと視線がさまよえば、冬の足音はすぐ傍に。十一月の終わり、見上げた空は曇天が日光を覆っていた。
日差しを浴びない日々が鬱憤を肥大化させる。何処に向けるわけでも、明確な意味を有するわけでもない、あやふやな感情は内に燃え広がる。
衝動的なうなり声は、しかし音に変わらず。食いしばる歯が出口を塞ぐから、有線ラジオの擦り切れたギター演奏へ一方的に託した。
言い表せない焦燥が胸をかき呼吸を奪う。もどかしい息詰まりから少しでも逃れようと、放置された木箱へぶつける。乾いた衝撃、手応えは軽い。通りすがりの初老が露骨に眉をひそめたが、それっきりだ。
くすぶっているのはなにも煙草の火種だけじゃない。秋の暮れはどうしても好きになれなかった。
薄暗い湿り気を帯びた路地裏から季節の移ろいを眺める。狭い入り口から覗く煌びやかな装飾が眩しい。ショーウィンドウはクリスマスシーズンに染まり、気の早いサンタクロースが足を止めた。先日までの仮装集団はどこに消えたのだろう。
やはり向こう側の住人には紛れないと、新品の一本に居場所を求める。父親のデスクからくすねたひと箱だ。中途半端な燃え殻を惜しまず乱雑に踏みにじれば、地面との摩擦で消火する。
同年代の仲間は皆好みの銘柄を持ち歩き、時折情報収集といわんばかりに交換して見解を深めた。一人だけがその輪に入れず、興味のないふりをして人とは違う自分を精一杯に演じる。苦手が発覚すれば、揶揄われる未来が目に見えているからだ。
もうじき迎える十六歳の誕生日。残された一週間で煙と和解すべく、人目を盗んだところで今日も対話に勤しんだ。
微かな息遣いが乾いた冬の空気を白に変える。
誰も立ち入らないと油断していた。突然の気配に胸は鼓動を速めたが、それを悟られる程間抜けなことはない。
努めて素っ気なく、自然なままに視線だけを動かせば、小さな客人が足元のコンクリートを見つめたまま、同じようにレンガ調の建物へ背中を預ける姿がそこにあった。
あどけない瞳はどこへやら。眉にしわを寄せ、伏し目気味に抑えた双眼は物憂げな路地裏の雰囲気に溶け込んで……いるのか。まるい右の手を人差し指と中指でなにかを挟むように口元へ近づけて、短い吐息とともに前後させる。
「ぐらんぎにょーるな世の中だぜ」
意味は分からないが、おそらく本人なりの渋い人物像を演出しているのだろう。ぐるりと首が回り目と目で通じあう。数秒の沈黙、少女はメッセージを受信したらしく訳知り顔で頷いてみせるが、一方通行の思いこみとは気づいていない。
「いつ来た」
知り合いには見られたくない姿を、よりにもよって隣人の少女に遭遇するとは。いたたまれない空気に、滑る言葉は無意識に地を這う。
「物をけるのはよくないと思うぜ」
少女の手つきが自分の動きと重なり、それが煙草の吸い真似だと察する頃には羞恥心が耳まで染めた。
屈み込み少女の高さに目線をあわせる。眉間をぐりぐり弄り回しごっこ遊びの終わりを促せば、まっすぐ悪意のない無邪気が追い打ちをかける。
「ジルのまねなの! アヤ、ものまねうまいんだよ」
歳不相応に格好づける振る舞いは、年長者からすれば微笑ましいもの。他者は自身の鏡とはよく例えたものだ。花を咲かせる少女とは正反対に、嫌な冷たさが背筋を凍らせる。思い返せば思春期全開の行いに、ほてた頭を覆った。
形にならない声を発してうなだれるジルなどお構いなしに、少女はどこまでも愛らしく残酷だ。
「タバコって体にいけないんだよ! あのね、先生がいってたの。ジル知らないの?なんでタバコやるの?」
純真な心をもつが故の素朴な疑問。児童特有の「なんでなんで」攻撃はぐうの音もゆるさない。気のきいた一言で言いくるめられたら平和的解決に導けるが、生憎年頃の少年とは理性より先に口がでる不器用な生き物だ。
「……口寂しいからだよ。お前にはまだわかんねぇだろうけど」
こぼれた舌打ちがさらに重みを加える。「お前には」と主語を用いるが、第三者からすればば自分も同列だと、わかってはいるのだ。
回答に納得したのか、あるいは理解するつもりが無いのか。ふうんと興味なさげに適当な相槌を打つと、少女は肩に掛けた焦げ茶のポシェットを漁り始める。
唐突な成り行きも見慣れたもので、今度はなんだと煙を上げたばかりの煙草は役目を終えた。流石に少女の前で吸い続けるのは気が引ける。
ポシェットから意気揚々と現れたのは、水色とピンクの着色料が目に痛いロリポップキャンディ。この近くで一風変わった菓子を取りそろえるワゴンショップの商品だ。実際はキャンディ型のチューイングガムで、少女が好んでくわえている姿はよく見かけた。
地元の子どもなら誰でも一度は食べたことがあるだろう。妙に味が薄く微妙な食感のお菓子にリピーターがつくのは珍しいけれど。
せっせと袋を破りかぶりつく幸せいっぱいのオーラを、ジルは共感できない。
一瞬、口寂しいへの答えにガムを寄越すのかと思った。物乞い思考が届いたのか、瞼をぱちくりさせると自慢気な口角が釣りあがる。
「カンジのテストでお花もらったの! だからね、ごほうびなんだよ。ジルにはだめ」
「いらねえよ。……アヤって運動と語学はできるよな」
計算問題はてんでやる気が出ない様子で、十本指の使いこなしだけが磨きかかる現状を打開しようと、ジルが家庭教師に任命されるのも日常風景だ。
その分両親の母国にあたる日本語と、少女の母国になるフランス語の扱いは器用だった。家庭内では日本語でコミュニケーションをとり、定期的に現地の身内とエアメールを交わしているそうだ。教育の賜物だと、自国愛に寄りかかるだけのジルは素直に感心する。
不機嫌な空模様がいくらぐずつこうとも、たくさん褒められてご満悦のほころびが、薄暗い路地の隙間に光を差しこんだ。
「さびしいなら、アヤがいっぱいおしゃべりしてあげるね」
塵屑にまみれることも厭わない。灰の空間に居座る少女は、さあどうぞと隣のコンクリートを手で叩いた。
寒空にくすんだ片隅も暖があれば案外悪くないと思える。
少年心とは、自認するよりもずっと変動しやすく繊細なものだった。
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