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 じっとりと湧き上がる憤りの熱量は、首へ回したタオルの重みに変わる。


 薄手のシャツから伸びる腕が、夏の日差しにじりじりと焼きつく。どうせ日焼けをするなら、眩しい青の海を眺めながらビーチサイドで優雅に過ごしたい。自宅の庭で浴びる安っぽい太陽など誰に自慢できようか。


 男のうなじに垂れる汗はクールで爽やかな印象を与えるらしい。

 姉の愛読書であるファッション雑誌の女とは相容れそうにない。スポーツで流す汗と不当な労働の副産物では価値が違いすぎる。


 否、彼女たちが口にするのはもとより「狭義の汗」なのか。それなら納得だ。

 つまらない外仕事を強いられれば、八つ当たりに似た噛みつき癖もひどくなる。

 普段なら気にも留めない話題ですら、腫れあがった神経には十分な刺激だった。


 ああそうだ。すべてポールの責任だ。趣味の悪いサングラスで隠した他人を小馬鹿にするあの目つき。拭いさろうにもタオルは脳裏に届かない。今頃は弟に後始末を押しつた同じ口で、道行く女に声をかけているのだろう。


「取れた球だろ。どんくさいお前が悪いんだから、ちゃんと親父の機嫌をなおしとけよな」


 去り際の憎たらしい言い分が感情を逆なでする。衝動的に振り上げた足は見境なく辺りを蹴散らそうとして、けれどわずかに勝る理性がそれを宥めた。

 物にあたるのは良くない、といった道徳心はカラーボックスの底で眠っている。力任せに行動すれば父親の車に新たな傷を生むだけ。今度ばかりは兄弟間での押しつけあいもない。十人が十人口を揃えて責め立てるのだ。言い逃れの時間は用意されない。


 昔からそうだ。ポールに関わるとロクなことにならないと、ジルの身に痛いほど染みていた。


 早朝から行列に並び手に入れたゲーム機。毎週欠かさず視聴していたドラマの最終回録画。コツコツと貯めた小遣いが形を変えた念願のモデルガン。


 それらが台無しになったとき、大体はポールの影が潜んでいた。浮ついた態度の謝罪にも価値があるのは初回のみ。

 一年早く生まれたというだけで権力に格差などあるものか。積もりつもった恨みの種が反抗心を咲かすのは当然だと、ジルにとって兄の評価は最底辺にあった。


 厄介なのはいくら嫌悪感を向けられようと、弟にちょっかいを出したい兄心は揺るがないところだ。火に油を注ぐ関係に、長女は我関せずとマイブームのファッションデザインに精を出す。


 バスティード家は毎日元気が絶えないのと、路上のご婦人は微笑んだ。


 ポールが投げ寄越した球は軌道をそれて、ジルの背後に駐車していた車へ吸い込まれた。ぐしゃり、不愉快な音と共に雷が落ちたのは言うまでもない。

 罰として「二人」に洗車の刑が言い渡されたが、前述の台詞を残して姿を消した兄は、ほとぼりが冷めるまで帰ってこないだろう。


 蛇口からホースをつなぎ盛大に水をかける。泡だらけのスポンジで車体を磨くのは、慣れてしまえば思いのほか楽しさを見出せた。茶色に濁るバケツを入れ替えるのは達成感すらある。状況にあわせて感覚を麻痺させる防衛本能でも働いているのか。成程、洗車は社会勉強の一環だ。


 やる気が失せるのは終盤、水のふき取り作業だった。汚れが落ちればいいと何も考えずに手を動かすのとは違い、ふき取る方向のひとつにだって気を遣う。

 拭い跡を残せば口喧しい父親は容赦なくやり直しを突きつけるから、念入りな確認が求められた。


 本当なら今頃仲間内で集まり、冷えたアイスで気を休め、中身のない会話で適当に盛り上がっているはずだった。似た者同士が集まる居心地の良い空間が恋しくなれば、親に叱られて命じられた罰を真面目にこなすのが馬鹿らしくなってくる。


 ――もういい、すぐに終わらせよう。二度目など知ったことか。


 悪魔の天秤が傾き、目に見えて雑な働きに切り替わる。それらしく拭き上げた車体はさっぱりとした輝きを放つが、どこか不満足を訴えていた。


 ぽんっとラムネの弾ける小気味よい音色。


 後片付けの手が止まり音の鳴る方へ振り返れば、フェンス越しに続く隣家の庭に一人娘の少女がいた。


 上機嫌な足取りがポップな鼻唄にあわせてリズムをとる。リビングの窓から真っすぐ行進してきた少女の後ろには、空気の抜けたビニールの物体が力なく引きずられていた。

 庭の中心で停止するとビニールをまさぐり、おもむろに一か所を口に含める。白と黒の鮮やかなペイント、少女の身の丈より一回りも二回りも大きいそれを一体どうしようというのか。


 子どもの動きは常に予想の斜め上をいく。見ていて飽きないまま次を待っていると、ジルと同じようにホースを引っ張りだして先を細めた。狭い穴に水流が走るのだ。ビニールへ向けた勢いは綺麗な屈折をえがき、近づきすぎた少女の額に返ってくる。 


 こうじゃない。望んだ結果に恵まれず、水道を止めようと離したホースはヘビに変わる。吸水の追いつかない芝の上に水たまりができたころ、乾いた金属音とともにようやく静まりを迎えた。


「うーん……ふくらまない」


 どうにかしてビニールを膨らませようと、小さな頭がうんうん唸る。


「エアーポンプ使えや」


 不可思議な一連の行為にも目的はあった。大人だって直接吹き込むより器械を用いることだ。ふいに降りてきた助け舟、夏に色めくポニーテールが嬉々と揺れた。


「ジルも海いっしょにいこ!」


 フェンスから身を乗り出す顔にはまだ水滴が残っている。手持ちは車を拭いたタオルのみ。そこまで意地の悪さがあるわけじゃないと、指先が肌をすべる。


「お母さんがシャチのボート買ってくれたの! ジルものせてあげるね」

「ああ、あれボートか」


 直射日光の下で干からびている物体は、そういわれると海辺でよく目にする黒白の形をしていた。

 海……海。冷たい海水にたゆたう波の上。のんべんだらりと日頃の疲れを癒していれば、陸の人影は知らぬ間に彼方へ遠ざかる。


 ビーチサイドでくつろぐのは構わないが、浮き輪やボートの類ときたら、幼い頃沖に流されたトラウマがよみがえる。あの時も提案者はポールだった。便乗する姉とともに嫌がる弟を無理矢理連れ出すと、三人仲良くボートにまたがり冒険に繰り出したのだ。


「ジル?」

「オレは遠慮しとくわ」

「えーやだ! アヤとシャチであそんでよ」

「ジルは遊ばないの」

「ジルとあそぶの!」


 どちらも譲らない掛け合いは、誤魔化すような手の平が髪をかき混ぜることで終止符を打った。折角の結び目が崩れていないか、幼くともレディの心得を身につける少女の手櫛は忙しない。


「右の方はねてんぞ」


 忠告を聞き左へスライドする指先を直接掴んで誘導した。


 日本人夫婦が隣に越してきたのは、ジルが丁度少女と同じ年頃のときだった。

 芸術の本場フランスで画商を経営する夫婦は多忙な毎日を過ごしているようで、その子どもが遊び相手を求めて近所の兄貴分に懐くのは理由も時間もいらない。


 日本人とフランス人では労働意識に差があるらしい。日本の有給取得率を聞いたとき、ジルは絶対に日本では働かないと胸に誓った。社会環境に溶け込める自信がまるでない。


 そんな働き者でもバカンスは悠々自適なひと時を過ごすのだろう。久しぶりの家族水入らず、邪魔するつもりはないのだ。


「ちょっと待ってろ。ポンプ……どっかにあったな」


 だからこうしてひと匙のお節介を。まったくの無関心でいられないのは、自分にひっつく妹が可愛いから。

 そもそも弟妹には親切に接するべきだ。主張は本人まで届かない。

 裏へ踏み出した足は、浮かんだ疑問符を確かめるべくその場にとどまった。


「今日出かけんのか?」


 近場の海でも車で一時間はかかる。今から準備をするにはやや遅い時間帯だが。


「こんどの土曜日だよ」

「もう空気入れてどうすんだよ。邪魔だろ」


 正確なツッコミ。

「だって早くのりたいんだもん」と口を尖らせる少女は、無言の訴えでビニールボートを指差した。

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