おとぎに眠るシュガーナイト
涼瀬いつき
printemps
春特有の甘いそよ風は、重なりあう複数の事象でその味わいを深める。
薄氷が割れた小川のせせらぎ、新天地に期待を抱き訪ねた旅人の足音。冷たい白の季節に埋もれ焔を鎮めた生物の腐臭、控えめなノックに耳を傾ければ雪解けの合間から萌黄色の息遣い。
それらを掠め取りひとつになった香りがやわらかく世界を包み込む。時折いたずらに草花を揺らしては擦り合う音で唄を奏で、羽休めをしていた蝶々はひらりと飛び立った。
天を仰げば絵本からくりぬいた空色がどこまでも果てしなく続いている。気ままに漂う白雲をすり抜けて、穏やかな陽気が草原へ降り注いだ。
シエスタへの誘い。抗えない魅惑の手に働きアリの足が止まる。
人々の暮らしから離れた場所に位置する丘の上は、街の喧騒も届かず自然界の静寂で満たされている。人間の足が踏み入ることはあまりなく、野生の生き物が主導権を握る空間はどことなく緊張を覚えた。
頭上を追い抜く小鳥が仲間に来訪者を知らせる。さえずりに視線を上げれば吹き抜ける風が優しく頬を撫でた。
歓迎されているのだろうか。彼らに問いかけても答えはない。
緩やかな坂道をのんびりとした足取りで上がっていく。胸いっぱいに吸い込んだ空気は嫌な混じり気もなく、すとんと中心に落ちた。
心地よい休日の昼下がり。横になれば幸福な夢の世界が待っている。
つい欲求に負けそうになるが、いまは昼寝場所を求める猫ではない。
本来の目的を探して周囲を見渡す。その先に捉えたひとつの影に一度歩みをとめた。
真夜中の青を掬い上げた髪、一心に手元を見つめる瞳はあたたかな紫をにじませると、少年はよく知っている。
幼い少女は乳白色のワンピースが汚れることも気にせず地面へ座り込み、まるい小さな指先を黙々と動かしていく。足元に咲いた白い花を摘まんでは編み込み、摘まんでは編み込み。そうして出来上がった花冠を満足げに掲げると、脇へ並べて置いておく。
大小異なる歪な冠はすでに三つもあるが、少女の創作意欲はまだまだあふれて仕方ないらしい。
よっぽど集中しているのだろう。少年の気配に気づかないまま、次はどんなものを作ろうかと思案する様子に、彼も声をかけるタイミングを逃していた。
なにやら閃いたのか少女はすっと立ち上がり、今度はクローバーをあさり始める。
ここだと名前を呼びかけたとき、ひときわ大きな風がふたりの間を駆け抜けた。
視界にふわりと浮かぶ紺のリボンがなびく帽子。少女がいつも被っているもの。
――飛ばされないように、ちゃんと顎ひもをつけるのよ
少女の母親がよく口にする言葉だ。ほれ見たことか、転がってくる帽子を受け止めて土を払ってやる。あとを追いかければ少年と少女は必然的に出会う。
いつの間に来ていたのか、そんな疑問はぽいと投げ捨てて、元気な一歩を踏み出し……草根っこにつまづいて地面に倒れるまで流れるような動作だ。
「なにやってんだか」
つっぷした少女の頭にぽすんと帽子をのせる。泣きべそのひとつでも上げるかと思いきや、子どもは案外しっかりしているものだ。
勢いよく立ち上がり身だしなみを整えると、きちんと被りなおした帽子の下で太陽にも負けない笑みが輝いた。
「ジルだー! いらっしゃあい」
足元にぶつかる僅かな衝撃。少女の突進にも慣れたもので、適当に力を受け流せば格好悪くよろめくこともない。
十五歳になる少年は同年代の中でも頭ひとつ背が高く、十も歳の離れた幼子と会話をするには身長差が邪魔をする。
それは少女にとっても同じようで、隙あらば身体をよじ登り顔を近づけるから、今回は先に腰を下ろした。
当然のように胡坐の上へ収まる少女だが、あどけない瞳に映る自身の顔を覗き込んでしまえば、文句に開いた口は呆れ混じりの息をついて終わってしまう。
「あのね、さっきお花でたくさん作ったの。見てみて」
落ち着いた矢先、弾丸のごとく飛び出していく後ろ姿にまた転ぶのかと心配するも、どうやら杞憂らしい。明らかに地面を意識した走り方がどうにも可笑しくて口元を押さえていると、こてんと首が傾げた。
「おもしろいことあったの?」
「なんでもねえ」
「ふうん。ねっ、これ作ったの!」
子どもの興味などすぐに移ろう。
手の平に乗せられた花冠は間近で見ると一回りサイズが小さく、少年が身につけるなら冠より腕輪にする方が丁度良い。
「ひとつあげるね、ひとつだけだよ。えっと……今みっつあるから、もういっこ作ったらアヤとお父さんとお母さんとジルでおそろいにするの!」
スカートを翻し無邪気に跳ね回る無垢の象徴。
このまま大きくなればいいのに、なんて願うにはどちらも若すぎるだろうか。
プレゼントの花を腕にとおす。こぼれた慈愛は冠制作に夢中の少女まで届かないから、真っすぐ草の根に吸い込まれて。
最近母親から教わった花遊びは、少女の中で目まぐるしい進歩を遂げていた。先日は茎を無理矢理丸めて指輪だと喜んでいたのに、今では器用な指さばきで次々と新作を生み出すのだから、可能性に驚くばかりだ。
絵本で読んだ「幸せのクローバー」を探すのだという。所謂四つ葉のクローバー。
いつも持ち歩くことで幸運が舞い込んでくると、絵本の主人公はペンダントにいれたが、どうせなら冠にしようと意気込みは熱い。
無遠慮に花をかきわける人間の手に驚いたテントウムシが、逃げ道を求めて少女の爪先を目指した。反射的に手の中に閉じ込めてしまったが、さてどうしようと助言を求める視線が少年を見つめる。
「テントウムシってどれくらい大きくなるの?」
「あー……こんくらい」
握りこぶしを突き出し眼前でぱっと開けば、小さな肩がびくりと反射して指をほどく。これ幸いと羽を広げたテントウムシはそそくさ逃げ出した。
「どんまい」
家で飼うと言い出したら面倒臭い、少年の考えが態度に表れていたのか、不満ありげに膨らんだ頬が膝をたたく。笑い混じりの誠意ない謝罪など少女にはお見通しだった。
ひどいひどいと赤く染まるふくれ面を人差し指が押し込む。子ども特有の肌触りが、されるままに沈みこんだ。
「つうかさ、わざわざ花遊びに来たのか」
クローバーつきの特別な花冠を完成させると、若干忘れかけていた用事がふと口に出る。少年とてなにも草いじりをするため、貴重な休日を費やしたわけじゃない。
頼まれごとをした配達員の日だ。うっかり少女のペースに巻き込まれたのは否定できないけど。
返答のわかりきった意地悪な質問だが、生憎少女の頭では含まれた意味をくみ取れないので、予想通りの一言が疑いもなく引き出される。
「ううん。あのね、お母さんがクリームパイをやいてくれたから、お父さんにも持ってきたの。でもいそがしいからちょっと待っててって。いっしょに食べるから、じゃあお外にいるねって!」
ここから少し下ったところに、一軒の古びた小屋がある。長らく無人小屋として放置されてきたが、数年前少女の父親が所有権を得てからは、彼のアトリエに生まれ変わった。
自然のスケッチや風景画に最適で筆が止まらないと張り切っていたが、その実作品の大半は人物画……もとい妻や娘を描いたものが多い。
一生懸命な説明とともに腹の虫が情けなく悲鳴をあげる。おやつの時間が近づいて辛抱ならんと寝転がり、ごろごろ暇を持て余す。
一度描き始めたら止まらないの。段々と不満をあらわにする少女は、まだ失態に気づいていない。
「クリームパイね。……それ、どこ置いてきたんだ?」
ぴしゃり。冷たい水が時間を止める。
少女の所持品は帽子とたくさんの成果物だけだ。甘くておいしいデザートなど辺りを見渡してもどこにもない。いつもならレースのついた木製のバスケットに詰めているはずだ。
母親に届け物を託されて、早く食べたいという気持ちに急いだ結果、クリームパイだけが玄関先へ置き去りに。
容易に想像できる一部始終、口を閉じはりついた表情にひんやり汗がつたう。
少年が出先から帰って来たとき、家の前で出くわした少女の母親からおやつの配達をお願いされた。家でゲームをするだけだったから、二つ返事で了承したのだ。
後ろ手に隠していたバスケットをわざとらしくずらしてみせる。やってしまったと落ち込む時間が再び秒針をきざんだ。
這うように少年の後ろへ回り込むと、レースのバスケットは逃げるように前方へ。ならばと前へ移動すればまた後ろに。
くるくる、くるくる。
単純な動きでさえ少女にとっては楽しい戯れのひととき。
幼いはしゃぎ声が原っぱに響き渡る。賑やかに引き寄せられた野ウサギがひょっこり姿をだしたが、今出て行ったら人間のおふざけに巻き込まれると、再び草の中に引っ込んだ。
木々のざわめき、薄桃色の花びらが朗らかな間に舞い落ちる。
新たな足音を聞きつけた小鳥は、どこかうんざりとした様子で羽をひろげた。
「ふしぎね、ふしぎだわ。どうしたって春の日はお客様がおおいこと。ニンゲンさまも寒い冬はねむって過ごしたのかしらね」
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