おばあさんのメヌエット
増田朋美
おばあさんのメヌエット
おばあさんのメヌエット
今日も、相変わらず寒い日が続いている、ヨーロッパ大陸であった。相変わらず、毎日雪が降って、木の上には雪が積もるという日々であるが、どこの世界でも、普通に生活は行われているし、特に、生活が崩れるということもない。時には、大雪で立往生したりすることもあるけれど、それでも、頑張って生きているというのは、どこの世界でも同じである。
ただ、心が病んでしまって、力が出ないということは、比較的、多い国と少ない国で大差があるようである。其れから回復するのには、どれくらいかかるかも、国によって全然違うことが多い。治療法が、しっかり確立している国家もあるが、そうではない国家のほうが多いのが実情かもしれない。
「あーあ、どうしたら、いいものかな。あたしも、わからなくなっちゃったわ。」
客用寝室のドアを閉めながら、トラーは杉ちゃんに言った。
「ごめんねえ。」
杉ちゃんの方が、頭を下げてしまうくらいである。
「そんなこと、杉ちゃんがする必要はないわ。悪いのは、水穂でしょ。あたしたちが、一生懸命食べさせてるのに、食べる気がしない、食べる気がしないって、顔を変なほうへ向けちゃう。」
「いわゆる、拒食症とか、そういうやつかな?」
杉ちゃんは、大きなため息をついた。
「そこらへんは、あたしもよくわからない。すくなくともこっちでは、日本で体験したような、人種差別は、絶対にない。」
確かに彼女の言う通りでもあった。少なくとも、水穂さんがここで同和地区の出身者はどうのとか、そういうことを言われることは、絶対にない。そもそも、ヨーロッパには、同和地区なんて物は存在しないのであるから。
「だから、こっちに来てくれたら、思いっきり羽を伸ばしてもらいたいって、お兄ちゃんもあたしも思ってるんだけど、水穂には、通じてくれないのかな。」
トラーは、食器をもって歩きながら、そういうことを言った。
「まあねえ。僕もそう思ってるよ。水穂さんが、良くなるためには、日本から離れることが必要だから、こっちへ来させてもらっているわけだしね。日本には、どこに行っても、同和問題で騒がれることは、避けることはできないからね。それじゃあ、こっちで療養して、ゆっくりしてくれって、マークさんもお前さんも、歓迎してくれるなんて、幸せなことはないんだけどねえ。その辺、気が付いてくれていないのかなあ。」
杉ちゃんはがりがり頭をかじってそういう事を言った。同時に、玄関のドアががちゃんとあいて、マークさんが帰ってきたことがわかった。と同時に、
「今晩は。今日は仕事が早く終わったので、来させてもらったよ。」
と、心配そうな顔をして、チボー君がモーム家に入ってきた。バイオリニストとして、楽器屋さんの付属の音楽教室に勤めているチボー君は、時々、心配だからと言って、モーム家にやってくる。こういうところが、ヨーロッパ人ならではかもしれない。気になることがあると、どんどん他人の家を訪問してしまうところだ。
「で、水穂さんは、どうしてる?」
マークさんが、上着を脱ぎながら、トラーに聞くと、
「寝てるわよ。さっきご飯をたべさせたけど、まったく口にしてくれなかったわ。又食べる気がしないんだって。もう、それが何日続いていると思っているのかしら。」
トラーは、ため息をついて答えた。それを見て、チボー君のほうが、心配そうな顔になる。と、同時に、客用寝室から、激しくせき込む声が聞こえてきた。マークさんは、やれやれまたか、という顔をする。
「あたし行ってくる。」
と言ってトラーは、直ぐに客用寝室にすっ飛んでいった。チボーも、心配そうな顔をして、彼女の痕についていった。
「相変わらずああなるんだよな。まったく、水穂さんも困るよ。ああして周りのやつらを困らせておいて、自分はご飯をたべようとしないんだからな。」
杉ちゃんがデカい声で言うと、
「いや、重い病気を抱えた人に、そういうことは、いっちゃだめだよ杉ちゃん。いくら水穂さんがひどい症状を出したとしても、僕たちは、やれることをやらなくちゃ。放置するなんて、そんなことしたら、それこそ、日本語で言うところの、言語道断っていうんじゃないの?」
と、マークさんが言った。
「西洋人らしいなあ。」
と、杉ちゃんが言った。確かに西洋人は、世間が自分を見るのではなく、神様が自分を見ていると考えるため、他人を放置しておくことは、罪だと考えているから、そういうことを言うのである。それだからこそ、水穂さんのような人は、西洋にいた方が良いとされるのだ。
「そんなことは、東洋でも西洋でも関係ないよ。どんな人であっても、生きるということだけは、平等にあるんだから、それに違反させるようなことは、してはいけないと思う。」
「じゃあどうしろっていうんだよ。」
マークさんの発言に、杉ちゃんが食って掛かった。
「どうしろって、僕たちができないことなら、誰かに頼むしかないでしょう。お医者さんだったり、カウンセリングの先生だったり、そういうひとに何とかしてもらう。其れだって当たり前の事だ。」
「はあ、外部の人かあ。其れは難しいなあ。専門家ってのはよ。水穂さんの気持ちをわかるようでわからないやつらだからねえ。大体そういう偉い奴は、みんな恵まれたエリートで、水穂さんのようなみじめな気持ちをわかってくれるような奴はいるかなあ?まあ、確かに、勉強はしてるからさ、知識はあるけれど、水穂さんの気持ちに沿ってくれるような人は、いないと思うよ。」
杉ちゃんは、腕組みをしてそういうことを言った。
「そうだねえ、、、。」
マークさんも、それを見落としていたなと考え直した。
「確かに、水穂さんに体当たりで見てくれるという人は、難しいかも。日本ほどではないとしても。」
同時に、客用寝室では、水穂さんがせき込んでいる声が、まだ聞こえてくるのだった。トラーが、飲んで!と言っている声も聞こえてくる。
「やれやれ、水穂さん、少しもよくなる気配がないな。」
と、マークさんが言った。
「それどころか、ますます弱っていくようだな。」
と、杉ちゃんも言った。其れから数分間、客用寝室から立て続けに激しくせき込む声が聞こえてきたのであるが、次第にそれも静かになった。
がちゃんとドアを開けて、トラーと、チボー君が戻ってくる。
「どうだった?」
とマークさんが言うと、
「ええ。やっと静かになってくれたけど、吐き出させるには苦労した。だんだん、ひどくなるわ。多分きっと、ご飯をたべないから、体力が出ないのよね。其れで、だんだん自分の事を何とかするのもできなくなっていくわけだわ。」
トラーは、大きなため息をついて言った。
「多分、彼女の言う通りだと思いますよ。年より見ればそうなるってわかるじゃないですか。年をとれば、誰でも、弱っていって、自分を何とかするのも難しくなっていく。」
チボー君がそういうと、
「でも、あたしは、そうは思いたくないわね。年をとると、誰でも弱っていくというのはあるけれど、水穂の場合は、それを食い止めることだってまだできるってことを、忘れてはいけないと思うの。ご飯をたべれば、まだ、元に戻る可能性だってあるわ。あたしは、まだ可能性があるって、信じてる。だから、これからも、水穂の世話はつづけるわよ。」
トラーは、一寸疲れた顔で、でも、笑顔をつくってそういった。
「そんなこと言うなんて。」
マークさんは、驚いた顔でトラーを見た。
「どうしたの、マークさん。」
杉ちゃんが聞くと、
「い、いやあねえ。去年の冬には、トラーの口からこんなセリフが出るとは思いもしなかったよ。去年の冬は、疲れたとかもう死にたいとか、そういうことばかり口走っていた彼女が、水穂さんの事で、どうのこうのというようになった。去年の冬とは全然違う。いやあ、ものすごい進歩だ。」
と、マークさんは答えた。
「いやねえ。お兄ちゃん。あたしは、そんなこと言っていませんよ。ただ、分別するなといったのは
お兄ちゃんでしょ。それに従って、生きてるだけよ。」
トラーは、にこやかに笑ってそういう。其れを見てチボー君の表情が変わった。チボー君としては、トラーを病院に入院させてあげて、楽にしてあげた方が良いと思っていたのだった。でも、彼女は、水穂さんの世話をすることによって、トラーの妄想の症状は激減し、考えもまえむきになっている。
「さ、又目を覚ましたら、ご飯をたべさせなくちゃね。いくら食べなくても、ご飯は作ってあげなくちゃ。そこはちゃんとしないと、神様からお咎めが来るわ。」
「よかったなあ。」
マークさんは、目に半分涙を浮かべた。お兄ちゃんはつらいなあと杉ちゃんがからかっている。其れを見た、チボー君は、何だか複雑な気もちになってしまった。
「とにかくね。食べさせるには、好きな食べ物から始めて、少しずつ量を増やしていくことだって、ベーカー先生が言ってたわ。水穂の一番好きな食べ物は何?」
確かに、拒食症の治療として、そういう食事療法がおこなわれることが在る。
「そうだねえ。焼き芋と、いも切干かなあ。」
杉ちゃんがそういうと、
「それはどのようなものなんでしょうか?」
と、チボー君は聞いた。
「焼き芋ってのは、サツマイモを焚火であぶって作るんだ。芋切干は、サツマイモを天日で何日も干して乾燥させてつくる菓子だよ。」
杉ちゃんが説明すると、チボー君は手帳を開いて、芋切干についての説明をアルファベットで書き始めた。
「焼き芋ねえ。家の庭で焚火をすることは、こっちは火災予防で禁止されているんだよな。其れに、こちらでスイートポテトは、お菓子屋さんに行かないと売っていないよ。」
マークさんは、また考え込んでしまった。
「肉料理は絶対厳禁だし、野菜ばっかり食わしても、体力はつかないよなあ。」
「まあ、野菜スープでも食べさせて、薬をちゃんと飲ませるしかないわ。電子オーブンで焼き芋をつくることはできないし。」
トラーは、自分でそれでも頑張ろうと言い聞かせているような感じの顔でそういうことを言った。有名女優の、ヴィヴィアン・リーによく似た面持ちのある彼女は、考え込んでいる顔でも、泣きそうな顔でもすごくきれいだった。お兄さんのマークさんが平凡な顔つきなのに、まるでトンビが鷹を生むという言葉がぴったりだった。
そんな彼女を見て、チボー君はある事を決断した。
翌日。マークさんはいつも通り仕事に出かけていった。トラーは杉ちゃんに言われた通りのやり方で、野菜スープを作って、水穂さんに食べさせようと試みる。包丁何て碌に持っていなかったトラーであったが、なかなか包丁さばきもうまくなっていた。
二人は、客用寝室に入ると、水穂さんはまだ眠っていた。薬で強制的に眠らされているのか、それともみじめな思いを眠って忘れようとしているのか、よくわからなかったけど、眠っていた。トラーとチボー君が買ってきた、手作りの布団の中にくるまっている。
「水穂さん起きてくれ。ご飯にしよう。」
と、杉ちゃんに言われて、水穂さんは、目を覚ました。起きようと思ったが、げっそりとやつれていて、それはできなかった。
「無理なら、寝たままでいいわ。其れより、ご飯をたべて、体力をつけましょうよ。日本ほど、お米がおいしい国家じゃないということは知ってるから、野菜スープで我慢してね。そば粉も直ぐに入手できるわけじゃないし、直ぐにそば切りもつくれないから、申しわけないけれど、これ食べて、元気をつけましょうね。」
トラーは、ベッドサイドテーブルに、スープの器を置いた。
「ほら、食べて。食べないと、体力がつかなくなって、歩くことだってできなくなっちゃうわよ。それじゃあ、嫌でしょう。」
と言って、トラーはスープのおさじを水穂さんの口元にもっていこうとするが、水穂さんはまた反対方向に顔を向けてしまうのだった。
「水穂さん、食べる気がしないじゃなくてさ。こっちに来たんだから、もう同和問題の事は気にしないでもいいって開き直って生活したらどうなのよ。」
杉ちゃんが、一寸むきになってそういうが、水穂さんはご飯をたべようとしなかった。トラーは、おさじを水穂さんの口元におさじを持っていくことを、十回くらい繰り返したが、いずれも食べ物を食べようとはしなかった。トラーはどうしたらいいのだろうという顔をしている。水穂さんも表情が少し変わって、だんだん苦しそうな顔に変わってしまった。やがてせき込む顔を変わっていく。トラーと杉ちゃんは、急いで彼の背中を撫でてやったり、薬を吸い飲みで飲ませたりしてやった。薬というものは、副作用が必ずあるもので、急激に眠気を催してしまうようになっているらしい。水穂さんは、薬を飲むと眠ってしまうのだ。
「今日は、寒くなるようだから、布団をたくさんかけてあげるから、静かに眠ってね。」
トラーは、布団をクローゼットから出して、水穂さんに掛けてやった。
「それにしても今日も失敗か。いつになったら、食べてくれるんだろうかな。」
杉ちゃんがあきれた顔をして言う。眠ってしまった水穂さんを見て、杉ちゃんとトラーは、どうしたらいいのかわからないという顔をした。その日は、実に湿っぽい日だった。一応、二人とも客用寝室から出て、トラーはテレビを見て過ごした。面白いアニメをやっている時間帯だったが、何も面白く無かった。杉ちゃんのほうは、こちらで購入した布で、着物を縫っていたが、やはり楽しそうではなかったのである。
テレビの音なんて、ほとんど聞こえなくなった時、インターフォンがなった。あら、誰かなと、杉ちゃんが急いで玄関先に行ってみると、そこにいたのはチボー君だった。
「どうしたのせんぽ君。そんな慌ただしい顔して。」
と、杉ちゃんが言うと、
「いや、先週オープンしたばかりの百貨店で、日本食の売り場を設けてくれているところがありましてね。昨日話してくれた食べ物は、これじゃありませんか?」
チボーは、カバンの中から、芋切干の入った袋を取り出した。白い粉砂糖が降りかかっているのは日本の芋切干と違うが、確かに、芋切干が入っている。
「おお!まさしくそれだよ。良かったあ。水穂さんも喜ぶよ。さ、上がって上がって。直ぐに食べさせよう!」
と、杉ちゃんはうれしそうな顔をした。
「それだけじゃないんです。」
と、チボー君はどうぞ、といった。まだあるのと杉ちゃんが言うと、こんにちはと言って、白髪を長く伸ばしたシズさんが、一緒にやってきた。
「多分、シズさんだったら、水穂さんの事をわかってくれるのではないかと思って、無理を言って来てもらいました。シズさん、ガ―ジョの家に入るのはいけないことではないかと言っていましたが、僕が無理やりお願いしたんです。」
「あ、ああ、あの、ロマのおばあさんね!」
杉ちゃんがそういうと、シズさんはにこやかな顔をした。言葉の事なら、通訳しますからと言いながら、チボーは、やれやれとため息をついた。同時にトラーも現れて、全員客用寝室に行く。水穂さんは薬で眠っていたが、水穂さん起きてくれ、芋切干買ってきてくれたぜ、と、杉ちゃんが揺さぶり起すと、やっと目を覚ましてくれた。
「ほら、食べてくれよ。お前さんの好きな、芋切干だよ。」
と、チボー君に差し出された芋切干を、水穂さんは、そっと受け取った。そして口へもっていってくれたが、せき込んでしまった。すると、シズさんが水穂さんに水を渡して、水で流し込むように言った。其れのおかげで、何とか芋切干をたべることに成功したのであった。
「日本のより、一寸砂糖が多いような気がしますけど、おいしいです。ありがとうございます。」
と、水穂さんは、頭を下げる。
「頭を下げるより、体力をつけて、もうちょっと、良くなるようになってくれ。」
杉ちゃんは、頭をかじってそういうことを言っている間、シズさんは、カバンを開けて、ビニールのパックを取り出した。何だか、見たこともない香草がいっぱい入っている。
「これは、ロマ族の間で、気持ちが沈んでいるときに、煎じて飲む香草だそうです。今でも、こういう薬草が流行っているようで。」
シズさんの説明に、チボー君が通訳してくれた。まあ、流行っているというか、貧しい生活を強いられてしまうロマの間では、こういう民間薬が流行っているのだろう。
「よし早速飲ませて楽にさせよう。」
杉ちゃんがそういうと、トラーが台所からケトルと急須をもって来た。シズさんはそれを受け取って、急須に香草を入れ、お湯をかけ、煎じた液体をマグカップに入れて、水穂さんにそれを飲むように言った。水穂さんは黙って中身を飲んだ。この時せき込まないところから、誤嚥の問題ではなく、やっぱり気持ちの問題だということが分かった。中身を飲み干すと、水穂さんは癒されたのか、大きなため息をついて、布団に横になった。この香草はものすごく甘い香りがして、周りの人も眠くなってしまいそうなくらいだ。
「ほかにもいろいろ薬草があるそうなんです。気持ちを落ち着けたり、逆に目覚めを促したりもできるそうですよ。僕が事情を話したら、シズさんよくわかってくれて、なんでもお手伝いしますから、といってくれました。」
チボー君がにこやかにそういうと、杉ちゃんたちも、やったという顔をした。其れから、しばらくの間、水穂さんは、眠ることなく、一寸言葉を交すことができた。其れは、眠ってばかりいた水穂さんにとって、すごい変化ということになるのだった。シズさんと一緒に、静かに微笑みながら、しゃべっている水穂さんを見て、トラーが思わず、
「私、シズさんみたいに、なんでも話しができるような人になりたいな。」
何てつぶやいたくらいだった。其れを聞いて、チボー君は、トラーが自分のところから離れてしまうのではないかと、一寸心配になった。でも、今は、彼女にそんなことを言うことはしないほうが良いなと思って、やめておいた。
おばあさんのメヌエット 増田朋美 @masubuchi4996
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