第2話
「気がついたんですね。よかった」
ヘルロウを助けてくれたその少女は、歳の頃はヘルロウと同じくらい。
しかし身体は小さく、白いワンピースから木の枝のように痩せ細った手足が出ている。
黒髪のおかっぱ頭は、襟足は切りそろえられているが、前髪だけはアンバランスで鼻にかかるほど長い。
そして「よかった」という言葉とは裏腹に、寂しげな表情。
首筋に、縄が食い込んだ跡があった。
それらの情報だけで、ヘルロウはいま自分がどこにいるのかを悟る。
「賽の河原か……」
自答しながら、身体を起こす。
そして両の手のひらを、じつと見つめた。
指の腹から樹根のように、手首から腕に向かって伸びているタトゥーが、消えようとしている。
右手の小指には『耐久』。
右手の薬指には『治癒』。
右手の中指には『奇跡』。
右手の示指には『飛翔』。
右手の親指には『創造』。
77日間の刑罰を受けても傷ひとつ残っていないのは『治癒』の力のおかげ。
地上から地獄に落下しても無事だったのは『耐久』の力のおかげ。
少女から水を与えてもらったのは、もしかしたら『奇跡』の力のおかげかもしれない。
『飛翔』は天使の象徴である翼を生やす力。
『創造』は流星のように降り注ぐヒラメキの力。
そして左手は、五指すべてが同じ力……。
創造神を目指していた彼にとっての、すべての力の源ともいえる……。
それらが今、彼の元から去ろうとしている。
彼を天使たらしめていたものがすべてなくなり、ただの人間になってしまう。
長きにわたり、自分を支えてくれていたものたちが指先からはぐれ、ホタルような光となって天へと還っていく。
ヘルロウは、無言の感謝とともにそれを見送った。
そして視線を戻すと、助けてくれた少女は少し離れたところで石を積んでいた。
彼女だけではない。
目の前には大きな川が横たわり、足元にはびっしりと丸い石が敷き詰められた河原には、多くの子供たちがしゃがみこみ、石を積んでいた。
子供たちは見渡す限りにいるというのに、聞こえてくるのは川のせせらぎと、石を積むカチャカチャというささやきのみ。
……ここは、『賽の河原』。
地獄の手前にある河原で、親より先立って死んだ子供たちが送られる。
父母の供養のために、河原にある石を積み上げなくてはならない場所である。
そして積み上げた石で供養塔を作ることができれば、その者は天国に行ける。
ヘルロウは天使中学校の授業で地獄のことを学んでいたので、ある程度のことは知っていた。
夏休みの工作で地獄をモチーフにした『じごく城脱出ゲーム』なるものも作ったことがある。
立ち上がり、少女の元へと向かう。
「手伝うよ」
言いながら膝を折り、足元の石を拾いあげる。
ヘルロウはついクセで、手にしたそれを瞬時に分析していた。
【賽の河原の石】 素材レベル:1
賽の河原に落ちていた石、丸くてすべすべしている。
「……手伝う?」
その声に視線を戻すと、少女がさも不思議そうな顔を向けてきていた。
彼女は前髪のせいで瞳が隠れて見えないのだが、ヘルロウはなんとなく彼女からの視線を感じる。
「ああ、水をくれたお礼にね」
「それは、そこにある川の水をあげただけです。お礼だなんて……」
「それでも僕にとっては命の恩人さ。だから手伝わせてほしい」
少女は、なんだかよくわからない、といった感じで口角をわずかに下げる。
「……自分の分は、積まなくていいんですか?」
「ああ、僕は引っ越してきたばかりなんだ。だからしばらくはこっちに腰を据えようかと思ってね」
少女は、ますますよくわからない、といった感じで口元をへの字に曲げた。
「僕はヘルロウだ」
「いい名前ですね。天使様みたい」
「キミは?」
「……笑いませんか?」
「キミの名前を聞いて? 笑わないよ」
「ドロエ……です。へんな名前でしょう?」
「そうかな。普通の名前だと思うけど」
「私もヘルロウさんみたいな、天使様みたいなキラキラネームが欲しいです」
「なら、この石を積み上げて供養塔を完成させればいい。そうすれば天国に行けて、天使学校にも通える。天使学校に通えば新しい名前が与えられるよ」
そう聞いて、少女は「そうなんですか?」と一瞬だけ声を弾ませたものの、
「でも、無理です……。私になんか、できっこありません……」
すぐにまた、いつもの押し殺すような声に戻ってしまった。
「できるさ。倒れている俺に水をくれるなんて、キミはやさしい子だ。天使学校に行っても、そのやさしさがあれば……」
「違うんです。私なんかじゃ、天国にも行けないと思います」
「どうして?」
「だって供養塔なんて、できっこありませんから……」
「そんなことないだろう、だってこうして話している間にも、塔ができあがりつつある。あとはてっぺんに大きな石を置けば……」
ヘルロウの言葉を遮るように、ぬぅ、と大きな影が覆った。
そこには、水色の肌をした、ノッポで痩せマッチョな鬼が立っていて……。
まさに鬼のような表情で、サッカーボールを蹴るように、脚を振り上げていたのだ……!
ヘルロウは、授業で習ったことを思い出す。
この『賽の河原』では、供養塔が完成しかけるたびに、鬼がやって来て壊すのだと。
「……やめろっ!」
ヘルロウは、咄嗟に鬼と供養塔の間に身体を割り込ませたが、鬼は何の躊躇もなく、
……ドガァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーンッ!!
まとめて、蹴り飛ばしたっ……!
「うわあっ!?」
石ごと吹っ飛ばされてしまうヘルロウ。
天使の翼はもうないので、受け身を取ることもできない。
落下への『耐性』はなく、そしてまた『治癒』もないので、モロに地面に叩きつけられてしまった。
……ドシャッ!
顔面をしたたかに打ちつけてしまい、屈辱に這いつくばるヘルロウ。
その瞬間、彼のなかにあった、あるものが砕け散る。
『天使としての理性』が、粉々に……!
「ぐはあっ!? ちっくしょぉぉ……!」
天使中学校では失点対象であったストロングランゲージが、自然と飛び出してしまう。
しかしまわりにいる子供たちは、ドロエを含めて誰も気に止めようとはしない。
鬼によって石積みを崩されるのは、ここでは日常茶飯事だからだ。
子供たちは誰もが、諦観していた。
光を宿すことのない、死んだ魚のような瞳で、ただ無言で石を積み続けている。
ヘルロウがかつて居た場所とは、真逆の光景であった。
天国の子供たちは瞳どころか、後光を放つくらいに光り輝き、希望に満ちていたというのに……。
なのに、ここにいる子供たちはみな、死にながらにして、なおも死んでいる……!
その無情がヘルロウの心に、カッと熱い火を灯した。
そう、少年は地獄に落とされてもなお、あきらめない……。
不屈の闘志の持ち主だったのだ……!
ヘルロウは跳ね起きると、そばにあった踏み台のような岩に飛び乗った。
そして拳を振り上げて叫ぶ。
「おいっ、お前らっ! お前らはこのままでいいのか!? このまま永遠に石を積み続けるのか!?」
その呼び声は賽の河原じゅうに響き渡り、子供たちはゆっくりと顔を上げ、ヘルロウを見上げる。
そして、
「だって、しょうがないよ」
と誰かがつぶやいた。
すると、絶望という名の数珠のように、
「僕だって、こんな所になんかいたくないよ」「でも、どうしろっていうのさ」「それに、どうしようもないの」「この河原からは、どうやっても出られないし」「こうやって、石を積み続けるしかないんだ」
「私たちだって、ここに来た当初は、いろいろやってみたのよ。でも、何をやっても無駄だったの……」
「キミも最初のうちだけだよ。すぐに僕らと同じようになる」
「いくら考えたところで、亡者の浅知恵……。エンマ様の考えられたこのお裁きには、逆らえないのさ」
その一言が、ヘルロウをさらに熱くさせる。
不可能だと言われれれば言われるほど、彼は奮い立つ性質なのだ。
「言ったな……!? よぉし、ならこの俺が、お前らの供養塔を完成させてやる! そして全員、天国送りにしてやる! 天使学校では毎日、みんな笑顔で勉強やスポーツに励んでるんだ! それをたっぷりと味わわせてやるからなっ! ……今に見てろよっ!!」
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