第十一話

 摩志常が、眠りについてから七日、経過した。

 透明な液体の中で、摩志常の身体が無意識に確認作業を始めた。

 病院でよく行われる、リハビリの基本的な動きだった。右手を開いたり閉じたり、次に左手を開いたり閉じたり、右足を曲げたり伸ばしたり、左足を曲げたり伸ばしたり。と、細かく身体に電気信号を巡らせていく。

 その動きが水に伝わり振動する、摩志常の黒い美しい髪が水の動きに合わせる様に、踊っていた。


 思っていたよりも……、肉体の損傷が大きかったみたいね。

 身体は動く様になったけれども、鈍いし重い。たぶん、隠れ家の前で倒れた状態だったら、こんな短時間で回復してなかったわね。こればっかりは、あのバカ猫ちゃんに、感謝かな。

 

 また、色々と頭の中で考え事をし始めると。摩志常の身体が自分の意志とは関係なく、水面に向かって浮上をし始めた。


 浮上したのはいいのだが……。


 摩志常は、その後。どうしていいのか分からず、取り敢えず。プカプカとラッコの様に浮いたまま、ボーッと天井を見つめていると。

 時間の経過と共に、摩志常の暇力ひまりょくは、底を突いてしまった。

 子供じみている、摩志常が行う事といえば、至って単純である。

 癇癪かんしゃくを起こした様に、両手両足をバタバタと水面に叩きつけて暴れる。 

 すると、浮力が急激に失った身体が大きく体勢を崩すと。摩志常の顔、目掛け、大量の水が襲い掛かる。

 口、鼻、目、耳、と中に入り込んだ水が、摩志常の美しい顔立ちが、目も当てられない顔立ちにさせた。

 摩志常は、慌て体勢を立て直すと。口、鼻、目、耳、と中に入り込んだ水を順番に取り除いていく。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、死ぬかと思ったわ」


 摩志常の表情は、恐らく、あの女騎士との戦いよりも死を近くに感じたのだろう。目を大きく見開き、荒い呼吸を繰り返していた。

 呼吸が整い始めると同時に、摩志常は冷静さを取り戻し始めると。

 バシャ、バシャ、と手足を器用に使いながら、軽やかな犬掻きで、泳ぎだす。

 摩志常は、数十分程。犬掻きをしているが、泉の岸辺に辿り着けないでいた。何を思ったのか、バシャーン、バシャーン、とバラフライ泳法で泳ぎだした。

 そして……、一時間が経過した頃。

 摩志常の脳裏に言葉が響く。


「大人しくしていると言う言葉は、お前の頭の中の辞書に載っておらんのか? 摩志常よ」


 呆れた声でマーナガルムは、話し掛けた。


「頭の中の辞書に載っておらんのか? って……。そんなの私の辞書に載っているとでも」

「だろうな」


 マーナガルムは楽しんでいた。

 

 マーナガルムは、この世界で数多くの者達を見てきたが、これ程に、摩訶不思議な者は見た事がなかった。

 そして、この世界を急変化させる要因に、この摩志常はなるだろうと。想い充たされていた。

 摩志常は、本能だけで生きている――狂人。

 そんな傲慢ごうまんな事が許される者は、天から降りた、神? か、地から湧き出た、魔? かのどちらかでしかないからだ。


 その頃、マーナガルムがそんな事を考えている間も、摩志常は……。

 

 一生懸命に犬掻きをしながら、岸辺に向かって、泳いでいた。

 その姿を見た、マーナガルムは……。自分の考えが間違っていたかもしれないと不安になるのだった。


「摩志常よ、泳いでもそこから岸辺に着く事はできんぞ。その月の泉は、特殊な結界が施されていて、正しい海路を進む必要がある」


 すると、摩志常の犬掻きをしている前方から、泉の水が二つに割れ始める。


「有名は映画のワンシーンを思い出すわ」


 泉の水が二つに割れ、泉の底に足を着けた摩志常は。神に導かれる様に、その道を前へ前へと余裕の態度で進んで行く。

 たった、六十秒で岸辺に辿り着いた。そして、岸辺には三人の女性が待機していた。

 釈然しゃくぜんとしない顔をしている摩志常に対して、その三人の女性は摩志常の顔を見ると。

 微笑みを浮かべた後、摩志常に深々と一礼をし。

 そして、摩志常に衣服一式を差し出すのだった。


「ぇ…………。嫌がらせ………………」


 摩志常がその言葉を呟いた意味は。

 

 摩志常に差し出された、衣服一式に悪意が。

 最上級品の逸品いっぴん

 織り込まれている繊維が一本、一本、が自己主張をしているのに、それが上品に交じり溶け合い。それがつややかな光沢を生んでいた。

 素人が一目見ても、明らかにその違いが分かるほどに。

 摩志常が、文句を言った、理由わけは。

 それが、漆黒しっこく色のドレスと同色のちょっとエッチな下着だったからだ。


 摩志常を出迎えた三人の女性は、清潔感を基調とした白の美しいドレスを着用しているのに対して。黒という真逆の色の衣服を着用させ様とする、マーナガルムの意図的な嫌がらせを感じたからだった。

 そして、ちょっとエッチな下着に関しては、摩志常はどうでもよかった。


 摩志常の脳裏に。


「お前の腹黒さを隠すには、その色がいいだろうと思ってな。私が用意させた」


 摩志常の考えは、正解だった。

 いつもなら、ムキーッと叫び声を上げながら反論するところだが。図星の為に反論するのを止めておく事にした。本当なら、ちょっとエッチな下着の件に関しても、ツッコミを入れてもよかったのだが。面倒くさそうなので、止めておく事にした。


「あっそ」


 摩志常は、素っ気ない態度をている間に。二人の女性が素早く、摩志常の濡れた身体をタオルで手早く拭き始める。

 身体を綺麗に拭き終わると、二人は摩志常に手際よく下着を着用させていく。

 肌に下着が触れた瞬間――あまりにも、肌触りの良さに。


「あ! めっちゃ高級品だわ」

 

 そう言葉にした。

 摩志常の表情は、下着ドロが自分のお気に入りの下着を入手した時のニヤニヤとした。若干、変態ぽい笑い顔になっていた。

 それは、タダで貰えたというよこしまな気持ちの現れでもあった。

 そんな、摩志常の腹黒さを表現する、黒い下着の着用が終わると。最後に、黒のドレスが塗り重ねられた。

 すると、三人の女性は、再度、深く一礼をした後、数歩後ろに下がると。


「なかなか、似合っているな。そのきめ細かな白い肌がより、美しく見えるぞ、摩志常よ」

「へぃ、へぃ、ありがとうございますーぅー」

「その子供じみた態度が、可愛らしい」

「で……、私はこれからどうすればいいのかしら?」

「少し待て」


 摩志常の目の前に、夢か? 幻覚か? で済まされない生物が存在していた。

 視覚だけなら、夢か幻覚と自分を誤魔化ごまかせる事ができたが。流石に、触れている物体を無理矢理に、誤魔化す事は不可能だった。

 実際は、触れているというよりは、撫でているが正解だ。

 それは、見た目と雰囲気だけなら――犬だ。犬種で言えば――サモエドだった。

 ただし……、体長が二十メートルを超える、サモエドが摩志常の目の前にいた。


「私が、マーナガルムだ」


 自己紹介をするマーナガルム瞳は、散歩に連れて行ってくれと頼む。犬の爛々らんらんとした瞳の輝きをしていた。


 その姿を見る摩志常の心の中で。

 迫力あるわねぇー。

 危機感を感じないけど。正直、微妙なラインよねぇー、二十メートルのサモエドは。

 さすがに。


「もう少し、もふもふ、して、ても、いい?」

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