第16話 贖罪②


 重い足どりで事務所を後にした幹久は、旅館の裏にあった切り株に腰を下すと、今日という一日は色々ありすぎていると振り返った。


 旅館で務めることになった経緯もそうだが、ここで働く人達と出会い自分と繋がりを持ったことは、幹久にとって驚きの連続だったのだ。


 温泉旅館【湯ノ花】を纏める壮年の女将、敷島雪乃。その雪乃の孫にして幹久の命の恩人、自分と同い年でありながら旅館を切り盛りする若女将の敷島月陽。


 月陽の妹の花梨とはまだ数回しか会話をしていないが、非常に面倒見がよく幹久の事をまるで身内のように心配してくれていたのは記憶に強く残っている。 


 旅館の台所全般をを任されている野々瀬優子と、その料理に必要な食材や酒を支給する色黒筋肉の那須竜一の二人とは今後も良い関係を築いていけそうだが、鋭い観察眼と洞察力で何もかもを見透かす古閑凛には肝を冷やした。


 他にも数人の仲居達や子連れで宿泊している下田親子と出会ったが、今の幹久が一番気になっているのは言動と挙動に一貫して男嫌いを抱かせる録道唯だった。



「取りつく島も無いっていうのは、まさにこういうことを言うんだな」



 これ以上の接触はお互いの溝を深くする行為だ――そう割り切るべきなのか、溜息を吐きだすと共に幹久は心底悩んだ。



「あ、幹久さん。こちらにいらしたんですね」



 名前を呼ばれたことで、幹久は声の聞こえた方へ顔を向けた。



「花梨、どうかしたのか?」


「お姉ちゃんが呼んでましたので探してたんです、ついてきていただけますか?」



 花梨の後に続いて館内へと入ると、彼女は客室から離れた方へと進んでいく。そして二階へと続く階段を上り、一番奥の一室へと足を踏み入れた。



「お姉ちゃん、幹久さんをお連れしました」


「ありがと花梨、丁度ウチの方も掃除が終わったとこや」



 部屋の中にいた月陽が言うように部屋の中は綺麗に清掃されており、彼女の手には黒くくすんだ雑巾が握られていた。



「この部屋、客室じゃないよな……一体なんなんだ?」


「幹久、これからウチの旅館で働くんやろ? だから、この部屋を住まいに使って貰おう思って掃除したんよ」



 己の迂闊さに眩暈を覚える、幹久は家出している身でありながら自分の住まいの心配なんてまるでしていなかったのだ。



「部屋を貸してくれただけでもありがたいのに、掃除なんて俺がすることだろ」


「仕事初日で幹久疲れてはるやろ、掃除くらいかまんから気にせんとってな」


「でも……これ以上みんなに甘えてはいられない。今日だって――」


「ええか、幹久。ウチは雇用主で幹久は従業員。仕事する上で大切なのはこの関係で、従業員が不安な気持ちを抱えたまま仕事をするのは見過ごせへんのや」


「つまり、幹久さんが仕事に集中してもらえる環境を整えるのが雇用主であるお姉ちゃんの義務なんです。私達に甘えているなんて思わないでくださいね」


「……ありがとう、月陽、花梨。一日でも早く仕事を覚えて、旅館を支えられる柱になれるよう精進するよ」



 二人の方を向いた幹久は、目に力を込めてそう言った――。

 




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