第15話 贖罪①
足元の影が長くなったことで、幹久はようやく陽が沈みかけてきたと気づく。
せわしなく動いていた仲居達は事務所の方へ移動し始めた。
「幹久、今日の仕事は終わりや。きりのいい所であがってええよ」
玄関の清掃をしていた幹久は、月陽からそう言われて手を止めた。
「今日の仕事が終わりって、まだやることはいっぱい残ってるんだが……」
「残りは夜番担当の仕事、ウチの旅館は朝と夜の二交代で仕事を分担してるんよ。引き継ぎも兼ねて幹久の事を紹介するから、事務所に戻っといてな」
言われるがままに掃除道具を片付けると、幹久は事務所へと足を踏み入れる。
部屋の中では今朝顔を合わせた仲居達の他、数人の見知らぬ人が屯していた。
期待してはいなかったが、やはりその数人の中に男性の姿は見当たらない。しかし周囲を見渡していたことで、一人の女性と目が合ってしまった。
「君が、今日から働いてくれてる記憶喪失の少年だね」
「……あなたは?」
「あぁ、すまない。自己紹介も無しに不躾だったね、私は古閑凛。凛と呼んでくれてかまわないよ」
そう言って握手を求めてくるように右手を差し出した彼女の第一印象は、礼儀正しくて初対面でも距離を感じさせないものだった。
これは、この旅館で働く他の女性従業員と比較しても段違いに好印象である。
純粋に自分という存在を知って欲しい、そんな心の内が垣間見える古閑凛という女性に応えるように手を握った。
「西園寺幹久、幹久でいいです。よろしくお願いします凛さん」
「こちらこそ。旅館の仕事で何か困ったことがあれば訊いてくれ、勤めてまだ五年程度の若輩だが少しは君の力になれるはずだ」
凛という名が示すように、彼女は澄んだ瞳をまっすぐ向けてくる。
唯にもこれくらい新参者を受け入れる心の広さを持ってほしいものだと思っていると、幹久は事務所の扉を開けて入ってくる彼女の姿をとらえた。
「なっ! 凛さん、駄目ですよこんなのと手を握っちゃ! 病気になります!」
「病気? そうなのか幹久、君は病気を患っていると?」
「いや、そんなことは無いけど……」
「記憶が無い奴が何言っても信憑性は無いだろ、いいから凛さんの手を離せ!」
間に割って入られたことで、幹久と凛は半ば強引に手を引きはがされてしまう。
「そんなに邪険にしなくてもいいだろう、唯にとっても私にとっても、彼はもう仕事の仲間だ。良い関係性を築いていくために、お互い心の壁を作るようなことは」
「アタイはコイツと良い関係性を築いていくつもりはありませんから。それにコイツもどうせ一週間どころか三日も持たないんで、名前を覚えるだけ無駄ですよ」
「そう頭ごなしに決めつけるのは感心しないぞ、唯。やる気の問題は本題次第だが、私には彼が多少のことで音を上げるほど軟弱な精神の持ち主だとは思えない」
その根拠は今しがた握った右手にある――と続けた凛は、自身の手の指を眺めながら口を開いた。
「第一関節、第二関節共に固くて、握った瞬間力強い印象を受けたよ。君はきっと掌を酷使するほど長い年月を費やしてスポーツをやっていたんだろう。記憶を呼び起こすきっかけになるかはわからないが、それほど逞しい肉体を維持した生活をおくってきたんだ、きっと精神面も誇れるものだと私は思うよ」
あまりの推測の鋭さに、幹久は驚いて声も出せなかった。
物心つく前から竹刀を握り、これまでの人生を剣道の修練に捧げてきた結果がこの両手にある。それを凛はたった一度の握手でほぼ見抜いたのだ。
いずれ記憶喪失の嘘がバレてしまうのではないかと恐れを抱いてしまう。
「では、そろそろ私は職務を全うすることにするよ。幹久、お互い時間がある時にまた話をしよう」
柔和な笑みを浮かべ、凛は身を翻し部屋を後にする。彼女の後ろ姿を見送ると、こちらの方をジロジロと見つめている唯に気づく。
「……な、なんだよ」
「……別に。凛さんは仲良くしろって言ってたけど、アタイはアンタと仲良くするつもりは微塵も無いからね」
「なぁ、そろそろ俺を……いや男を邪険にする理由を教えてくれてもいいだろ。これじゃお互いにストレスが貯まる一方だ」
「お断りだね。アタイからアンタに話すことなんて何も――」
「お兄さんが関係してるんだろ?」
息を呑んだような反応を見せると、唯は声を低くして「だったら何?」と返答する。その怒りに震える目つきにあてられて、幹久も思わずたじろいでしまった。
とても話を続けられそうにないと悟った幹久は、彼女から逃げるように事務所を後にしたのだった――。
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