第14話 職場と人間関係④
お昼ご飯を摂ってからも、幹久の仕事は休まることがなかった。
廊下の雑巾がけに脱衣所掃除、厨房のゴミ出しにお客さんの使用した布団の回収。そして次は庭の草刈りを言いつけられ、カンカン照りの太陽によって水分を奪われたこと。
朦朧としていた意識の中、背後から声をかけられハッと我へ返る。
「幹久、お疲れ様。そろそろ夕食の時間やから、草刈りはそのへんで切り上げて配膳の準備に行こか」
「お……おう……、わかった……」
月陽に言われて立ち上がった瞬間、幹久の目の前が一瞬暗くなった。
ふらっとよろめいた体を、傍にいた月陽に支えられる。
「ちょっと幹久、大丈夫なん?」
「す、すまん……。ちょっと立ち眩みがしただけだ、問題無い……」
「お昼食べてからずっと動きっぱなしで疲れたやろ、ちょっと一息つこか」
「いや、大丈夫だ……まだまだやれる……」
「そんなこと言うて、倒れられでもしたらウチも困るねん。いいから休憩しっ!」
引き下がりそうもない彼女の言葉に甘えて、幹久は暫しの休憩をいただくことにする。旅館の従業員が休憩を取れる場所は決まっており、幹久は月陽につれられてやってきた。
幹久が初めて訪れた休憩室の中は、十二畳はあるゆったり広々とした和室だった。エアコン完備に冷蔵庫も備え付き、炊事もできるキッチンまである。
そんな休憩室の中は、幹久と月陽の他にも何人かの仲居達が屯していた。
「お、ちょうどいいところに……若女将も一口乗らないかい?」
「一口?」
「あぁ、みんなで賭けやることにしてよ。今配当金を決めてたんだ」
屯していた仲居達の中でも、一際背の高い女が声をかけてきた。
幹久に酷く敵対意識を向けている女、唯である。関わるとまたいびられそうなので、幹久はコップに水を注ぎ彼女達とは距離を置いて座ることにした。
「一口乗る言うても、何を対象にして賭けてはるん?」
「そこでへばってるだらしない男だよ、あいつがあと何日もつか賭けてんのさ」
「んなっ! ゴホッ、ゴホッ!」
まさか賭けの対象が自分になっているとは思ってなかった幹久は、飲みかけていた水を喉に詰まらせ噎せ返った。
「私は一週間だと思うねぇ。これまで働きに来た男共も、平均でそれくらいだったし」
「私は五日だと思うよ。何処の馬の骨とも言えない男に、この仕事は務まりゃしないさ」
中年の仲居達に好き勝手に言われ放題だった幹久だが、正直なところ自分の体力も限界近くまで消耗しているので何も言い返せなかった。
まだ働いて一日目、この分では明日を迎えたとしても今日の疲れを充分に癒すには至らないだろうと感じていた。
「アタイは三日と見たね、五日も持ちゃしないよ」
「唯ちゃん、それ短すぎ。賭けにならないよ」
「「「あははははは」」」
彼女達の笑い声に居た堪れなくなった幹久は、手に持っていたコップを片付けると静かにその場を出ていこうとした。
唯や他の仲居達に対しての怒りは無かった。ただ不甲斐ない自分への苛立ちだけが、幹久の心の中にあるのだった。
「……その賭け、ウチも一口乗らせて貰うわ」
休憩室の扉を開けようとした幹久の耳に、月陽の言葉が入ってきた。
月陽も賭けに乗ると聞いて、幹久は内心ショックを受けてしまう。
彼女にだけは、そんな賭けには乗って欲しくない――そんな願いが、心のどこかにあったのだ。
「でも唯、ウチが賭けるのは幹久が辞めない方に賭けるんや。それでも成立するか?」
「辞めない方って……若女将。あんた本気で言ってんのかよ?」
「そうや、幹久はどんなに辛くてもこの旅館を辞めたりせぇへん。今は確かにしんどいけど、すぐに仕事にも慣れて、唯や皆が驚くような男になるんや。ウチはそう信じとる!」
幹久は、月陽の言葉を受けたあまりに声を失っていた。
「さて、そろそろ仕事に戻るわ。あ、幹久はまだゆっくり休んどいてな。ウチは事務所に居てはるから、休憩終わったら呼びに来てくれたらえぇよ」
月陽はそう言うと、休憩室を出て行ってしまう。
しかしあんなことを言われてしまった幹久は月陽のことが気になり、彼女を追って休憩室を出る。
自分が仕事を辞めない上に、唯や他の仲居達が驚くようなすごい男になる。
聞き間違いではなく、敷島月陽は確かにそう口にしたのだ。
「月陽!」
丁度事務所の扉を開けようとしていた月陽を見つけ、幹久は声をかけていた。
幹久の声を聞き、月陽は足を止めて幹久に振り返る。
「幹久、もう休憩えぇんか?」
「あぁ、もう充分休ませてもらったからな」
実際は休憩室に入ってから、五分も経たずに出てきたので休憩と言えるのかどうは不明である。しかし幹久は、あのまま休憩室にいてもまともに体を休めることはできないだろうと思っていた。
「ごめんな幹久。ウチ、あんなこと言うて」
「いや、月陽が謝ることなんて無いだろ。それに何かスカッとしたんだよ、俺」
「スカッと?」
「俺を馬鹿にしていた皆が、月陽の一言で呆気にとられてスッゲー気分良かった。ありがとな、月陽」
自分で何も言い返せない部分は非常に情けなくも感じていた幹久だったが、月陽の言葉に救われた気持ちになっていたのだ。
だがそこで、幹久は月陽の手がわずかながらに震えていたことに気がついた。
「……月陽?」
「幹久はまだ仕事できひんの当たり前や、唯にあない言われて悔しいのもわかる。だからウチがその悔しい気持ちを言ってやったんや! 幹久、絶対に唯を見返してやるんやで!」
自分以上に闘争心を燃やし気合が入っている月陽に、幹久は言葉を失ってしまう。
「……だから幹久、その……辞めへんといてな……」
「当たり前だ、言われっぱなしのままになんてしない。それに俺は月陽や花梨、そして女将さんに助けられた恩もあるんだ。絶対にこの旅館を出ていったりしないって約束する!」
彼女の震える手を強く握り、幹久はそう誓ったのだった。
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