第11話 職場と人間関係①
温泉旅館【湯の花】にある従業員事務所にて、幹久は体全身に緊張を走らせていた。
「……と言うわけで、今日からここで働くことになった――」
「西園寺幹久です、よろしくお願いします」
老婆改め旅館の女将である敷島雪乃(しきしま・ゆきの)に促されて、幹久はぎこちない自己紹介をする。
何故ぎこちなかったかというと、その理由は二つあった。
一つは目の前にいる他の従業員が、全員女性だったからだ。男の従業員はどこにも見当たらず、数にして八人程の女性達がこちらを見ていた。
そして二つ目の理由は、自分を見る彼女たちの目つきや表情にある。敵意剥き出しというか、明らかな拒絶反応を幹久は肌で感じていた。まだ何もしていないはずなのに、この疎外感はなんなのだろうと気が気でならないのだ。
「幹久は名前以外の記憶が無いらしい。戸惑っている部分があるみたいだけど、仕事においてはそんな事関係ないからね。みんな、ビシビシ鍛えてやっておくれ」
そう雪乃から言われると、幹久は背中をバシっと叩かれる。
幹久が記憶喪失だと聞いた途端、仲居達は少しざわつき始めた。既に知っていた月陽と花梨に変わった様子は見られなかったが、そんな彼女達に対して幹久は本当に申し訳ないと心の中で謝罪した。
幹久自身は記憶喪失でも何でもない、これは本人を除けば女将である雪乃しか知る者はいなかった。
何故本当の事を言わずに、雪乃はわざわざ嘘をついたのか。そこには、雪乃なりに幹久へ対しての気遣いがあった。幹久は雪乃にだけ、自分の本当の素性と家を出た理由、そしてこの旅館にたどり着いた経緯を話し、実家に住む身内の了承をえて働くに至ったのだ。
「記憶喪失~? ほんとかどうか、疑わしいもんだね」
「女将、こんな子……本当にウチで働かせて大丈夫なのかい?」
「厄介ごとはお客様だけで十分だよ、まったく」
同情の一言でも返ってくるかと思っていた幹久にとって、この発言は予想外だった。従業員の口から聞こえてくる言葉と表情から、あまり関わりたくない雰囲気が感じ取れた。
「アタイは賛成しないよ。こんな得体の知れない男はさっさと病院へ連れて行くなり、警察に突き出すなりしたほうがいいと思うね」
すぐに誰が口にしたのか確認すると、見覚えのある人物だと気づく。
それは八人いる従業員の中で一際背の高く、目立っていた仲居だった。
「唯さん、それはいくらなんでも言い過ぎですよ!」
擁護するように声を上げてくれたのは花梨だった。怒りを露わにして唯の方を見つめる彼女に対し、唯は溜息をついて肩を竦める。
「はいはい、悪ぅー御座いました。ま、自分の記憶が無くたって仕事はできるし。精々アタイ達の邪魔にならない程度にやってくださいな。ハイ、解・散!」
鬱陶しいと言わんばかりに、唯は花梨の言葉を真に受けず部屋を出ていった。
唯に続いて、一人また一人と事務所を出て行っていく。彼女達の後ろ姿を見送った幹久は、あの唯という女に思うところがあった。それは幹久の紹介を受けて特に敵意を剥き出しにしていたのが、何を隠そう唯だったからだ。
「西園寺様、唯さんの態度にお気を悪くされたのなら私が代わりに謝罪致します」
「別に花梨が謝ることじゃ……ところで、その西園寺様って言うのはもう勘弁してくれないか。仕事の立場が上の人から言われるのは間違っていると思うからさ」
「か、畏まりました。ではその……幹久さんと、お呼びしてもよろしいでしょうか?」
「あぁ、じゃあそれで」
「はい! ありがとうございます!」
よろしいも何も、西園寺様と呼ばれる以外なら呼び方なんて特に気にしていなかった。しかし花梨の様子は、幹久の目には何故か嬉しそうに映っていた。
「さて、幹久。あんたの最初の仕事だけど――」
「おう! 何でも言ってくれ、ばぁさん!」
バシッ!
女将の平手打ちが、幹久の右頬に炸裂した。
「まずはその言葉遣いに気をつけな、接客業は第一印象が命だよ。これからはアタシのことは〝女将〟とお呼び」
「ふぁ、ふぁい……すみませんでした……女将……」
叩かれた頬がジンジンして、呂律が上手く回らなかった。
「最初の仕事は空いた部屋の掃除だよ。月陽、この世間知らずの青二才に教えてやんな」
「えー、ウチが教えるん~?」
旅館の若女将という立場なのに、月陽は明らかに面倒臭がっていた。
さっきの唯然り、ここにいる月陽然り。
この旅館には思っている事をすぐに口や態度に出す従業員が多すぎる。それは接客業としてどうなんだ――と、幹久にはそんな気がしてならなかった。
「お婆ちゃ……じゃなかった、女将。幹久さんには、私が……」
花梨が手を挙げ、幹久のレクチャーを買って出ようとしたが雪乃はそれを制止した。
「いいや、こいつには若女将の月陽が責任持って教えてやんな。いいかい、月陽。いい加減な事を教えるんじゃないよ、わかったかい?」
「はぁ~い。ほな行こか、幹久。ちゃんとウチの後についてきてなぁ~」
「お、おぅ……」
緊張感が微塵も伝わってこない声を受け、幹久は月陽の後についていくのであった――。
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