第5話 恩人④


 大浴場を出た幹久は、旅館の若女将である敷島月陽の後ろをついて歩いていた。

 泥に塗れた体を洗い流したことで、幹久の風体は館へ連れてこられた当初と比較すれば随分と綺麗な姿になったといってもいい。衣服も旅館仕様の物を拝借できたことで、他人の目から見ても問題無い洋装でいられている。


 しかし老舗の温泉旅館と言われる湯ノ花でも、さすがに下着の替えは無かった。

 耐え難いことに幹久の下半身は今、非常に風通しの良い状況下にある。

 そんなこともあってか幹久が廊下を歩く足取りは、足の痛みとはまた別の意味で支障が出ていた。



「すぐにご飯持ってきはるから、この部屋でゆっくり寛いでてな」



 月陽に案内されたのは、八畳ほどの和室だった。

 部屋の中央には丸い木製の机が設置されており、客間としては少し狭い印象を抱く。だが埃一つ見当たらない綺麗な畳や、障子を挟んだ向こう側には景観の良い庭が見えたことで、間取りの広さなど些細なことだと思えてしまう。



「……俺、本当に旅館にいるんだなぁ」



 数時間前まで精神的にも肉体的にもボロボロの状態だった筈なのに、今は助けてもらってこんなにも素晴らしい待遇を受けている。


 人生何があるかわからないとはこのことだと、幹久は身を持って思い知った。



「失礼します。お食事をお持ちしました、入ってもよろしいでしょうか?」


「あ、あぁ。どうぞ……」



 幹久の了承を得たことで、襖はゆっくり開かれた。

 中へ入ってきたのは、先程まで一緒だった若女将ではなかった。彼女と同じ黒髪を首の後ろでしっかり束ねた、小柄な女の子だった。



「えっと、確かさっきの……」


「はい、私の名前は敷島花梨(しきしま・かりん)と言います。この旅館で姉と共に仲居を勤めています。それで、あなた様のお名前は……」


「俺は幹久、西園寺幹久だ」


「西園寺様。こちら、お食事になります。お食事と言っても……賄いの残り物なのですけど、西園寺様のお口に合うと良いんですが……」



 花梨と名乗った少女は表情を曇らせて申し訳なさそうにそう言うと、持ってきてくれた食事を一つ一つ机の上に配膳し始める。手馴れた手つきは、容姿が幼いながらも旅館での仕事経歴が長いことを十分感じ取らせるものだった。



「あのさ、仲居……さん」


「はい、どうされましたか?」


「ここまでしてもらってなんなんだが、本当にコレ……俺が食べていいのか?」


「はい、どうぞお召し上がりください」


「でも俺、お金なんて今一円も持ってないんだが……」


「そんなこと、今はお気になさらず大丈夫です。ご安心してください」


「……じゃあ、いただきます……」



 押し進められるままに、幹久は目の前に並べられている食事に箸を付け始めた。

 光輝く白米から始まり、出汁巻き卵に冷奴、ヒジキの佃煮にお味噌汁もある。

 そして真っ先に幹久が箸を伸ばしたのは、こんがり焼き色のついた鮭だった。



「……う、美味ぁい……」



 実に四日ぶりの食事が、幹久の食道を通って胃の中に収められた瞬間である。

 それからというもの、机の上に置かれた料理が無くなるまで幹久の箸は止まることはなかった。

 食事の途中、目に涙を浮かべて「うまい!」「おいしい!」と連呼してしまう。

 歯ごたえのあるオカズを余すことなく舌の上で堪能し、しっかり二十回以上は噛み、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。



「御馳走様でした!」


「お粗末さまでした。西園寺様、本当にお腹が空いていたんですね」


「四日間、何も食ってなかったからなぁ」


「よ、四日もですか……」



 四日という期間、何も食べていないという幹久の言葉に花梨は苦笑いしか返せない様子だった。



「おにーさん、お体の具合はどうどすか?」



 花梨が空になった器を回収していると、月陽が襖を勢いよく開けて入ってきた。



「お姉ちゃん! お客様のお部屋へ入る時は、ちゃんとお伺いを立てないとっ!」


「まぁまぁ、ええやん。このおにーさんはちゃんとしたお客様ちゃうんやし。花梨だって仕事中はウチのこと『お姉ちゃん』やなくて『若女将』って言うの忘れてはるやん?」


「うっ!」



 痛いところを突かれてしまったのか、花梨からはグゥの音も出ない。



「さてさて、おにーさん。お腹も膨れたことやし、色々教えてもらいましょか」


「あ、あぁ。その前に、その……おにーさんっていうのは勘弁してくれないか。自己紹介もしたんだし、俺の事は幹久って呼んでもらっていいから」


 どこか掴みどころのない若女将にたじろぎながら、幹久は自分の名を呼ぶよう提言する。


「ふーん、じゃあお言葉に甘えて幹久って呼ぶことにするわ」


「お、お姉ちゃん!」


「だから若女将やって……まぁ、もうそのくだりはえぇか。幹久は、どないしてあんなところで寝てはったん? そんなに寝心地がええ場所やとは思えへんけど」



 どうしてあの場に……、月陽からしたら当然の疑問である。


 彼女の質問は至極真っ当で、自分は彼女の質問には答える義務があるのだということは幹久もよく理解していた。


 しかし幹久は、その質問の返答に即答することはできなかった。

 本当のことを話せば、月陽達はおそらく幹久の実家である西園寺家へ連絡してしまうと思ったのである。そうなれば、幹久の父はこの旅館へやってくる。いや、父がやってこなくても誰か遣いの者をよこして幹久を迎えにやってくるだろう。


 そうなってしまえば再び、あの家での生活が始まることになる。父親の言いなりとなって剣の道を進む、一生抗うことのできない辛い日々。


 幹久は、それだけは絶対に嫌だった。


 仮に本当のことを話した上で彼女に黙っていてくれと頼めば……そんなことを考えてもみたが、ここまでお世話になっておいて更に要求を重ねるのは気が引けてしまった。


 仮に月陽達が黙っていても、この旅館には彼女だけでなく、他に何人も従業員がいるだろう。全員が全員、黙ってくれている保証はどこにもない。


 そのため幹久は何も言えず、部屋の中には沈黙だけが続いていた。



「まさか幹久、危ない事をやらかした犯罪者なん? 警察に追われてるとか?」


「ち、違う!」


「道に迷って、遭難されていたんじゃないでしょうか? この旅館の裏山は結構迷いやすいですから……」


「いや、それも違うんだが……」


「じゃあ、一体なんやねん! 家出でもしはったん?」



 家出、と言う単語を耳にした途端、幹久の体は一瞬ビクッと反応した。

 しかしこのままずっと黙っているのは、助けてくれた彼女たちに対してあまりにも失礼だと悟った幹久は、ゆっくりと口を開いた。



「理由は……言えない。でも、助けてくれたことには本当に感謝している」


「幹久、それは答えになってないと思うんやけど」


「言えないんだ、どうしても! ワガママな事は十分わかってる、助けてもらっておいてこんなこというのは失礼だってことも。でも、これだけは言うことはできないんだ!」


 幹久は痛む足を引きずって月陽の前へ行くと、腰を屈めて両手を床に着き、深々と頭を垂れた。



「……もうえぇよ、幹久。頭を上げておくれやす……」



 言われるがまま幹久は頭を上げると、前髪の合間から覗く月陽と目が合った。

 幹久の主観だったが、彼女の目はとても冷たく、それでいてどこか寂しそうな印象を抱いた。そんな目に見られていることが耐えられなくなり、幹久はサッと目を逸らした。



「……どこの誰かもわからん、何があったかも言われへん。そんな素性の知れん人をいつまでもここに置いとくわけにはいかんから、悪いけど幹久は明日にでも出てってもらうで。ウチらもそれ以上は干渉せんから、それでえぇか?」


「お姉ちゃん、明日にでもって……。まだ西園寺様は足の怪我だって――」


「いや、それでいい。何も聞かずにここまでしてくれた、これ以上の待遇は無い」



 居た堪れなくなった花梨は擁護してくれたが、その言葉は幹久自身が制した。



「ほな、今日はしっかり養生してな。安心し、幹久の事は誰にも言わへんし、ちゃんと今日の御飯くらいは出したるから」



 月陽はゆっくりと腰を上げると、ちらりと幹久の姿を一瞥し部屋を出ていった。



「……西園寺様、気を悪くしないでくださいね。お姉ちゃんはあんな風に言ってますけど、心の中ではとても心配していると思いますから」


「月陽も花梨も、俺なんか心配する必要は無いんだぜ。自分で言うのも変だが、俺は理由も話さない不審人物なんだからよ」


「……西園寺様、ちょっと待っていてください」



 そう言って、花梨は幹久の食べ終えた膳を手早く片付け部屋を出る。

 そして、間を置かず戻ってきた。

 よほど急いで戻ってきたのか、彼女の息は荒く、先程まで整っていた長い黒髪も乱れ額には汗をにじませていた。



「旅館で使っている応急用の道具を用意しました、遠慮せずに使ってください!」



 突き出してきたのは、プラスチック製の救急箱だった。箱を開けた中には絆創膏や湿布薬、また化膿止や包帯も目についた。



「でも、本当にいいのかよ?」



「はい! では、何かあればそちらの電話でお呼び下さい。受話器を取れば直接旅館の者につながりますので」


 花梨は部屋の壁に備え付けられている電話を指差すと、笑顔と元気な声を残し部屋を出ていった――。

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