第6話 恩人⑤


 今後こんなに暖かくて、柔らかな布団の上で眠れる日が来るのだろうか――幹久はこの旅館にいる奇跡に感謝して眠りについた。


 いや、正確にはつこうとした――だ。



 幹久の意識はいつまで経っても落ちることがなく、全く眠りにつくことができずにいた。数時間前までは心も体もボロボロで、極限状態まで飢えていたのにも関わらず、今は風呂に入ってお腹も満たされている。


 溜まりに溜まった疲れを癒すのは今しかないのに、目は非常に覚めていた。

 どうして眠ることができないのか、その原因はわかっている。全てはあの時、この旅館の若女将である敷島月陽が見せた顔が幹久をそうさせていたのだ。



「……なんで、あんな顔……」



 瀕死の重傷のところを助けてもらった上に、食事と寝床の提供。そこまでしているのにも関わらず、当の相手へ素性を明かさず質問には一切答えなかった。


 あまりにも身勝手で無神経過ぎる振る舞いに怒りを露わにするならともかく、あんなに寂しそうな眼差し――幹久にはまるで理解が出来なかったのだ。


 そんなことをずっと考えているうちに明るかった空も夕暮れへと変わってしまい、ついには夜を迎えた。


 時間が経つにつれ、建物内も徐々に騒がしくなっていた。

 ここが旅館だということもあって、自分以外の一般人、つまり旅館客がいても当然おかしくはないのだ。できることなら一宿一飯の恩義に応え、何か出来ることがあれば手助けしたかった。


 しかし恩を仇で返すような態度を取ってしまっている上、体もこの状態。

 幹久は自分の不甲斐なさと身勝手さを改めて悔いた。



「西園寺様、失礼します。入ってもよろしいでしょうか?」


「あぁ、どうぞ」



 声の主は花梨だった。

 どうやら夕食を持ってきてくれたらしく、襖を開けて軽く会釈すると彼女は丁寧に机の上へ配膳してくれた。


 月陽とあのようなやり取りを目撃しているにも関わらず、花梨の様子は至って変わったところは無い。それどころか幹久の体、特に右足の方をしきりに気にしているようだった。


 彼女が持ってきてくれた応急処置用の道具を使わせてもらい、幹久の足には痛みを緩和させる湿布と包帯を巻いていた。



「お身体の具合は、どうでしょうか?」


「お蔭さまで随分とマシになったよ、ありがとう」


「回復の一助となれてなによりです。ささ、こちらもお召し上がりください」



 今度の料理も、また目を引く品ばかり。

 食べてもいないのに舌が喜んでいる気がした。



「こんなに美味しそうな料理、本当にいいのか? 俺は花梨やあの若女将にもひどい事を言って……助けてもらった恩を仇で返すような男なんだぞ、それなのに」


「……西園寺様は、困っている人や怪我をしている動物を放っておけますか?」


「え? なんだよ、いきなり」


「私の質問に答えていただけますか?」



 唐突な質問に面食らった幹久だが、少し考え込むと「そんなことは……できないと思う……」と答えた。



「どうしてですか? 放っておいても西園寺様は何一つ得もしないし損もしません。見て見ぬふりで過ごせばそれでいいじゃないですか?」


 花梨の質問の意図が見えてこないので戸惑ってしまったが、彼女の表情は真剣に幹久を見つめていた。だから幹久は彼女の意思に答える為、嘘偽りない本心で「俺が、そうしたいから」と彼女に答えた。



 それを聞いた花梨は、静かに口元を緩めた。



「では、遠慮せずに召しあがってください。これは私やお姉ちゃんがそうしたいから西園寺様にお出ししているのです。恩や見返りなんて、望んでいるわけじゃありませんよ」



 花梨の言葉に胸を打たれた幹久は、今にも流れ出しそうな涙を必死でこらえ、机の上に用意された食事に箸を伸ばした――。


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